明け方も近うなりに 夕顔05章08

2021-04-22

原文 読み 意味

明け方も近うなりにけり 鶏の声などは聞こえで 御嶽精進にやあらむ ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる 起ち居のけはひ 堪へがたげに行ふ いとあはれに 朝の露に異ならぬ世を 何を貧る身の祈りにか と 聞きたまふ 南無当来導師 とぞ拝むなる

04061/難易度:☆☆☆

あけがた/も/ちかう/なり/に/けり とり/の/こゑ/など/は/きこエ/で みたけさうじ/に/や/あら/む ただ/おきなび/たる/こゑ/に/ぬかづく/ぞ/きこゆる たちゐ/の/けはひ たへがたげ/に/おこなふ いと/あはれ/に あした/の/つゆ/に/ことなら/ぬ/よ/を なに/を/むさぼる/み/の/いのり/に/か/と きき/たまふ なむ/たうらい/だうし/と/ぞ/おがむ/なる

明け方近くにもなっていた。鳥の声などは聞こえなくて、御岳精進であろうか、ただ年寄りじみた声で礼拝するのが聞こえる。立ち居の所作もつらそうに勤行する、とても不憫にお感じながら、朝の露に変りないこの世を、何をむさぼろうとわが身の利益(リヤク)を祈るのかとお聞きになる。南無当来導師と拝んでいるようだ。

明け方も近うなりにけり 鶏の声などは聞こえで 御嶽精進にやあらむ ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる 起ち居のけはひ 堪へがたげに行ふ いとあはれに 朝の露に異ならぬ世を 何を貧る身の祈りにか と 聞きたまふ 南無当来導師 とぞ拝むなる

大構造と係り受け

古語探訪

御岳精進 04061

吉野の金峰山(キンプサン)に参籠する前に行う千日間の精進潔斎。

ぬかづく 04061

「起居のけはひたへがたげに」とあることから、五体投地(仏教徒が行なう敬礼法で、初めに両膝、つぎに両肘を地につけて、合掌して頭を地につける最敬礼)をしているのだろう。

いとあはれに 04061

光は行者に対して、どうしてそれを茶化すような言葉を吐いたのか、理解しがたい。当時の現世利益を追求する修験者に反発する意図が、作者にあったと考えることもできるが、以後の帖から考え、そうした修験道への永続的批判は考えにくい。だとすれば、これはこれで、物語的に意味があるはずである。一読、話の筋にかかわらなく見える個所が、実は重要である、ないしは、作者があえて書きたかったことであるはずだ、という読み方がわたしの立場である。
それはそうと、この一節が物語の中でどういう役割を果たすのか、つかみにくい。正直言って証明はできないが、現時点でできる私の読みは、行者をけなすというタブーを犯すこと、魔界の扉を光自らあけたのではないか。

南無当来導師 04061

修験道が現世利益であるのに対して、仏教は現世利益の側面は本来ない。ただ、平安時代は、その両者が混ざり合った微妙な時期であった。仏道に関心の深い光は、現世利益を願う行者を茶化したが、修験道には、仏教的な要素もあるのである。それが「南無当来導師」という唱えの文句で、光の耳にとどく。金峰山の金剛蔵王は、釈迦入滅後、五十六億七千万年後である来世に、新たな釈迦となって弥勒菩薩が現れるときに、その守護をする神。南無はすべてをすてて帰依すること。当来導師は、弥勒菩薩の別名。その名を唱えることは、仏教徒でもあるのだ。それを茶化したところに、夕顔の死を間近に体験するという、貴種流離のきっかけを見る。しかし、そうしたタブーを犯していることに光は気づかず、先に「この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふ」とあった自分の誓いを傍証するために、あの修験道も、この世だけがすべてでないと思っているじゃないかと我田引水する。「思はざりけり」の「けり」は気づきのけり。「南無当来導師」と聞いて気づいたのである、現世利益だけでなく、来世のことにも、この修験道が関心あることに。「あはれがりたまひて」は、勤行に励む行者をあわれんでとの注が一般的だが、これは『注釈』の通り、夕顔に対する情愛である。何をむさぼる身の祈りと行者をけなしながら、自分の恋の道のために優婆塞を利用しようとしている点で光は罪が深い。「あはれがりて」は「来む世も深き契りたがふな」にかかってゆき、行者はダシに使われているだけである。「かね」は今から将来のことを見こんでおくこと。「行く先の御頼め」:これは前回の「この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふ」を受ける。行く先の御頼めは、あの世、すなわち死後の世界の意味と、先に注した仏教でいう弥勒菩薩が出現する来世の意味をかねるので、先に誓ったのはあの世でもの意味でいわば常套句であるが、今回の優婆塞云々は、五十六億七千万年後という途方もない先のことで、あまりにご大層だとの意味。

Posted by 管理者