去年の秋ごろかの右 夕顔12章06

2021-04-25

原文 読み 意味

去年の秋ごろ かの右の大殿より いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に せむかたなく思し怖ぢて 西の京に 御乳母住みはべる所になむ はひ隠れたまへりし それもいと見苦しきに 住みわびたまひて 山里に移ろひなむと思したりしを 今年よりは塞がりける方にはべりければ 違ふとて あやしき所にものしたまひしを 見あらはされたてまつりぬることと 思し嘆くめりし

04146/難易度:☆☆☆

こぞ/の/あきごろ かの/みぎ-の-おほとの/より いと/おそろしき/こと/の/きこエ/まで/こ/し/に ものをぢ/を/わりなく/し/たまひ/し/みこころ/に せむかたなく/おぼし/をぢ/て にし-の-きやう/に おほむ-めのと/すみ/はべる/ところ/に/なむ はひ-かくれ/たまへ/り/し それ/も/いと/みぐるしき/に すみ/わび/たまひ/て やまざと/に/うつろひ/な/む/と/おぼし/たり/し/を ことし/より/は/ふたがり/ける/かた/に/はべり/けれ/ば たがふ/とて あやしき/ところ/に/ものし/たまひ/し/を み/あらはさ/れ/たてまつり/ぬる/こと/と おぼし/なげく/めり/し

去年の秋ごろ、あの正妻である右大臣邸からとても恐ろしい話が聞こえてまいりまして、もの怖じを滅法なされるご性分だったため、解決の手立てもなく不安におびえ、西の京にいる乳母が住んでおりますところに、そっと身をひそませました。そこもとても見ていられない場所で、住みづらく思われ、山里に移ってしまおうとお考えになったものの、今年から方塞がりにあたる方角でしたから、方違えをしようと、あやしげな場所に身をひそめていらっしゃったところを、見つけ出されてしまったことだとお嘆きのご様子でした。

去年の秋ごろ かの右の大殿より いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に せむかたなく思し怖ぢて 西の京に 御乳母住みはべる所になむ はひ隠れたまへりし それもいと見苦しきに 住みわびたまひて 山里に移ろひなむと思したりしを 今年よりは塞がりける方にはべりければ 違ふとて あやしき所にものしたまひしを 見あらはされたてまつりぬることと 思し嘆くめりし

大構造と係り受け

古語探訪

右の大殿 04146

頭中将の正妻である右大臣の娘のもとから。

参で来し 04146

「参り来し」の音便。

西の京 04146

京との西半分。当時は、人がすくなく、住む場所としては適していなかった。

塞がりける 04146

乳母の家から山里に向う方向が、方塞がりのため、いったん別の場所に「違ふ」うつったのが、惟光の母の家の隣である、五条の場所である。

見あらはされたてまつりぬることと思し嘆く 04146

まず末尾の「思し嘆く」は夕顔がお悲しみになった、と右近から夕顔に対する尊敬。その前は、悲しんだ内容なので、主体は夕顔、夕顔の心中である。「見あらはす」は隠れているのを表に引き出すこと。正体をみぬくこと。「され」は受身。すなわち、主語は受身である自分なので、尊敬語は入らない。「たてまつり」は、ひっぱり出された方向である相手に対する敬語。さて、一般の説では、光によって夕顔が見つけ出されたと考えるが、夕顔は光から隠れていたのではなく、頭中将に対して隠れていたのであり、だからこそ、見つかって思い嘆いたのである。仮に光に見つかり思い嘆いたということがあったにしても、右近の立場から、そんな話はできるものではない。すなわち、「見あはらされ」の原義からと、古典の読解常識、および頭中将から隠れていたという文脈から考えて、頭中将にみつかったと夕顔は最初思ったのだととるのが自然である。この解釈は、すでにふたりが交わした歌の歌意から、そう読む以外ないことは説明した。「思し嘆くめりし」の「めり」は、嘆いていたらしいの意味ではなく、嘆いていた理由は、上のものであろうという推量。嘆いていたことは右近が一番よく知っているはずである。従ってこの「めり」は「思し嘆く」を受けるのではなく、「見あらはされたてまつりぬることと思し嘆く」全体を受けるのである。

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