このかう申す者は滝 夕顔07章08
原文 読み 意味
この かう申す者は 滝口なりければ 弓弦いとつきづきしくうち鳴らして 火あやふし と言ふ言ふ 預りが曹司の方に去ぬなり 内裏を思しやりて 名対面は過ぎぬらむ 滝口の宿直奏し 今こそ と 推し量りたまふは まだ いたう更けぬにこそは
04084/難易度:☆☆☆
この かう/まうす/もの/は たきぐち/なり/けれ/ば ゆづる/いと/つきづきしく/うち-ならし/て ひ/あやふし/と/いふ/いふ あづかり/が/ざうし/の/かた/に/いぬ/なり うち/を/おぼし/やり/て なだいめん/は/すぎ/ぬ/らむ たきぐち/の/とのゐまうし いま/こそ/と おしはかり/たまふ/は まだ いたう/ふけ/ぬ/に/こそ/は
こう申し上げるこの番人は、滝口の武士であったので、弓弦をこの状況にふさわしくもののみごとにうち鳴らし、「火の用慎」と言ひ立てながら、番人として与えられた自室の方へ去っていった模様。君は内裏のことを思い出しになり、名対面の時刻は過ぎていよう、滝口の宿直奏(トノイモウシ)が今時分のこと、そう推測なされたところをみると、まださほど夜は更けていないのでは。
この かう申す者は 滝口なりければ 弓弦いとつきづきしくうち鳴らして 火あやふし と言ふ言ふ 預りが曹司の方に去ぬなり 内裏を思しやりて 名対面は過ぎぬらむ 滝口の宿直奏し 今こそ と 推し量りたまふは まだ いたう更けぬにこそは
大構造と係り受け
古語探訪
滝口 04084
宮中を警護する武士。滝口だから弓をうまく鳴らすと続くと同時に、光が滝口の宿直奏を思い出すきっかけにもなっている。うまいものだ。
つきづきしく 04084
この語の訳は判を押したようにどこでもどの訳語も「似つかわしく」となるが、似つかわしく鳴らすという現代語は何を意味するのかわからない。と言ってよりよい訳語があるわけでもないが、少なくとも、こんな訳ではよくないという感覚が働くようでなければダメだと思う。まず、この語は、何かことが行われた際に、それがその場の状況にとても適していたという意味であり、形状形容詞でも心情形容詞でもなく、基本的に草子地である。古語では連用形で動詞を修飾するが、意味的にはその動作はその場にふさわしいものだったとなる。英文法で言う文修飾の副詞である。しかし、そのように分析して文構造を組替えて訳したのでは、「つきづきしくうち鳴らし」のシンプルな原文の語感を抹殺してしまう。そこに工夫があるのだ。「その場に似つかわしく…」(「…」にはその場に似つかわしい形容句を入れる)とすれば大体いける。この場合なら、滝口の武士が弓をならすのだから、「その場に似つかわしく力強く」とやればよい。さらに言えば、要するに状況に合っているというのだから、「その場に似つかわしくみごとに」とやっておけば、まず間違いない。「似つかわしく」という訳語とほとんど変化がないが、こちらでは日本語としてなっていないので、すこしの差でも雲泥の違いがあると思うのだが、どうであろう。もちろんこれがベストの訳語ではない。
預りが曹司の方に 04084
「が」は連体格で「曹司」にかかる。主格ではない。番人である男の与えられた自室の意味。
去ぬなり 04084
「なり」は伝聞。
火あやふし 04084
立てつづけられる声から、そっちの方向へ行ったのだろうと話者が推測したのである。光の判断とする注があるが精確ではない。ただ、この前後、話者は光の立場に立っていると見て誤差は少ないであろう。しかし、光が判断したのではなく、話者が聞き手に対して「そちらに去ってゆくように聞こえた」説明しているのである。
名対面 04084
亥の一刻(午後九時頃)にその夜の宿直の者が上司に向って名をなのり、出勤を報告する夜の日課。
滝口の宿直奏し 04084
名対面の後に点呼を受けて名をなのること。夜の九時半頃と考えられている。名対面は宮廷人の点呼で、滝口の宿直奏は武士の点呼。
推しはかりたまふはまだいたう更けぬにこそは 04084
前が事実、後がその事実に対する話者の解釈を示す。Aという事実はBということを意味するのだろうということ。末尾「あらめ」などが省略されている。