04夕顔06

2020-05-24

夕顔 原文 04-085/04-100

086君も かくうらなくたゆめてはひ隠れなば いづこをはかりとか 我も尋ねむ かりそめの隠れ処と はた見ゆめれば いづ方にもいづ方にも 移ろひゆかむ日を いつとも知らじ と思すに 追ひまどはして なのめに思ひなしつべくは ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを さらにさて過ぐしてむ と思されず と 人目を思して 隔ておきたまふ夜な夜ななどは いと忍びがたく 苦しきまでおぼえたまへば なほ誰れとなくて 二条院に迎へてむ もし聞こえありて 便なかるべきことなりとも さるべきにこそは 我が心ながら いとかく人にしむことはなきを いかなる契りにかはありけむ など 思ほしよる  087いざ いと心安き所にて のどかに聞こえむ など 語らひたまへば なほ あやしう かくのたまへど 世づかぬ御もてなしなれば もの恐ろしくこそあれと いと若びて言へば げにと ほほ笑まれたまひて げに いづれか狐なるらむな ただはかられたまへかしと なつかしげにのたまへば 女もいみじくなびきて さもありぬべく思ひたり 088世になく かたはなることなりとも ひたぶるに従ふ心は いとあはれげなる人 と見たまふに なほ かの頭中将の常夏疑はしく 語りし心ざま まづ思ひ出でられたまへど 忍ぶるやうこそは と あながちにも問ひ出でたまはず 089気色ばみて ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ かれがれにとだえ置かむ折こそは さやうに思ひ変ることもあらめ 心ながらも すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ とさへ 思しけり
090八月十五夜 隈なき月影 隙多かる板屋 残りなく漏り来て 見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに 暁近くなりにけるなるべし 隣の家々 あやしき賤の男の声々 目覚まして あはれ いと寒しや 今年こそ なりはひにも頼むところすくなく 田舎の通ひも思ひかけねば いと心細けれ 北殿こそ 聞きたまふやなど 言ひ交はすも聞こゆ  091いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて そそめき騒ぐもほどなきを 女いと恥づかしく思ひたり  092艶だち気色ばまむ人は 消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし  093されど のどかに つらきも憂きもかたはらいたきことも 思ひ入れたるさまならで 我がもてなしありさまは いとあてはかにこめかしくて またなくらうがはしき隣の用意なさを いかなる事とも聞き知りたるさまならねば なかなか 恥ぢかかやかむよりは 罪許されてぞ見えける  094ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく 踏み轟かす唐臼の音も 枕上とおぼゆる あな 耳かしかまし と これにぞ思さるる 何の響きとも聞き入れたまはず いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ くだくだしきことのみ多かり  095白妙の衣うつ砧の音も かすかにこなたかなた聞きわたされ 空飛ぶ雁の声 取り集めて 忍びがたきこと多かり  096端近き御座所なりければ 遣戸を引き開けて もろともに見出だしたまふ ほどなき庭に されたる呉竹 前栽の露は なほかかる所も同じごときらめきたり  097虫の声々乱りがはしく 壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に さし当てたるやうに鳴き乱るるを なかなかさまかへて思さるるも 御心ざし一つの浅からぬに よろづの罪許さるるなめりかし  098白き袷 薄色のなよよかなるを重ねて はなやかならぬ姿 いとらうたげにあえかなる心地して そこと取り立ててすぐれたることもなけれど 細やかにたをたをとして ものうち言ひたるけはひ あな 心苦し と ただいとらうたく見ゆ 心ばみたる方をすこし添へたらば と見たまひながら なほうちとけて見まほしく思さるれば いざ ただこのわたり近き所に 心安くて明かさむ かくてのみは いと苦しかりけり とのたまへば いかで にはかならむと いとおいらかに言ひてゐたり  099この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに うちとくる心ばへなど あやしくやう変はりて 世馴れたる人ともおぼえねば 人の思はむ所も え憚りたまはで 右近を召し出でて 随身を召させたまひて 御車引き入れさせたまふ  100このある人びとも かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば おぼめかしながら 頼みかけきこえたり

夕顔 原文かな 04-085/04-100

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

きみも かくうらなくたゆめてはひかくれなば いづこをはかりとか われもたづねむ かりそめのかくれがと はたみゆめれば いづかたにもいづかたにも うつろひゆかむひを いつともしらじ とおぼすに おひまどはして なのめにおもひなしつべくは ただかばかりのすさびにてもすぎぬべきことを さらにさてすぐしてむ とおぼされずと ひとめをおぼして へだておきたまふよなよななどは いとしのびがたく くるしきまでおぼエたまへば なほたれとなくてにでう-の-ゐんにむかへてむ もしきこエありてびんなかるべきことなりとも さるべきにこそは わがこころながら いとかくひとにしむことはなきを いかなるちぎりにかはありけむ などおもほしよる いざ いとこころやすきところにて のどかにきこエむ など かたらひたまへば なほ あやしう かくのたまへど よづかぬおほむ-もてなしなれば もの-おそろしくこそあれ と いとわかびていへば げにと ほほゑまれたまひて げに いづれかきつねなるらむな ただはかられたまへかし と なつかしげにのたまへば をむなもいみじくなびきて さもありぬべくおもひたり よになく かたはなることなりとも ひたぶるにしたがふこころは いとあはれげなるひととみたまふに なほかのとう-の-ちうじやうのとこなつうたがはしく かたりしこころざま まづおもひいでられたまへど しのぶるやうこそはと あながちにもとひいでたまはず けしきばみてふとそむきかくるべきこころざまなどはなければ かれがれにとだエおかむをりこそは さやうにおもひかはることもあらめ こころながらも すこしうつろふことあらむこそあはれなるべけれ とさへ おぼしけり
はちぐわちじふごや くまなきつきかげ ひまおほかるいたや のこりなくもりきて みならひたまはぬすまひのさまもめづらしきに あかつきちかくなりにけるなるべし となりのいへいへ あやしきしづのをのこゑごゑ めさまして あはれ いとさむしや ことしこそ なりはひにもたのむところすくなく ゐなかのかよひもおもひかけねば いとこころぼそけれ きたどのこそ ききたまふや など いひかはすもきこゆ いとあはれなるおのがじしのいとなみにおきいでて そそめきさわぐもほどなきを をむないとはづかしくおもひたり えんだちけしきばまむひとは きエもいりぬべきすまひのさまなめりかし されど のどかに つらきもうきもかたはらいたきことも おもひいれたるさまならで わがもてなしありさまは いとあてはかにこめかしくて またなくらうがはしきとなりのよういなさを いかなることともききしりたるさまならねば なかなか はぢかかやかむよりは つみゆるされてぞみエける ごほごほとなるかみよりもおどろおどろしく ふみとどろかすからうすのおとも まくらがみとおぼゆる あな みみかしかましと これにぞ おぼさるる なにのひびきともききいれたまはず いとあやしうめざましきおとなひとのみききたまふ くだくだしきことのみおほかり しろたへのころもうつきぬたのおとも かすかにこなたかなたききわたされ そらとぶかりのこゑ とりあつめて しのびがたきことおほかり はしちかきおましどころなりければ やりどをひきあけて もろともにみいだしたまふ ほどなきにはに されたるくれたけ せんさいのつゆは なほかかるところもおなじごときらめきたり むしのこゑごゑみだりがはしく かべのなかのきりぎりすだにまどほにききならひたまへるおほむ-みみに さしあてたるやうになきみだるるを なかなかさまかへておぼさるるも みこころざしひとつのあさからぬに よろづのつみゆるさるるなめりかし しろきあはせ うすいろのなよよかなるをかさねて はなやかならぬすがた いとらうたげにあエかなるここちして そこととりたててすぐれたることもなけれど ほそやかにたをたをとして ものうち-いひたるけはひ あな こころぐるしと ただいとらうたくみゆ こころばみたるかたをすこしそへたらば とみたまひながら なほうちとけてみまほしくおぼさるれば いざ ただこのわたりちかきところに こころやすくてあかさむ かくてのみは いとくるしかりけり とのたまへば いかで にはかならむ と いとおイらかにいひてゐたり このよのみならぬちぎりなどまでたのめたまふに うちとくるこころばへなど あやしくやうかはりて よなれたるひとともおぼエねば ひとのおもはむところも えはばかりたまはで うこんをめしいでて ずいじんをめさせたまひて みくるまひきいれさせたまふ このあるひとびとも かかるみこころざしのおろかならぬをみしれば おぼめかしながら たのみかけきこエたり

夕顔 現代語訳 04-085/04-100

君にしても、女がこのように心に何の隠し立てなく安心させておいてこっそり姿を隠してしまったならば、どこを当て所として尋ね出せばよいのか、どうもここは仮りの隠れ家らしく見えるからは、どこへなりとも移って行くであろう、その日をいつとも知りようがないと心配するにつけ、追うにも行方が知れず困惑した際、たいした玉でもなかったと思える女であれば、ただこのくらいの遊びということでもすませてしまえるものだが、到底そんな風に忘れていられようとはお思いになれなくて、人目を気にされお通いの途絶えた夜な夜ななどは、本当に忍び難く苦しいくらい恋しくなられたので、やはり誰ともあかさずに二条院に迎えよう、もし人の耳に入り、都合のよくない事態であっても、そうなるよりないからは、わが心ながら、まったくこんな風に人に執着することなんかないのに、どのような前世の縁だったのかと、そんなことまでお考えになる。
「さあ、とても安心できるところで、ゆっくりとお話し申し上げましょう」などとお誘いになると、やはり怪しいわ、あんな風におっしゃるが、普通の結婚とは違うなさり方なので、「恐ろしくてならないから」と、たいそう子供じみた言い方をすると、まったくそうだとつい微笑みになられて、
「まったくどちらが狐なんだろうね。ただ私に化かされていらっしゃい」と、魅入られたようにおっしゃるので、女の方でも不思議になびきより、そうなるのも運命かもしれないと思った。
世にはずれた異常な愛の形であっても、一途に従う気持ちは、とてもいとしく感じられる人だとご覧になるにつけ、やはりあの頭中将の常夏かと疑われ、話で聞いたその性格をいろいろすぐに思い出しになられたが、身を隠すにはそれだけの理由があろうからと、強いて聞き出そうとはなさらない。
気色ばんで、いきなり心なく姿をくらましてしまうような性格などはないので、まったく通うのを途絶えたままにしておく場合なら、頭中将の時のように心変りすることもあろうが、それにしても自分の気持ちながら不思議なことに、すこし気移りするゆとりがあれば、余裕をもって愛せるのにと、そんな風にまでお思いになるのであった。
八月の十五夜、残るくまなく照らす望月の光が、隙間の多い板屋の隅々にまで漏れ入り、見なれておいででない住まいの様子もめずらしいが、その上、暁近くになったのであろう、近隣の家々からは、下賎な身の男たちが目を覚まして、声々に「ああ、なんて寒いんだ」「今年はついに商売も見込めず、田舎への行商も当てにならなくて、実に心細いことだ。北隣さんお聞きかね」など、言い交わすのも聞こえる。それぞれがひどくあわれななりわいのために起き出し立ち働くことに対しても、間近であることが女にはとても恥ずかしく思われる。気取ったり見栄っぱりな人なら、きっと消え入りそうな住まいの様子なのであろう。それにもかかわらずおっとりとして、たえがたいことも、いやなことも、きまりが悪いことも、気にとめる様子はなくて、その物腰や様子はとても上品であどけなくて、このうえなく騒々しい隣のぶしつけな態度を、どういうことなのか理解しているようにはないので、なまじ恥ずかしがって顔を赤らめるよりは、罪がないように思わるのであった。ごろごろと雷鳴よりもおどろおどろしい音を立てて踏み鳴らす唐臼のとどろきも、すぐ枕元かと思われ、ああうるさいとこれにはびっくりされる。何の響きともお分かりになれず、なんとも異様でうるさい音だとばかりお聞きになる。煩わしいことばかり多いのだ。
粗末な衣を打つ砧の音も、かすかにおちこちより聞こえてきて、空を渡る雁の声も、一緒にしたように加わって、たえがたい事柄が多い。
縁側に近い御座所であったから、引戸を開けて、ふたり一緒に外をごらんになる。奥行きのない庭に、洒落た淡竹(ハチク)があり、植込みの露は、このような場所でもやはり同じようにきらきらと輝いていた。多くの虫の音が入り乱れており、壁の中に住むこおろぎでさえ、遠くのことのようにしか聞きなれておられない御耳に、じかにひびくように鳴きたてるのを、かえって様変りしてお感じになるのも、女へのひたむきな愛情が浅からぬゆえであり、光の思いひとつにより、すべての前世からの罪は許されるのではないかしら。
白い袷に薄紫の着慣れた上着を重ねて、清楚にしている姿が、とても愛らしく触れればこぼれ落ちそうな感じがして、どこと取りたてて優れたところもないのだが、細やかになよなよとしながら、ぽつり、ぽつりとものを言う様子がああ痛々しいと思われるほど、ただひたすらいじらしく見える。心の内を露わにする面をすこし加えてはとご不満ながら、それでももっと心をうちとけた風にしてい逢いたいとお思いになられ、
「さあ、ついこのあたりの近くで、気を楽にして夜を明かそう。こんなふうにばかりしていてはとても息が続かない」とおっしゃると、
「どうしてそんな。急だわ」ととてもおっとりと言って座っている。
この世だけでなく来世の契りまで信じさせになると、ひとたびゆるした気持ちの顕し方は奇異に思われるほどうって変ったものとなり、それが君には世馴れた女の媚態とも思われないので、誰がどう思おうが気にされることもなく、右近を召出し、随身を呼ぶように命じられて、お車を縁まで引き入れさせになる。この家の者たちも、こうした君のご愛情がおろそかでないことを見知っているので、相手の素性がよくわからないながら、主人のことをお頼み申し上げる。

夕顔注釈 04-085/04-100

君も 04-086

「思すに」にかかる。夜な夜な通ってくる相手が誰ともわからず夕顔が不安であったように光も不安であった、の意味。ただし、夕顔の不安が、相手が変化のものではないかという恐怖心であったのに対して、光の場合は相手がいなくなるのではないかという不安であり、その内容が違う。数回前あたりから、光と夕顔と交互にカメラを切り替え、「も」を媒介に(「女も」「女方も」「男も」)、接点を微妙にずらしながらも、それぞれの内面を描き出す手腕は、小説のテクニックとしても読みどころである。「たゆめ」は他動詞。相手を油断させる。

はかり 04-086

目当ての意味であるが、手負いの動物が逃げてゆく際、血を点々としたたらせてゆくが、この血を目当てに追うという具体的なイメージが万葉の昔よりある。平安期の女流文学者にどこまで生々しいイメージを結ぶ語であったかはわからないが、言語感覚に特別秀でていた紫式部には、そうした古代的な言語イメージを見据えつつ使用したのではないかと想像する。

かりそめの隠れ処 04-086

光が通出だした現在住んでいる場所のこと。

はた 04-086

ちょうど、おりしもなど、二つの事柄が出会った時の感動・感慨を強調する。この場合は、行く先がわからないことと、今の家が仮住まいであるということ。その二つのことがぶつかった時に、「はた」という主観的な言葉が口をつくのである。二つのことがぶつかるので、また(also)の意味と混同されているが、または事実を単に列挙するのみで、そこに感慨はない。はたには常に気持ちがこもっていると考えてよい。

追ひまどはして 04-086

追いかけてみるもののそれを取り逃すことで、自分の気持ちを動揺させる意味。

なのめ 04-086

いい加減に。

さるべき 04-086

そうなるのが必然であるの意味。

我が心ながら 04-086

「いかなる契りにかはありけん」にかかる。

いとかく人にしむことはなきを 04-086

挿入句。

思ほしよる 04-086

思い寄るの意味だが、恋愛のことから、前世の縁についてまで考えが及んだということ。

なほあやしうかくのたまへど世づかぬ御もてなしなれば 04-087

ふつうは、夕顔の会話ととるが、夕顔の心内語を語り手が代わって述べている地の文と考える。「やはり変だ」と相手の男に向かって言うのは、やはり変だから。「世」に世間の意味と男女の仲の両意があるから、「世づかぬ」は世間並みでないという広義の意味と、世間の男女の関係とは違うという狭義の意味に別れる。夕顔に即して考えれば、相手が海のものとも山のものとも知れず、ゆっくりと話したいという理由で、さらってゆこうとするのである。そういう世間の結婚形態とは違う光のやり方を、「世づかぬ御もてなし」と言うのである。

もの恐ろしく 04-087

ものはそのものの意味、すなわち、この状況が恐ろしさそのものであるということ。略奪されるという状況にあって、怖くてならないのである。

げにとほほ笑まれ 04-087

「げに」は、夕顔が怖がるのも無理はないとの同情の意。

いづれか狐なるらむ 04-087

どちらかが狐だろうの意味でなく、どちらが狐だろうかの意味。自分が騙されているのか、相手が騙されているのかわからないということ。その上で、私を騙すのでなく、私に騙されよというのが、「ただはかられたまへかし」の意味。

なつかしげに 04-087

光がなつくとも、夕顔がなつくようにとも取れるが、すぐあとに「女もいみじくなびきて」とあるので、光の方が夕顔になつくと取る 。「 なつく」は心が惹かれる意。

いみじく 04-087

単にひどくの意味でなく。不思議な仕方で。このあたり、すべてものの化という文脈が底に流れている。

さもありぬべく 04-087

それが運命だということ。

世になく 04-088

やはり二つの意味をもつ。この世にないの意味と、この世の結婚形態でないの意味。

かたはなる 04-088

不都合の意味と解釈されているが、やはり文脈から考え、常軌を逸したの意味である。

頭中将の常夏 04-088

雨夜の品定で、頭中将が愛しながらも逃した女として紹介した常夏のこと。

語りし心ざま 04-088

「うらなく」「うち頼める」などの常夏の性格。

気色ばみてふと背き隠るべき心ざまなどはなければ 04-089

雨夜の品定の「なのめにうつろふ方あらむ人を憎みて気色ばみ背かん、はたをこがましかりなむ」を下に引く。「気色ばみ」はその前の「心ひとつに思ひあまる時は、言はむ方なくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき」を指す。したがって、思わせぶりなという意味ではなく、恐ろしい形相でほどの意味であり、これは夕顔にない性格である。

かれがれにとだえ置かむ折 04-089

頭中将が常夏に対して取った行動「消息もせで久しくはべりしに」や「心やすくてまたとだえおきはべりしほどに」を念頭におく。「さやうに思ひ変ること」は「跡もなくこそかき消ちて失せにしか」という常夏が最後にとった行動をさす。

心ながらも 04-089

自分の気持ちが自分ながら理解できない場合に用いる表現。

すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ 04-089

難問。浮気心を光と考える立場と夕顔と考える立場に別れる。ヒントになるのは、「わが心ながら、いとかく人にしむことはなきをいかなる契りにかはありけん」である。ここも、自分でもわからない夕顔への不思議な魅せられかたをいうと考えるのが素直な文脈であろう。そうであれば、他に心移りするゆとりがあれば、あはれだと実感ができるのに、今の自分はあまりに溺れすぎていて、自分の感情をあらためて振りかえる余裕がないという意味になる。女に浮気心でもあればいとしさも感じるでは、なぜそうなのかわからないし、もののけを中心にしたもの狂おしさという文脈が途切れてしまう。光も夕顔もともに「もの」につかれて、尋常の判断ができなくなるというもの狂い(それは誰にでもありえる恋のある側面である)が、もののけを出現させるのだ。

八月十五夜 04-090

仲秋の名月の夜。『細流抄』には男女の交わりが不吉であるとの注がある。「八月」は「はちがつ」との読みもある。

住まひのさまも 04-090

「も」は、「など言ひかはすも」の「も」と響き合う。光はこの時点では、朝の営みを煩わしいとは感じず、「めづらしき」と肯定判断を下している。

そそめき騒ぐも 04-091

「も」は、諸注は係り助詞「立ち働くのも」と考えるが、これは逆接の意味をもつ接続助詞「立ち働くけれども」である。語り手にとって、実入りも少ないのに朝早くからなりわいのために立ち働くのは、あわれなことであるが、夕顔はそんなことは理解できずに、ただ近くで騒がしい音がすることに対して恥ずかしく感じているのである。係り助詞では、あわれななりわいで立ち働くことに対しても、夕顔が恥ずかしく思うことになり、それでは、「いかなることとも聞き知りたるさまならねば」と矛盾する。夕顔は恥ずかしがったのであるが、隣の騒音の意味を理解しながら、顔を赤らめたのではなく、意味はわからないが、間近で聞こえたことに対して顔を赤らめたのである。あはれを催すべき境遇に対して恥ずかしく思うことは、罪なことであるが、子供のように世間のことを理解しないのだから、罪が軽いということ。ここで、罪ゆるされてなどという表現は、いくら平安時代が仏教を重んじていても、現代人の感覚としては、一見文脈上必要を感じないが、語り手はひそかに夕顔の死を準備しているのである。死が眼前に控えている人に対してであれば、罪がゆるされる云々も、自然であろう。臼の音の比ゆに鳴神をもってくるのも、小説としての道具立ての一つ。もののけの出る雰囲気が次第にもりあがってゆく。こういう細かな配慮がないと、この部分は、騒々しい朝というだけで読み物としては中だるみになってしまう。

めざましき 04-094

うっとおしいの意味と目をさまさせるの原意をかけた表現。

白妙の衣 04-095

粗末な衣。

砧の音 雁の声 04-095

ともに秋の愁いを深めるものとして、中国の漢詩で対句で使われており、光は教養として知っているが、これらを実体験するのははじめてであろう。

もろともに 04-096

夕顔とふたり一緒に。

されたる 04-096

洒落た。

呉竹 04-096

淡竹(ハチク)の一種で、清涼殿の東庭の北側にも植わっている。

露はなほかかる所も同じごときらめきたり 04-096

重要な表現である。ふたりが出会うきっかけとなった歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」が響いており、これはまた後に、夕顔の気持ちを聞き出す歌と言葉「夕顔に紐とく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけり。露の光やいかに」とその返歌「光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時のそらめなりけり」へとつながってゆく。「露」「光」それに「夕顔」がキーワードとして底流にあるのである。『帚木』の常夏(夕顔)の歌である「山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子の露」から、「露」は娘の撫子、後の玉鬘であることが知られることは、すでに注した。むろん、ここの「露」がそうした意味を直接的に持つわけではない。むしろ、はかないものの喩えとして、直接的には「罪ゆるさるる」と呼応するのであるが、単なる情景描写と思われる表現も、意図をもって描かれているのであり、その場その場で意味が完結して終わるのではなく、複層的に物語の中に組み込まれていることを理解したいのだ。この情景描写がなければ、光の問いかけである「露の光やいかに」は取って付けた表現で終わってしまう。

壁のなかの蟋蟀 04-097

壁の中に住むこおろぎのこと。壁の中のこおろぎというと現代の感覚からは奇異に感じられるが、虫が卵から孵るという知識はない。自然発生する、すなわち、空(クウ)より湧き出すというイメージであり、壁の中のきりぎりすもそうしたイメージの中で圧縮された詩的表現である。あるいは、土壁を通して外のこおろぎの音が聞こえることの詩的表現である。出典は礼記。要するに光のように宮中や左大臣邸のような御殿に住んでいる者には、壁際にいるこおろぎさえ、部屋にいては遠くかすかにしか聞き覚えないのに、ここでは、耳もとでじかに聞えるのが、さま変りして感じられるということ。

御心ざし一つの浅からぬに 04-097

「に」は難しい。「さま変へて思さるる」の理由として働くと同時に、「よろづの罪ゆるさるる」の理由としても働いていると考えるしか、この文の解きほぐしようがないように思える。歌における掛詞は、上からの意味と下へ続く意味が、一つの言葉において、同時使用されるが、地の文においても、「に」のような機能語は上と下の両方に働くことがあるように思う。日本語は、上から下へしか係らないというのが常識というか、定式であるらしいので、これを覆す用意は現在ないが、こうした輻湊した文章は、上から下という単純さでは処理できないように思われる。地の文においても、感興がわけば、詩的表現のような圧縮された言葉遣い・詩的文法が使用されるのではないかしら。
「よろづの罪ゆるさるる」:今回の一番の山である。諸注はこれを、あばたもえくぼ式に、多くの欠点も深い愛情ゆえに見過しできると解釈する。しかし、欠点という意味を当てるには「罪」という言葉は重すぎる。単にご執心により欠点も許せるというのでは、砧の音、雁の音、露、虫の声と説き起こす必要はない。そうした読みでは、テキストの糸をぶつ切りにしてしまうことは再三繰り返した。なぜ、砧・雁・露・虫をもってくる必要があったのか、考えた上で解釈しなければ、物語を読んだことにはならない。一読してわかるように、宮中を中心とした光の馴染みの世界と、夕顔の住む世界とが対照されているのである。光はもっとも恵まれた環境に生を受けたのであるが、平安人の時代意識からすれば、それは前世でもっとも徳を積んだおかげなのである。かたや、下級階層に生まれた夕顔は、仏から遠い存在である。その光がこの夕顔を一心に愛する、そのこと自体により、夕顔の罪は、光の徳により、すべて許されるのではないか、という話者の語りである。前回、述べたように、これは夕顔の死出の旅立ちへのはなむけの言葉であるのだ。もっとも、「露」の世という意味では、光の世界も夕顔の世界も「同じごと」なのである。それをはかないというイメージで結ばず、「きらめきたり」としたところに、この作者の特異な人生観死生観がはっきりと伺えられるのであり、これにより仏教臭は減退し、『夕顔』がこの世ならぬ美しい物語たりえたののも、こうした作者の特異なものの見方が一因となっているのである。
しかしながら、光の愛情により夕顔の罪はすべて許されるであろうとの解釈は、多くの問題をはらむ。リアリズムである方が空想的なものより格が上であるとする、リアリズム偏重主義が学界には少なからずあるからである。同じ理由から、『桐壺』の評判はよくない。リアリスティックでないため、若書きと断じられ、そのため文章もまずいと誠しやかに語られている。それに反し、『帚木』『空蝉』『夕顔』などは、筆の乗りもよく、文章としてしっかりされているとのことである。しかるに、『夕顔』にこのような個所があるのは、学界として困りものかもしれない。しかし、テーマがリアリズムかどうかという問題と、説得的に書かれているかどうかは別問題である。ファンタスティックな題材でも、それを納得させる文章論理があればよいのであり、その点からすれば、『桐壺』は非常によく描かれていると思う。触れてはならない世界を、直接に描かないという間接的手法が使われているために、難解である部分は多いが、書けなかったのではなく、書かないという手法を積極的に選んだのである。帝ないしその周囲のことは、そうした手法を使うことがより主題に沿うと判断したからに違いない。もっとも桐壺帝に対してはそうした手法を選んだが、光が主人公になった時には、おのずと筆の運び方も違ってくるのである。今風の言葉で言えば、主題との距離の取り方が、各帖、各部分によって固定していないというに過ぎない。こうした視点のズレは、西洋では、ようやく二十世紀になって発明された手法だが、人文分野の学問は十九世紀の西洋リアリズムに基礎があるため、枠に押しこめられないのである。押しこめることが主であってはならない。文章に沿って素直に読むことが何よりも大事である。

薄色 04-098

普通は薄紫色。

なよよかなる 04-098

柔らかな意味というより、着なれて身に馴染んだの意味であろう。

あえかなる 04-098

触れればはこぼれる感じ。白は清楚さを表し、このあたり、夕顔の花のイメージがこもる。

心ばみたる方 04-098

気取りの意味でなく、夕顔が内面を示さないことに対する物足りなさである。 「ばむ」は、 そのような状態を帯びることであり、心ばむは内面を外に表現すること。

なほ 04-098

現状では物足りないが、それでもなお。

うちとけて 04-098

心を露わにして。

心安く 04-098

安心して心を開いてということ。

かくてのみ 04-098

この場所への不満でなく、現状への不満である。要するに夕顔の本心が知りたい。

うちとくる心ばへなどあやしくやう変はりて 04-099

「心ばへ」は内面が外に映じること。「はへ」は映える。それまで、光には夕顔の気持ちがどこにあるのかつかめなかったが、光が二世を誓うことで、夕顔はようやく心をゆるしたのである。頭中将との恋愛で子までもうけながらも、男が通ってこなくなった過去があるので、相手が本当に頼めるのか、夕顔にとっては不安があったのである。まして、相手の素性もわからないのだから、なおさらである。しかし、生来、疑うことができない夕顔は、光の誓いに安心し、信じきってしまうのである。その変りようがあまりに急激で不思議なほどだが、かといって、世馴れた女の手練手管とも思われないので、光はもう思慮分別をなくし、人が何と思おうがかまったことではなく、すぐに思い通りにできる場所へと女をさらってゆくのである。

おぼめかしながら 04-100

「おぼめかし」は形容詞とも動詞とも取れる。形容詞であれば、上の訳のようになり、動詞であれば、口でははっきりと言わないながら(お頼み申し上げた)の意味になる。

2020-05-24

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