かかる筋はまめ人の 夕顔04章11
原文 読み 意味
かかる筋は まめ人の乱るる折もあるを いとめやすくしづめたまひて 人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを あやしきまで 今朝のほど 昼間の隔ても おぼつかなくなど 思ひわづらはれたまへば かつは いともの狂ほしく さまで心とどむべきことのさまにもあらずと いみじく思ひさましたまふに 人のけはひ いとあさましくやはらかにおほどきて もの深く重き方はおくれて ひたぶるに若びたるものから 世をまだ知らぬにもあらず いとやむごとなきにはあるまじ いづくにいとかうしもとまる心ぞ と返す返す思す
04050/難易度:☆☆☆
かかる/すぢ/は まめびと/の/みだるる/をり/も/ある/を いと/めやすく/しづめ/たまひ/て ひと/の/とがめ/きこゆ/べき/ふるまひ/は/し/たまは/ざり/つる/を あやしき/まで けさ/の/ほど ひるま/の/へだて/も おぼつかなく/など おもひ/わづらは/れ/たまへ/ば かつは いと/もの-ぐるほしく さ/まで/こころ/とどむ/べき/こと/の/さま/に/も/あら/ず/と いみじく/おもひ/さまし/たまふ/に ひと/の/けはひ いと/あさましく/やはらか/に/おほどき/て もの-ふかく/おもき/かた/は/おくれ/て ひたぶるに/わかび/たる/ものから よ/を/まだ/しら/ぬ/に/も/あら/ず いと/やむごとなき/に/は/ある/まじ いづく/に/いと/かう/しも/とまる/こころ/ぞ と/かへすがへす/おぼす
こうした色恋に関しては、堅物が道を踏みはずす時もあるのに、とても人の目に映りよく高ぶる想いを静め、世間が非難申し上げるような身勝手な振舞いはこれまでなされなかったのに、自分でもあやしいくらい、別れて間もない朝の間も、逢うことのならない昼の時間も、女のことが気になってならないなど、思い悩んでおられるため、片や、まったく気違いじみた感情で、そこまで熱を入れねばならぬ事態でもないと、極力想いをさまそうとなされるが、片や、この人の感じは実に信じ難いぐらい当たりがやわらかでおっとりしており、思慮深さや堅実なところはあまりなく、ただただ幼い様子をしているものの男性経験がなくもなく、たいそう高貴な生まれというでもあるまい、なのに、どこに惹かれてまったくこうも夢中になるのかと、何度も何度も自問なさる。
かかる筋は まめ人の乱るる折もあるを いとめやすくしづめたまひて 人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを あやしきまで 今朝のほど 昼間の隔ても おぼつかなくなど 思ひわづらはれたまへば かつは いともの狂ほしく さまで心とどむべきことのさまにもあらずと いみじく思ひさましたまふに 人のけはひ いとあさましくやはらかにおほどきて もの深く重き方はおくれて ひたぶるに若びたるものから 世をまだ知らぬにもあらず いとやむごとなきにはあるまじ いづくにいとかうしもとまる心ぞ と返す返す思す
大構造と係り受け
古語探訪
人のとがめきこゆべき振る舞ひをしたまはざりつるを 04050
空蝉との一件があり、到底人が非難するような行動をしていないとは言えないので、この表現は、『夕顔』を『帚木』『空蝉』とは独立した短編として作られているが、強弁であるとする説がある。それに対して、空蝉の一件は、「忍びたまひける隠ろへごと」(『帚木』冒頭)の部類であり、世間の目に伝わっていない『注釈』は説き、『帚木』『空蝉』『夕顔』に一貫性を認める。
いとやむごとなきにはあるまじいづこにいとかうしもとまる心ぞ 04050
描出話法で光の心内語。結局、夕顔に惹かれる理由は、性格のおだやかさでも、男性経験がある点(この時代、男性経験があるのは有利である点を押さえておきたい)でも、出自の良さでもなく、よくわからないのである。注意したいのは、「いとやむごとなきにはあるまじ」という心内語。高貴な出の女性なら好きになる理屈になりうるのだ。何度も繰り返してきたが、雨夜の品定めにより、中流以下の女性に開眼したわけではない。出自のよい女性=よい女という関係式は身にしみており、そう簡単には崩れないのである。
ここは女の立場から光をどう見ているかが述べられている。省略により、光がどのようにして夕顔のもとに通うことになったのか、私たちにはわからない。しかし、光を好きになって通うのを許したのではなく、惟光の手管にかかり、意思に反したものであったらしい。前回の「いとあさましくやはらかにおほどきて」に表されているが、女は嫌と言えない性格なのだ。
ここで一言、物語の読解において一番重要なこと(と、私が考えること)に関して述べておきたい。物語に限らず、すべての文章(文意が通じる限りにおいて)には中心テーマがある。部分部分においては、前後の文脈により、意味はさまざまな方向を取りうるが、文章全体としては、中心テーマに収斂してゆくのである。源氏物語の中心テーマは、光と藤壺の道ならぬ恋(その変相としての光と紫の上の関係の成熟)にある。空蝉・軒端荻・夕顔ほか多数の女性と関係しようが、物語全体としては藤壺(紫の上)へと物語は流れこむ。近くに金属(その時々の浮気相手)がない限り、方位磁石は常に北(藤壺・紫の上)を指すようなものだ。短期的な焦点として夕顔がクローズアップされている間は、意味のベクトルは夕顔に向かうが、そうでない場合は常に藤壺に向いているのである。「いとめやすくしづめたまひて人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつる」に関しても、漠然と日ごろの行動原理を説いているのではなく、物語にはめこまれた瞬間、物語固有の時空のゆがみにのみこまれ、針は中心主題へと向かってしまうのだ。物語を読むとは、このゆがみに沿って物語を解きほぐすことであり、何も断られないでも、常に中心主題との関わりで読むことが強いられるのだ。雨夜の品定めにおいて、藤壺への思慕を常に基底において読んだのは、こうした方法論をとるからである。宇宙空間のあらゆる物体が、万有引力により、あらゆる物体と引き合うように、すべての語、すべてのフレーズが、辞書的意味と前後による文脈に加え、物語内の万有引力ともおぼしき主題へ向かう大きな流れという偏倚がかかるのである。「いとめやすくて……」について言うと、辞書的意味では漠然と日ごろの行動原理でしかない。前後の文脈を加味すると、恋する女性に対する行動原理であることが判明する。中心テーマを考慮すれば、藤壺への行動原理であると、意味はさらに限定されるのだ。非常に単純な例を出したが、理論的には、ある語の意味をとるには、その語への影響の最も強い力、次に影響の強い力、次に影響の強い力……延々物語の全てにわたりこれを繰り返した後、意味は決定されるのである。実際には、最初のいくつかが問題となり、それが辞書・文脈・主題の三ベクトルの合成となるのだ(文脈を決定するには、やはり、その前後、そのまた前後……とかなり大きな流れをつかむ必要があるし、影響個所が他の帖であることもありうるのだ)。これまでの注釈は、あまりにその場その場の解釈をし過ぎた。辞書の意味を押しこみ、ちょちょっと文脈の塩を効かせてこと足れりとする割合がすこぶる多かった。方法論として、そうした近視眼的読みとは決別する。それが功を奏するか否かは、読者の判断である。(辞書の作られ方を一考すれば、辞書の意味がいかに当てにならないか知れようものだが、これはまた別の機会にしよう。)なお、「ふるまひ」は、単に行動一般を言うのではなく、盲目的な恋の暴走などのような身勝手なふるまいを特に指す。