04夕顔14

2020-10-13

04夕顔 原文 14章243/249

九月二十日のほどにぞ おこたり果てたまひて いといたく面痩せたまへれど なかなか いみじくなまめかしくて ながめがちに ねをのみ泣きたまふ 見たてまつりとがむる人もありて 御物の怪なめり など言ふもあり 右近を召し出でて のどやかなる夕暮に 物語などしたまひて なほ いとなむあやしき などてその人と知られじとは 隠いたまへりしぞ まことに海人の子なりとも さばかりに思ふを知らで 隔てたまひしかばなむ つらかりしとのたまへば などてか 深く隠しきこえたまふことははべらむ いつのほどにてかは 何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ 初めより あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば 現ともおぼえずなむあるとのたまひて 御名隠しも さばかりにこそはと聞こえたまひながら なほざりにこそ 紛らはしたまふらめとなむ 憂きことに思したりし と聞こゆれば あいなかりける心比べどもかな 我は しか隔つる心もなかりき ただ かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ まだ慣らはぬことなる 内裏に諌めのたまはするをはじめ つつむこと多かる身にて はかなく人にたはぶれごとを言ふも 所狭う 取りなしうるさき身のありさまになむあるを はかなかりし夕べより あやしう心にかかりて あながちに見たてまつりしも かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも あはれになむ またうち返し つらうおぼゆる かう長かるまじきにては など さしも心に染みて あはれとおぼえたまひけむ なほ詳しく語れ 今は 何ごとを隠すべきぞ 七日七日に仏描かせても 誰が為とか 心のうちにも思はむとのたまへば 何か 隔てきこえさせはべらむ 自ら 忍び過ぐしたまひしことを 亡き御うしろに 口さがなくやは と思うたまふばかりになむ 親たちは はや亡せたまひにき 三位中将となむ聞こえし いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど 我が身のほどの心もとなさを思すめりしに 命さへ堪へたまはずなりにしのち はかなきもののたよりにて 頭中将なむ まだ少将にものしたまひし時 見初めたてまつらせたまひて 三年ばかりは 志あるさまに通ひたまひしを 去年の秋ごろ かの右の大殿より いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に せむかたなく思し怖ぢて 西の京に 御乳母住みはべる所になむ はひ隠れたまへりし それもいと見苦しきに 住みわびたまひて 山里に移ろひなむと思したりしを 今年よりは塞がりける方にはべりければ 違ふとて あやしき所にものしたまひしを 見あらはされたてまつりぬることと 思し嘆くめりし 世の人に似ず ものづつみをしたまひて 人に物思ふ気色を見えむを 恥づかしきものにしたまひて つれなくのみもてなして 御覧ぜられたてまつりたまふめりしかと 語り出づるに さればよと 思しあはせて いよいよあはれまさりぬ

04夕顔 原文 読みかな 対訳 243/249

イ:や行の「い」/エ:や行の「え」

《九月二十日のほどにぞ おこたり果てたまひて いといたく面痩せたまへれど なかなか いみじくなまめかしくて ながめがちに ねをのみ泣きたまふ》243
くぐわち/はつか/の/ほど/に/ぞ おこたり/はて/たまひ/て いと/いたく/おもやせ/たまへ/れ/ど なかなか いみじく/なまめかしく/て ながめがち/に ね/を/のみ/なき/たまふ
九月二十日頃にすっかりご容態がよくなられて、なんともひどく面やつれなさっているけれど、かえって不吉なくらいな婉美さが備わり、ややもすればもの思いにふけっては、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。


《見たてまつりとがむる人もありて 御物の怪なめり など言ふもあり》244
み/たてまつり/とがむる/ひと/も/あり/て おほむ-もののけ/な/めり/など/いふ/も/あり
そのご様子を拝見しどうしたことだと問題にする人もあり、どうも物の怪のしわざみたいだという者もいる。


《右近を召し出でて のどやかなる夕暮に 物語などしたまひて なほ いとなむあやしき などてその人と知られじとは 隠いたまへりしぞ まことに海人の子なりとも さばかりに思ふを知らで 隔てたまひしかばなむ つらかりしとのたまへば》245
うこん/を/めし/いで/て のどやか/なる/ゆふぐれ/に ものがたり/など/し/たまひ/て なほ いと/なむ/あやしき などて/その/ひと/と/しら/れ/じ/と/は かくい/たまへ/り/し/ぞ まこと/に/あま/の/こ/なり/とも さばかり/に/おもふ/を/しら/で へだて/たまひ/しか/ば/なむ つらかり/し と/のたまへ/ば
右近をお召し出しになり、のどやかな気分の夕暮れに、夕顔との間にこれまであったことをお話なされたりした後、「それにしてもひどく気になってならぬ。どうして自分は誰それであると知られまいとして、そうまでお隠しになられたのだ。本当に海人の子であっても、これほど愛しているのも知らず、距離をお置きになられたのが、身にしみてつらかった」とおっしゃると、


《などてか 深く隠しきこえたまふことははべらむ いつのほどにてかは 何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ 初めより あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば 現ともおぼえずなむあるとのたまひて 御名隠しも さばかりにこそはと聞こえたまひながら なほざりにこそ 紛らはしたまふらめとなむ 憂きことに思したりし と聞こゆれば》246
などてか ふかく/かくし/きこエ/たまふ/こと/は/はべら/む いつ/の/ほど/にて/か/は なに/なら/ぬ/おほむ-なのり/を/きこエ/たまは/む はじめ/より あやしう/おぼエ/ぬ/さま/なり/し/おほむ-こと/なれ/ば うつつ/と/も/おぼエ/ず/なむ/ある/と/のたまひ/て おほむ-な/がくし/も さばかり/に/こそ/は と/きこエ/たまひ/ながら なほざり/に/こそ/まぎらはし/たまふ/らめ と/なむ うき/こと/に/おぼし/たり/し と/きこゆれ/ば
「どうして特にお隠し申す必要がありましょう。ただ、あの場合、どういう機会に特別でもないお名前を申し上げられましょう。出会った当初より奇っ怪で思いもよらぬ形をとったご愛情でしたから、本当のことだとも思えない求愛だとおっしゃって、お名をお隠しなのも、それほどにまで愛してくださっている証拠だとご理解申しあげながらも、いい加減な気持ちだからこそ誤魔化しになるのだろうと、まあそのように、お名前をお告げにならないのを心苦しく思っておいででした」 と申し上げると、


《あいなかりける心比べどもかな 我は しか隔つる心もなかりき ただ かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ まだ慣らはぬことなる 内裏に諌めのたまはするをはじめ つつむこと多かる身にて はかなく人にたはぶれごとを言ふも 所狭う 取りなしうるさき身のありさまになむあるを はかなかりし夕べより あやしう心にかかりて あながちに見たてまつりしも かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも あはれになむ またうち返し つらうおぼゆる かう長かるまじきにては など さしも心に染みて あはれとおぼえたまひけむ なほ詳しく語れ 今は 何ごとを隠すべきぞ 七日七日に仏描かせても 誰が為とか 心のうちにも思はむとのたまへば》247
あいなかり/ける/こころくらべ-ども/かな われ/は しか/へだつる/こころ/も/なかり/き ただ かやう/に/ひと/に/ゆるさ/れ/ぬ/ふるまひ/を/なむ まだ/ならは/ぬ/こと/なる うち/に/いさめ/のたまはする/を/はじめ つつむ/こと/おほかる/み/にて はかなく/ひと/に/たはぶれごと/を/いふ/も ところせう とりなし/うるさき/み/の/ありさま/に/なむ/ある/を はかなかり/し/ゆふべ/より あやしう/こころ/に/かかり/て あながち/に/み/たてまつり/し/も かかる/べき/ちぎり/こそ/は/ものし/たまひ/けめ/と/おもふ/も あはれ/に/なむ また/うちかへし つらう/おぼゆる かう/ながかる/まじき/にて/は など さしも/こころ/に/しみ/て あはれ/と/おぼエ/たまひ/けむ なほ/くはしく/かたれ いま/は なにごと/を/かくす/べき/ぞ なぬか/なぬか/に/ほとけ/かか/せ/て/も たが/ため/と/か こころ/の/うち/に/も/おもは/ と/のたまへ/ば
「どちらも不本意な意地の張合いだったのだな。わたしはそんな風にいい加減な気持ちから距離をおくつもりもなかったのだ。ただ、このように誰からも許されない忍び歩きには、まだ馴れぬことで。帝からお小言をたまわるのをはじめとして、つつしむ事柄の多い身だから、気安く人に戯れごとを言うのも気がねのいる、世間の取り沙汰が面倒な身の上であるのを、ふとしたことがきっかけとなったあの夕べから、なぜだかひどく心にかかり、無理を押してお会い申し上げたのも、こうなる運命がおありであったのだろうと、思うも不憫でならず、またかえってわたしには、身にしみてつらく思われるのだ。こう長く続かぬ運命であるなら、どうしてあんなにも心にしみて恋しく思われになさったのだろう。それにつけても、くわしく話をせよ。いまは何を隠すことがあろう。七日七日の法要に仏を描かせ祈るにも、誰のためとだと心に念じればよいのか」とおっしゃると、


《何か 隔てきこえさせはべらむ 自ら 忍び過ぐしたまひしことを 亡き御うしろに 口さがなくやは と思うたまふばかりになむ 親たちは はや亡せたまひにき 三位中将となむ聞こえし いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど 我が身のほどの心もとなさを思すめりしに 命さへ堪へたまはずなりにしのち はかなきもののたよりにて 頭中将なむ まだ少将にものしたまひし時 見初めたてまつらせたまひて 三年ばかりは 志あるさまに通ひたまひしを 去年の秋ごろ かの右の大殿より いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に せむかたなく思し怖ぢて 西の京に 御乳母住みはべる所になむ はひ隠れたまへりし それもいと見苦しきに 住みわびたまひて 山里に移ろひなむと思したりしを 今年よりは塞がりける方にはべりければ 違ふとて あやしき所にものしたまひしを 見あらはされたてまつりぬることと 思し嘆くめりし 世の人に似ず ものづつみをしたまひて 人に物思ふ気色を見えむを 恥づかしきものにしたまひて つれなくのみもてなして 御覧ぜられたてまつりたまふめりしかと 語り出づるに》248
なにか へだて/きこエ/させ/はべら/ みづから しのび/すぐし/たまひ/し/こと/を なき/おほむ-うしろ/に くち/さがなく/やは と/おもう/たまふ/ばかり/に/なむ おや-たち/は はや/うせ/たまひ/に/き さむゐ-の-ちうじやう/と/なむ/きこエ/し いと/らうたき/もの/に/おもひ/きこエ/たまへ/り/しか/ど わが/み/の/ほど/の/こころもとなさ/を/おぼす/めり/し/に いのち/さへ/たへ/たまは/ず/なり/に/し/のち はかなき/もの/の/たより/にて とう-の-ちうじやう/なむ まだ/せうしやう/に/ものし/たまひ/し/とき みそめ/たてまつら/せ/たまひ/て みとせ/ばかり/は こころざし/ある/さま/に/かよひ/たまひ/し/を こぞ/の/あきごろ かの/みぎ-の-おほとの/より いと/おそろしき/こと/の/きこエ/まで/こ/し/に ものをぢ/を/わりなく/し/たまひ/し/みこころ/に せむかたなく/おぼし/をぢ/て にし-の-きやう/に おほむ-めのと/すみ/はべる/ところ/に/なむ はひ-かくれ/たまへ/り/し それ/も/いと/みぐるしき/に すみ/わび/たまひ/て やまざと/に/うつろひ/な/む/と/おぼし/たり/し/を ことし/より/は/ふたがり/ける/かた/に/はべり/けれ/ば たがふ/とて あやしき/ところ/に/ものし/たまひ/し/を み/あらはさ/れ/たてまつり/ぬる/こと/と おぼし/なげく/めり/し よ/の/ひと/に/に/ず ものづつみ/を/し/たまひ/て/ひと/に/もの/おもふ/けしき/を/みエ/む/を はづかしき/もの/に/し/たまひ/て つれなく/のみ/もてなし/て ごらんぜ/られ/たてまつり/たまふ/めり/しか と かたり/いづる/に
「どうしてお隠し申したりいたしましょう。ご自身がずっと言わずに通された秘密を、亡き後になって、ぺらぺらしゃべってよいものかと存じますばかりで。
ご両親ははやくに亡くなられました。父は三位の中将と申しました。とてもいとしいばかりだと愛情を注ぎ申し上げたが、ご自身の昇級のままならぬのをお嘆きだったようですが、命までもお耐えられず失ってしまわれたのち、ちょっとしたきっかけだがある確かな縁で、頭中将が、まだ少将の位でおられました時に、女君をお見初め申しあげになり、三年くらいは愛情ある様子でお通いになられたが、去年の秋ごろ、あの正妻である右大臣邸からとても恐ろしい話が聞こえてまいりまして、もの怖じを滅法なされるご性分だったため、解決の手立てもなく不安におびえ、西の京にいる乳母が住んでおりますところに、そっと身をひそませました。そこもとても見ていられない場所で、住みづらく思われ、山里に移ってしまおうとお考えになったものの、今年から方塞がりにあたる方角でしたから、方違えをしようと、あやしげな場所に身をひそめていらっしゃったところを、見つけ出されてしまったことだとお嘆きのご様子でした。世間にはほかにいないほどひどく内気でいらっしゃって、恋に悩んでいる様子を人に見られるのを、ひどく恥ずかしいことだとお考えになって、気持ちを表さぬような態度をおとりになって、お会いになられておいでであったようです」と右近が語りだすと、


《さればよと 思しあはせて いよいよあはれまさりぬ》249
さればよ/と おぼし/あはせ/て いよいよ/あはれ/まさり/ぬ
だからあの時にと、雨夜の品定めでの頭中将の話を思い合わせになり、ますます夕顔への恋しさがましていった。

夕顔 注釈 04-243/04-249

おこたり果てたまひはて 04-243

「おこたり果て」病気が全快する。「たまひて」の「て」は順接で、挿入部である「いといたく……なまめかしくて」を飛び越え、「ながめがちに音をのみ泣きたまふ」にかかる。なぜその部分が挿入であるかと言うと、病気が全快した結果、面やつれしたのではないので、「おこたりはてたまひ」と「いといたく面痩せ……」の部分を「て」でつなぐことができないから、ここの部分を飛ばして後ろにかかると判断するわけである。さて、この「て」の用法だが、これは単に時間の前後関係をあらわすだけでなく、これまで泣きつづける力もなかったのが、体がしっかりすることで、泣いてばかりいられるまでに体力が回復したことをも示すのだろう。ニュアンスとしては原因理由を示す「て」ではないかと思う。難しい「て」である。

なかなかいみじくなまめかしくて 04-243

これも難しい。「なかなか」はかえってなのかむしろなのか、「いみじく」はひどくなのか不吉なほどなのか、それぞれ説がわかれる。見咎めたり、物の怪のせいだと判断する人がいるのだから、単にとても優美では文脈に合わないという『注釈』の説は見逃せない。「いみじ」は、これまで繰り返したように、死や恐怖などと密接にかかわりをもつ言葉である。問題は「なかなか」である。『注釈』は、かえってと訳す語には「かへりて」があるゆえ、「なかなか」はかえってとは訳さず、むしろが精確だと説くが、その論法には問題がある。言葉の変化により訳語が決まるのではなく、あくまでその古語のもつ意味が現代語では何にあたるかにより訳語は決定されるはずである。出自が違っても、その文脈に適していれば、そちらを採用すべきなのだ。したがって問題は出自ではなく、文脈にある。「なかなか」はつなぎの言葉だから、それ自体に意味があるというより、何と何をつないでいるのかに着目すべきである。原文を読むと「面痩せたまへれど(なかなか)いみじくなまめかしくて」とある。そもそも、「面痩せ」と「なまめかし(優美)」は「ど」があらわすような逆接関係なのだろうか、納得がいかない。それを探るには、源氏にあらわれる「なまめかし」の用例を逐一拾う必要がある。幸いにして両語の出る文脈が他にある。「ほどなき御身に、さる恐ろしきことをしたまへれば、すこし面痩せ細りて、いみじくなまめかしき御さましたまへり(まだ十三歳という年齢で、出産というそんな恐ろしい経験をなさったのだから。すこし面やつれし体もほっそりとして、不気味なほど優美なご様子でいらっしゃる。)」(『若菜上』の帖)。ここからすると、「面痩せ」と「なまめかし」は逆接ではなく、意味的に感じられるとおり、順接の関係にある。ではなぜもとの原文は逆接にしているのか。それは少しの面やつれは優美さにつながるが、面やつれがひどすぎると、優美さにはつながりにくいという意識があるからに違いない。そのつながりにくさが「ど」に現れているのだ。しかし、それでも光は様子は「いみじくなまめかし」く感じられる。そこで「なかなか」が入っている。現代語ではつなげるなら、むしろではなく(むしろでは、最初からつながりにくさはなく、ひどく面やつれしているためにむしろ、となるだろう)、かえってに軍配をあげたい。ひどく面やつれをなさっているが、にもかかわらずかえって、不吉とも感じられるくらいに艶美であり。

ねのみ泣き 04-243

常套句。平安時代には男でも声を出して泣いた。

見たてまつりとがむる 04-244

「見咎むる」の謙譲語。「見咎むる」は非難するの意味もあるが、泣いてばかりいる源氏を心配し、そんなことではよくない、しっかりしてほしいなど、ほっておくことができずに、問題にしたの意味である。現代語の見咎めるにもその用法はある。

のどやかなる 04-245

心情語であり、夕暮れから受ける感情がのどやかなのである。夕暮れを描写するのではないが、のどかな夕暮れと訳しても、心情語であるともとれるので、特に問題はない。心情語であるという理解はあってほしい。

物語 04-245

物は動かせない対象。ここでは亡くなった夕顔にまつわる話であって、世間話ではない。 だからこそ、源氏の発言が「なほ」で始まるのだ。のどかな夕暮れに、ずっと夕顔のことを話題にしてきたが、それでもまだのみこめないことがある。

なほ 04-245

それにしてもの意味。

あやしき 04-245

合点がゆかず、興味ひかれる。

などて 04-245

理由をあらわす「など」の強調。

その人と 04-245

その人とはこういう人である、正体はこうである。

まことに海人の子なりとも 04-245

先に光が名前を聞きたがると、「海人の子なれば/04-129」と言って答えなかった。漁師の子のようなつまらない者なので、本名を名乗れないという意味である。これを受けて、本当に海人の子であっても名前を教えてくれたらいいじゃないか、光はぐちるのである。

さばかりに思ふ 04-245

自分はこれほどまでに熱を上げているのだから。

深く隠し 04-245

「深く」は、そのまま訳しては意味が不明確な比ゆである。ここでは」は浅い深いに意味の重点があるのではなく、名を隠すつもりだったかどうかが問題なのだ。従って、この「深く」はずっと隠しつづけるつもりで隠していたのではないということ。結果として名前がわかってもいいと思っていたことをいう。深い意図があって隠していたわけではない。

いつのほどにてかは何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ 04-246

あっという間にすぎてしまったため、名乗る時間がなかったする注があるが、時間の短さが問題なのではない。右近にすれば、あなたが名のられないのに、どうして名乗る機会があったでしょうと反論しているのだ。お互い相手のせいにしているので、光は「あいなかりける心比べどもかな/04-247(無意味な意地の張り合いをしたものだ)」と感想をのべるのだ。時間が短いことが原因で名乗れなかっただけなら、こんな感想は出ない。「何ならぬ御名のり」について、つまらぬ名前をなのるではない。この「何」は、何か特別の、特に言っておくべきなどの意味。何ならぬ、特別なものでもないの意味。つまらないではない。

初めよりあやしうおぼえぬさまなりし御こと 04-246

「さまを変へ 顔をもほの見せたまはず 夜深きほどに 人をしづめて出で入りなどしたまへば 昔ありけむものの変化めきて うたて思ひ嘆かるれど/04-084」を受ける。「昔ありけむものの変化」は山の神(蛇)が姿を隠し女のもとへ通ったという三輪伝説(古事記・日本書紀)などが下敷きであろうとされている。物の変化とも思えるような異常な恋愛だったのである。光は遊戯としてこの恋愛を愉しんでいたが、女の方では少なくともその当初は恐怖の体験であったのである。男の見る目と女の見る目の違いをこれほど闡明にした文章は、古今にないといっていいかもしれない。恐怖の中にエクスタシーがあったか否かは想像するしかない。

現ともおぼえず 04-246

三輪伝説にあるような恋愛であり、それほど楽しかったのではなく、それほど恐ろしかったのである。

のたまひて 04-246

「御名隠し……たまふらめとなん」を飛び越えて、「憂きことに思したりし」にかかる。

御名隠しもさばかりにこそは 04-246

「さばかり」を光の君であろうからと解する注がある。夕顔は最初、光とは思っていなかったことは、これまで繰り返した。それとは別に、『注釈』のとおり、「さ」は指す言葉が前にある指示語であり(前世の縁など常套句として指示する語が前にない場合があるが、常套句以外を受けることはない)、光の君を指す用法はない。かと言って、『注釈』のように、直前の「御名隠し」を受けるとするのも誤りである。そもそも「……こそは」は、~であるためだと後から理由を示す表現である。もとは「さばかりにこそは御名隠しも(あらめ)」という文が倒置されてできたのである。「さばかり」だからこそ名を隠されるのだろう、との文である。名を隠されるから隠されるでは意味がないのである。では、「さばかりに」は何を受けるのか。いろいろ受けられそうで、何を受けるのかはっきりしない。そういう場合はどうするか。Xとして保留し、残りを考えるのである。

聞こえたまひながら 04-246

「聞こえたまひ」は問題のある個所だが、それは後回し。「ながら」は逆接をつくる。「なほざりにこそは紛らはしたまふらめ」は、本気でないからお紛らわしになるのだろうの意味。「ながら」が逆接で、その後が「本気でないから」とくれば、「ながら」の上は、本気だからという意味のことがくると推測できる。答えは出た。光の前言「さばかりに思ふを知らで」の「さばかりに(思ふ)」がと同じ用法。さばかりに思ふは、一種の常套句だから、光の前言を受けたというより、光の言葉が前言を受けずに常套句として文脈よりわかると同様の用法で、ここも文脈より明らかな常套句用法なのだ(文脈より明らかでないと感じるのは、現代人が読解力をなくしたからであって、紫式部のせいではない)。
整理すると、相手様が名をお隠しになるのも、とても愛していらっしゃるからだともご理解申しあげながら、それでも、(実は)本気でないからごまかしになられるのだろうと……。「聞こえたまひながら」の「聞こえ」は(夕顔が光に)言うの謙譲語だが、それを右近が使うのは無理があると昔から考えられてきた、とのことであり(『注釈』)、そういう注意を促す注釈が多いが、「言ふ」の謙譲語だと考えるからおかしくなるのだ。ここは名のらぬ光の態度を愛すればこそと「理解する」という意味。解釈のしこそないが、文法をもゆがめてしまうのである。「憂きことに」:結局、夕顔は、はじめから、物の変化のようにおびえ、愛されているからと頭で理解しながら気持ちは晴れずにきたというのだから、物の怪に取り殺されたというより、光の恋愛のし方に耐えられなかったせいかとも思われる。少なくとも、死の原因の一部は、光がずいぶん夕顔の恐怖心を煽ったせいであるに違いない。
なお、「さばかりにこそはと聞こえたまひながら」について、上にように「聞こえ」を「言ふ」でなく「思ふ」の謙譲語ととらえるならば、「さばかりに」は常套句用法と考えず、光の言葉を右近がまるまる繰り返し、そうご理解申し上げていた、のように右近が夕顔の立場になって発言したと考えることもできる。

あいなかりける 04-247

難語。こういう意味の広い語は、これ自体に特殊な意味があるというより、文脈の依存度が強いのである。したがって、「あいなし」の方向性、結果と意図が食い違うという原義を文脈にあわせて加工してゆくという作業になる。文脈を追うと、自分には隔てをおくつもりはなかった。なれないためであり、周りが許さぬ窮屈な身の上なのだ、となる。光の言いたいことは、名乗らなかったのは、自分がそうしたくなかったのではなく、わたしのいる環境のせいだとなる。夕顔にその意図がなかったように、自分も隠そうとおもって隠していたのではない、との意味。その点にスポットを当てて訳すと、不本意なとなる。「あいなし」の原義だけなら、益のない、無意味なくらいの意味でもよいが、文脈を検討すれば、わたしのせいでなく、まわりのせいでという意味あいが表に出る訳語として、不本意なの訳が浮上する。前回の解説でここを無意味なと訳したことを訂正します。

心比べ 04-247

意地の張合い。

しか隔つる心 04-247

「しか」は右近の言葉に出た「なほざりにこそ紛らはしたまふらめ(いい加減な気持ちでごまかせれるのだろう)」を受ける。「心」は本心、そういう意図。

まだ慣らはぬこと 04-247

まだ習熟していないこと。まだ行った回数が少なく馴れているわけではないこと。夕顔に対して軽い気持ちで求愛したのではないという言い訳。

はかなく人にたはぶれごとを言ふも所狭う 04-247

ここも、夕顔に対して軽い気持ちで求愛したのではないという言い訳。そんな浮ついた恋愛に馴れてないし、わまりがそういうことを許さぬ立場なのだと、いろいろ言って、本気で愛していたのだということを証しを立てようとしているのであり、自分の身の上の窮屈さを話しているわけではない。光が右近に伝えようとしているこの意図を汲めば、「はかなく人に戯れ言を言ふもところせう」の訳も方向性がきまる。「はかなく」は難語だが、あとの「はかなかりし夕より」の意味を思い合わせると、ちょっとした気持ちで、気楽にの意味となる。「戯れ言」は冗談というより、具体的には、女への口説き、モーションをかけること。「ところせう」は窮屈。繰り返しになるが整理すると、本気でない恋愛だったように右近の目にはうつるかもしれないが、そういうことの許されない身分なのだとい言いたいのだ。

取りなし 04-247

取り沙汰、うわさ。

はかなかりし夕 04-247

何気ないことから歌のやりとりをして、本気の恋に至った、そのきっかけ。結果としての恋愛は本気であったが、きっかけは軽い「はかな」いものであった。

あながちに見たてまつりし 04-247

取り沙汰のうるさい環境にもかかわらず無理を押して。

かかるべき契り 04-247

後に「たまひ」と尊敬語があることから、主体は夕顔であり、短かかった出会いや早い別れを指すのではなく(主体は光と夕顔になる)、夕顔の短命をいう。

うち返し 04-247

いとしい一方でつらいと解し、逆にの意味に諸注はとるが、「あはれ」はいとしい、かわいそう、恋しいなど多様な意味を含んでいるのであり、つらいと対立する語とは言えない。ここでの反転は「あはれ」に対する「つらし」ではなく、夕顔に対しては「あはれ」に思うが、自分にとっては「つらい」という、夕顔に向うベクトルをひるがえして自分に向けるとの意味である。

おぼえたまひけむ 04-247

「おぼえ」の主体は夕顔、夕顔が光に思われるという受身の主体。「たまひ」は動作思うの主語である光を尊敬するのではなく、思われるという受身の主語である夕顔を尊敬する。

仏描かせ 04-247

十三仏である、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿?(あしゅく)・大日・虚空蔵(こくうぞう)のうち、薬師仏までを、七日ごとに描いて死者の供養とした。観音以後の仏を描くのは、百か日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌に行われた。

何か隔てきこえさせはべらむ 04-248

ここの主体は右近自身。これまで右近は夕顔が正体を隠してきたなんてことはないと語ってきたが、ここは「はべらん」と丁寧語が使われているので、私はお隠しいたしませんとの意味になる。

自ら 04-248

下に「たまひしこと」と尊敬語があるので、主体は夕顔。

御うしろに 04-248

単に時間としての「後」では敬語がつかないので、感覚としてはbehind one’s backという感じなのだろう。その方のいないところでを意味するが、これは亡くなるの意味にふくまれるので、表だって訳す必要はないと判断した。

口さがなく 04-248

何でもぺらぺらしゃべって非難を受けること。

やは 04-248

してよいだろうか、いやいけない、という反語。

思うたまふばかり 04-248

「ばかり」は終止形にも連体形にも接続する。この「たまふ」(ハ行下二段終止形)は自分につけているので、謙譲語である。

三位中将 04-248

父親のくらい。位が三位で、官が近衛中将。

思ひきこえたまへりし 04-248

父が娘の夕顔を。

我が身のほどの心もとなさ 04-248

位の低さ、昇進の遅さに対する不安。

命さへ堪へたまはず 04-248

不安がつのったあげく、命まで耐えられずに亡くなってしまわれたこと言う。

はかなきもののたよりに 04-248

「はかなき」は、ちょっとしたきっかけ。しかし、「もののたより」ある確かな縁で。「はかなきたよりにて」ではなく、それなりの宿命があったとのふくみが「もの」にはある。

頭中将 04-248

光の友人であり、雨夜の物語で、常夏(ここでは夕顔)について語った、左大臣の息子。

見初め 04-248

肉体関係を持ち始めること。単に好きになるではないが、敬語もふくめて訳そうとすると、その点をふくめた訳がうまくいかず、見初めのまま訳してしまった。

右の大殿 04-248

頭中将の正妻である右大臣の娘のもとから。

参で来し 04-248

「参り来し」の音便。

西の京 04-248

京との西半分。当時は、人がすくなく、住む場所としては適していなかった。

塞がりける 04-248

乳母の家から山里に向う方向が、方塞がりのため、いったん別の場所に「違ふ」うつったのが、惟光の母の家の隣である、五条の場所である。

見あらはされたてまつりぬることと思し嘆く 04-248

まず末尾の「思し嘆く」は夕顔がお悲しみになった、と右近から夕顔に対する尊敬。その前は、悲しんだ内容なので、主体は夕顔、夕顔の心中である。「見あらはす」は隠れているのを表に引き出すこと。正体をみぬくこと。「され」は受身。すなわち、主語は受身である自分なので、尊敬語は入らない。「たてまつり」は、ひっぱり出された方向である相手に対する敬語。さて、一般の説では、光によって夕顔が見つけ出されたと考えるが、夕顔は光から隠れていたのではなく、頭中将に対して隠れていたのであり、だからこそ、見つかって思い嘆いたのである。仮に光に見つかり思い嘆いたということがあったにしても、右近の立場から、そんな話はできるものではない。すなわち、「見あはらされ」の原義からと、古典の読解常識、および頭中将から隠れていたという文脈から考えて、頭中将にみつかったと夕顔は最初思ったのだととるのが自然である。この解釈は、すでにふたりが交わした歌の歌意から、そう読む以外ないことは説明した。「思し嘆くめりし」の「めり」は、嘆いていたらしいの意味ではなく、嘆いていた理由は、上のものであろうという推量。嘆いていたことは右近が一番よく知っているはずである。従ってこの「めり」は「思し嘆く」を受けるのではなく、「見あらはされたてまつりぬることと思し嘆く」全体を受けるのである。

人に物思ふ気色を見えむを恥づかしきものにしたまひてつれなくのみもてなして御覧ぜられたてまつりたまふめりしか 04-248

「ご覧ぜられ」は「見られ」の尊敬表現であり、その主体は光である。「見あらはされ」に尊敬語がないことに注意したい。話が、頭中将の話題から、光に移っているのである。従って、ここの「人に」は光を指す。「もの思ふ気色」は、光に対して恋しくてもの思いばかりされるという気持ちを表情にあわらすこと。それが「ものづつみ」が激しくてできなかったのだという、つれない女に見えたであろうことの右近による弁明。「ご覧ぜられたてまつりたまふ」は、「ご覧ぜられ」という受身表現に対して、「たてまつり」と「たまふ」という敬語がついた形。「ご覧ぜられ」は夕顔が光から愛されること。主体は夕顔。「ご覧ず」は「見る」の敬語で、「見る」は肉体関係を結ぶ意味。「たまふ」は愛される主体である夕顔に対する右近からの敬意、「たてまつり」はその相手である光への敬意である。

さればよ 04-249

「そういうことだから、ああいう態度をとったのか」という、うなずきの発語。

あはれ 04-249

恋しい気持ち。

2020-10-13

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