内裏にいかに求めさ 夕顔06章14
原文 読み 意味
内裏に いかに求めさせたまふらむを いづこに尋ぬらむ と 思しやりて かつは あやしの心や 六条わたりにも いかに思ひ乱れたまふらむ 恨みられむに 苦しう ことわりなり と いとほしき筋は まづ思ひきこえたまふ 何心もなきさしむかひを あはれと思すままに あまり心深く 見る人も苦しき御ありさまを すこし取り捨てばや と 思ひ比べられたまひける
04076/難易度:☆☆☆
うち/に いか/に/もとめ/させ/たまふ/らむ/を いづこ/に/たづぬ/らむ/と おぼし/やり/て かつは あやし/の/こころ/や ろくでう/わたり/に/も いかに/おもひみだれ/たまふ/らむ うらみ/られ/む/に くるしう ことわり/なり/と いとほしき/すぢ/は まづ/おもひ/きこエ/たまふ なにごころ/も/なき/さしむかひ/を あはれ/と/おぼす/まま/に あまり/こころふかく みる/ひと/も/くるしき/おほむ-ありさま/を すこし/とり/すて/ばや/と おもひ/くらべ/られ/たまひ/ける
帝におかれては、どれほどわたくしを探しておいでだろう、使者がどこへ尋ねていることかとご心配になって、それにしてもわけのわからない我が心よ、六条の方におかれても、どれほど思い苦しんでおいでだろうか、お恨みになろうと思えばつらいが当然だと、もうしわけなく感じるお方としては真っ先に心をお留め申し上げになる。何も考えずただ差し向かいでいるのを愛しいとお感じになるままに、あまりに心入れが深く、世話する者までが息の詰まるご様子をすこし取り除きたいと、気づくと二人を思い比べになっておられた。
内裏に いかに求めさせたまふらむを いづこに尋ぬらむ と 思しやりて かつは あやしの心や 六条わたりにも いかに思ひ乱れたまふらむ 恨みられむに 苦しう ことわりなり と いとほしき筋は まづ思ひきこえたまふ 何心もなきさしむかひを あはれと思すままに あまり心深く 見る人も苦しき御ありさまを すこし取り捨てばや と 思ひ比べられたまひける
大構造と係り受け
古語探訪
内裏に 04076
帝においては。
いづこに尋ぬ 04076
光を探しに差し出した帝の使者。
思しやり 04076
主体は帝。
かつは 04076
同時並行。自分に関しては「それにしても」。他のことなら「それにつけても」。
思ひ乱れ 04076
心の整理がつかない様。
いとほしき 04076
相手にすまないと思う気持ち。六条御息所に関して光はいつも申し訳なく感じている。もはやこれは恋愛の対象とは言い難い、御息所の不満もあるいは、光のそうした態度にあるのかも知れない。
何心もなきさしむかひ 04076
「何心もなき」は夕顔の無心な様子と注されている。それは「あまり心深く」が御息所であるのに対比してのことであろう。しかし、差し向かいでいてもリラックスできる光の側の気持ちではないか。対比関係は「見る人も苦しき御ありさま」に対して「何心もなきさし向かひ」である。相手を息苦しくさせる様子と、何も気にせずいられる対座である。
取り捨て 04076
下二段動詞なので他動詞。光が御息所の欠点を取り捨てたいのである。
ばや 04076
自分がそうしたいという気持ち。
思ひ比べられたまひける 04076
「られ」はすでに尊敬の「たまひ」があるので、ここは自発と考える。それは「ける」が、「思すままに」を受けることから、気づきの「けり」であるので、自発と気づきは呼応関係をとるからである。ふと気づくとふたりを引き比べていたという感じ。問題はここにある。この帖の最初に、夕顔を取り殺す霊には、六条御息所の霊とする説とそうでないとする説があり、現在どちらの説が有力ともしかねている(らしい、よくは知らないが)現状を紹介した。と同時に、私は御息所説であり、その根拠があることも付け加えておいた。それがここである。ここというのは、以後度々、御息所の霊は出てくる。葵の上を殺す霊は、御息所でないとの説は立っていない。重要なのは、御息所が霊となる直前で、いつも御息所のことが話題になっているのであり、それは概ね悪口である。さらに言えば、御息所が悪口を言われた個所は、霊になって出現しているのである。必ずそうであった記憶があるが、確かめるのは、読みながらの宿題にしておこうと思う。霊が出る、必要十分条件は以上のごときであり、ここでも御息所の悪口の後であり、その霊は御息所以外に考えられない。この「話題―霊」という関係は、洋の東西を問わずある。例えば、『アッシャー家の崩壊』という有名なポーの短篇があるが、そこに出るロドリック・アッシャーの妹マドライン(Madeline)(狂った血筋だからマドラインである、マデラインやマデランではない。因みにアッシャーは導くという動詞の意味がある)は、やはり名を呼ばれたときに出現し、呼ばれない時には出現しないのである。(そもそも西洋には、三位一体という父・子・聖霊の関係があり、聖霊とは言葉であり、その言葉に神が宿るという関係があるのだ。アッシャー家・アッシャー・マドラインがこの三位一体のパロディーになっている)それはさておき、言霊信仰を持つのはわが国だけではないのだ。「話題―霊」の関係はおそらく探せばまだまだ文学に霊がみつかるだろうと思う。これも「言葉―事柄」関係の変種であること、言うまでもない。