04夕顔12

2020-05-24

夕顔 原文 04-207/04-225

207辺りさへすごきに 板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ いとあはれなり 208御燈明の影 ほのかに透きて見ゆ 209その屋には 女一人泣く声のみして 外の方に 法師ばら二 三人物語しつつ わざとの声立てぬ念仏ぞする 210寺々の初夜も みな行ひ果てて いとしめやかなり 211清水の方ぞ 光多く見え 人のけはひもしげかりける 212この尼君の子なる大徳の声尊くて 経うち読みたるに 涙の残りなく思さる 213入りたまへれば 灯取り背けて 右近は屏風隔てて臥したり 214いかにわびしからむと 見たまふ 215恐ろしきけもおぼえず いとらうたげなるさまして まだいささか変りたるところなし 216手をとらへて 我に 今一度 声をだに聞かせたまへ いかなる昔の契りにかありけむ しばしのほどに 心を尽くしてあはれに思ほえしを うち捨てて 惑はしたまふが いみじきことと 声も惜しまず 泣きたまふこと 限りなし 217大徳たちも 誰とは知らぬに あやしと思ひて 皆 涙落としけり
218右近を いざ 二条へ とのたまへど 年ごろ 幼くはべりしより 片時たち離れたてまつらず 馴れきこえつる人に にはかに別れたてまつりて いづこにか帰りはべらむ いかになりたまひにきとか 人にも言ひはべらむ 悲しきことをばさるものにて 人に言ひ騒がれはべらむが いみじきこと と言ひて 泣き惑ひて 煙にたぐひて 慕ひ参りなむと言ふ 219道理なれど さなむ世の中はある 別れと言ふもの 悲しからぬはなし とあるもかかるも 同じ命の限りあるものになむある 思ひ慰めて 我を頼め と のたまひこしらへて かく言ふ我が身こそは 生きとまるまじき心地すれとのたまふも 頼もしげなしや 220惟光 夜は 明け方になりはべりぬらむ はや帰らせたまひなむと聞こゆれば 返りみのみせられて 胸もつと塞がりて出でたまふ 221道いと露けきに いとどしき朝霧に いづこともなく惑ふ心地したまふ 222ありしながらうち臥したりつるさま うち交はしたまへりしが 我が御紅の御衣の着られたりつるなど いかなりけむ契りにかと 道すがら思さる 223御馬にも はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば また 惟光添ひ助けておはしまさするに 堤のほどにて 御馬よりすべり下りて いみじく御心地惑ひければ かかる道の空にて はふれぬべきにやあらむ さらに え行き着くまじき心地なむするとのたまふに 惟光 心地惑ひて 我がはかばかしくは さのたまふとも かかる道に率て出でたてまつるべきかは と思ふに いと心あわたたしければ 川の水に手を洗ひて 清水の観音を念じたてまつりても すべなく思ひ惑ふ 224君も しひて御心を起こして 心のうちに仏を念じたまひて また とかく助けられたまひてなむ 二条院へ帰りたまひける 225あやしう夜深き御歩きを 人びと 見苦しきわざかな このごろ 例よりも静心なき御忍び歩きのしきるなかにも 昨日の御気色の いと悩ましう思したりしに いかでかく たどり歩きたまふらむと 嘆きあへり

夕顔 原文かな 04-207/04-225

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

あたりさへすごきに いたやのかたはらにだうたてておこなへるあまのすまひ いとあはれなり みあかしのかげ ほのかにすきてみゆ そのやには をむなひとりなくこゑのみして とのかたに ほふしばらに さむ-にんものがたりしつつ わざとのこゑたてぬねんぶつぞする てらでらのそやも みなおこなひはてて いとしめやかなり きよみづのかたぞ ひかりおほくみエ ひとのけはひもしげかりける このあまぎみのこなるだいとこのこゑたふとくて きやううち-よみたるに なみだののこりなくおぼさる いりたまへれば ひとりそむけて うこんはびやうぶへだててふしたり いかにわびしからむと みたまふ おそろしきけもおぼエず いとらうたげなるさまして まだいささかかはりたるところなし てをとらへて われに いまひとたびこゑをだにきかせたまへ いかなるむかしのちぎりにかありけむ しばしのほどに こころをつくしてあはれにおもほエしを うち-すてて まどはしたまふが いみじきこと と こゑもをしまず なきたまふこと かぎりなし だいとこ-たちも たれとはしらぬに あやしとおもひて みな なみだおとしけり
うこんを いざ にでうへ とのたまへど としごろ をさなくはべりしより かたときたち-はなれたてまつらず なれきこエつるひとに にはかにわかれたてまつりて いづこにかかへりはべらむ いかになりたまひにきとか ひとにもいひはべらむ かなしきことをばさるものにて ひとにいひさわがれはべらむが いみじきこと といひて なきまどひて けぶりにたぐひて したひまゐりなむ といふ ことわりなれど さなむよのなかはある わかれといふもの かなしからぬはなし とあるもかかるも おなじいのちのかぎりあるものになむある おもひなぐさめて われをたのめと のたまひこしらへて かくいふわがみこそは いきとまるまじきここちすれ とのたまふも たのもしげなしや これみつ よは あけがたになりはべりぬらむ はやかへらせたまひなむ ときこゆれば かへりみのみせられて むねもつとふたがりていでたまふ みちいとつゆけきに いとどしきあさぎりに いづこともなくまどふここちしたまふ ありしながらうち-ふしたりつるさま うち-かはしたまへりしが わがおほむ-くれなゐのおほむ-ぞのきられたりつるなど いかなりけむちぎりにかとみちすがらおぼさる おほむ-むまにも はかばかしくのりたまふまじきおほむ-さまなれば また これみつそひたすけておはしまさするに つつみのほどにて おほむ-むまよりすべりおりて いみじくみここちまどひければ かかるみちのそらにて はふれぬべきにやあらむ さらに えいきつくまじきここちなむする とのたまふに これみつここちまどひて わがはかばかしくは さのたまふとも かかるみちにゐていでたてまつるべきかは とおもふに いとこころあわたたしければ かはのみづにてをあらひて きよみづ-の-くわのんをねんじたてまつりても すべなくおもひまどふ きみも しひてみこころをおこして こころのうちにほとけをねんじたまひて また とかくたすけられたまひてなむ にでう-の-ゐんへかへりたまひける あやしうよぶかきおほむ-ありきを ひとびと みぐるしきわざかな このごろ れいよりもしづごころなきおほむ-しのびありきの しきるなかにも きのふのみけしきの いとなやましうおぼしたりしに いかでかく たどりありきたまふら と なげきあへり

夕顔 現代語訳 04-207/04-225

周囲までもぞっとするような場所なのに、板葺きでかたわらにお堂を建てて修行をしている尼僧の住まいは、とてもありがたい。灯明の火影がわずかに板葺きのすきから透けてみえる。その家の中からは女がひとり泣く声ばかりして、外の方では法師たちが二三人何か話をしては、ことさらに無言念仏を唱えるのだった。寺々では初更の勤行もみな果てて、ひどく厳かに静まりかえっている。清水の方だけは灯明がたくさん見え、参詣の人も多かった。この、尼君の子息である徳の高い僧侶は声が尊くて、お経を自然に読みあげただけでも、君は涙が残り泣くあふれでる思いになられる。
君が板屋にお入りになると、右近は灯火を亡骸から遠ざ、屏風の裏で横になっていた。どんなに心細く思っていようかとごらんになる。亡骸は恐ろしい感じもせず、とても愛らしい様子で、まだ生前といささかも変ったところがない。その手をとらえて、
「もう一度、声だけでもお聞かせください。どんな前世の因縁だったのか、わずかなあいだに、心の底からいとしく思われたものを、なのにうち捨て、どうにもならなくしてしまわれるとは、あまりにひどい」と、声もおしまずお泣きになる様子は限りもない。
高徳の僧たちも、誰の葬儀とも知らぬのに、不思議と気持ちが動いて、みな涙を落とすのだった。
右近に、さあ二条院へと、お誘いなさるが、
「長年、幼うございました時分より、片時とそばをお離れいたさず、親しくさせていただいたお方に、急にお別れして、どこへ帰るところがございましょう。ご主人さまはどうなってしまわれたと人に言えばよいのでしょうか。死別の悲しみはもとよりですが、人にあれこれ言いたてられますことが、どうにも耐えられないことで」と言って泣き崩れ、
「荼毘の煙とともにお側に参りとう」と言う。
「無理もないが、それが世の常であり。死別というものは悲しくない場合などない。長生きでも短命であっても、同じように命には限りがあるもので。自らそう思い慰めて、自分を頼りにせよ」と、無理にも取り繕いなさるが、
「こう言うわが身は、これ以上生きていられそうにもない気持ちで」とおっしゃるにつけても、とてもまあ頼もしくは思えないこと。
惟光が、「夜もう明け方になっているようです。早くお帰りあそばせ」と申し上げると、振り返ってばかりおられ、胸もきつく締めつけられはしながら、お立ちになる。
道中はとても露っぽいうえに、いっそう朝霧が濃くて、どこへというあてもなく行き暮れたお気持ちになられる。生前のままちょっと横になった様子、あの夜一つ衾(ふすま)を分け合いになられていたご自分の紅いお召物が着せられてあったことなど、どうした宿縁があってのことかと、道すがら思い出しになる。お馬にもしっかりとお乗りになれそうにないご様子なので、ここでもまた、惟光が介添えしてお連れ申し上げるに、鴨川の土手のあたりで、馬からすべり落ちるように下りて、ひどく御心をまどわせになって、
「こんな道の途中で行き倒れになってしまう運命なんだろうな。もうとても帰り着けそうにない気がする」とこぼされると、惟光はあたふたして、自分さえしっかりしておればこんなことに、あのようにおっしゃられようとお連れ申すべきでなかったのだと思うにつけ、ひどく心がさわぐので、鴨川の水で手を洗い、清水の観音様にお祈り申し上げるのだが、どうしようもなく途方にくれる。
君もしいて気を取り直し、心の中で念仏を唱えになって、ふたたびあれこれと惟光の助けをお受けになりながら、なんとか二条院にお帰りになったのである。
不審な深夜のお忍びを女房たちは、
「見ていられない行いだこと。ちかごろ、いつにないほどそわそわしたお忍び歩きを続けられるなかでも、きのうのご様子は、とてもお加減悪く苦しんでいらっしゃったのに、どうしてこうもふらふらとお歩きになるのだろう」と、嘆きあった。

夕顔 注釈 04-207/04-225

すごき 04-207

冷たさや恐怖など、身を刺すように実感される感覚。

板屋の 04-207

「住まひ」にかかる。並列して、「かたはらに堂建てて行へる尼の」が「住まひ」にかかる。板葺きの家で、すぐ側に堂を建てて修行をしている、尼の住まいの意味。板屋が住まいと別にあるのではない。板屋自体が尼の住まいである。諸訳では板屋と別に尼の住まいがあるかのように感じられる。「尼」は、惟光の父の乳母だった人。

あはれ 04-207

『通釈』の慈悲深いがよい。「すごきに」の「に」は逆接ととるのが自然で、「あはれ」はありがたいということ。これをものさびしいと解釈したのでは、「あたりさへすごきに」の「さへ」と「に」が説明できない。周囲だって恐ろしい大変な場所なのに、そこへお堂まで建てて修行している尼の生活は、実にありがたいということ。

女 04-209

右近。女という呼び方からして、すでに光源氏の支配下にあると、語り手は認識している。

法師ばら 04-209

通夜などに臨時で招かれ報酬をえた念仏法師だと『新全集』は注する。

物語しつつ 04-209

報酬が目的なので、あまり熱心でないことをいうのだろう。「つつ」は反復で、話をしたり、ことさらに無言で念仏を唱えたりを繰り返す。

声立てぬ念仏 04-209

死者が念仏を聞くと、蘇生しようとしている死者もこわがって蘇生できないために、通夜では声を出さずに念仏を唱えると、『新全集』は注する。

初夜 04-210

夜を初夜、中夜、後夜と三区分した最初の時間。季節により夜の六時頃にもなれば十時頃にもなる。

清水 04-211

清水寺。鳥辺野のすぐ近くにある。参詣者が多かった。

光 04-211

灯明ではなく、燈籠の火ではないかと思う。清水だけが灯明をつけているのはおかしい。灯明はどこの寺でも灯しているが、建物の中だから見えないのだろう。参詣者の多い清水寺のみは、燈籠に火を入れているのだろう。

大徳 04-212

高僧、ないしは転じて一般の僧にも使うというのが一般の注であり、単なる僧の意味として用いられているという解釈が一般的。高僧に法要を依頼するとなると、衆目を気にする必要があるから、光としては避けざるを得ない。ただし、声が尊く、涙を流し尽くす思いとあるので、社会的な意味で高僧でなくとも、徳の高い僧と考えていいように思う。法師ばらの「ばら」がマイナスイメージなのと対照的。

経うち読みたるに 04-212

「涙の残りなく思さる」にかかる。読経を始めるやすぐに。「うち」はちょっとというニュアンス。

入り 04-213

板屋に。

背けて 04-213

亡骸である夕顔から背けて。

いかにわびしからむ 04-214

ここが「あたりさへすごき」場所であり、灯りがあたらず、いつも側にいた右近が側についていないという今ある状況と、自分が一緒にいてやれなかったことへの後悔から。

だに 04-216

せめて…だけでも。

しばしのほどに 04-216

通りがかりに歌を交し合ったことからはじまり、ほんの短い期間に。

思ほえし 04-216

自然とそう思われた。

誰とも知らぬ 04-217

死者の夕顔や通夜にきた光のことを誰か知らない。惟光が先に「さらぬ法師ばらなどにも、みな言ひなすさまことにはべる(そうでない法師たちにも、真実とは違う別の作り事をつたえた)」とあった。「あやしと思ひて」の「て」は順接だから、「あやし」は訝るの意味ではない。死者に訴えかける光の言葉を聞いて、僧侶たちも自分でもわからないほど同情してということ。ここでの「あやし」は不思議なほど気持ちがひきつけられるとの意味である。

けり 04-217

詠嘆。

いざ 04-218

Let’S。二条院に誘う光の言葉に対する右近の返答は小説として面白いところ。表面、主人と一緒に煙になりたいと言っているが、これは侍女としての常套句であろう。五条の家には帰れないという裏には、二条院へ行くことをすでにOKしているのだろう。しかし、直接そうは言えないので、侍女の立場として同じ煙になりたいと言っているのだろうと思う。

年ごろ 04-218

長年。

馴れきこえつる人 04-218

親しくさせていただいた人とは主人である夕顔。

いかになりたまひにき 04-218

主体は、主人である夕顔が、五条の家に帰ると、同僚からあれこれ質問攻めにあうのは必定だが、それに答えることができないと光に訴えているのだ。

悲しきことをばさるものにて 04-218

「さるもの」は、悲しいのはやまやまだの意味。これはその後にもっと重要なことがつづく表現。すなわち、論理展開として、主人の死別の悲しみより、同僚から責められることがつらいと右近は考えているのである。だから、同じ煙になってしまおうと自暴自棄にいうが、本心というより、光が助け舟を出してくれることを念頭の上で言っているのだろうと思う。

道理 04-219

同じ煙となってしまいたいという、右近の気持ちはもっともであると、先ず光は相手の意見を受け止める。

さなむ世の中はある 04-219

「さ」は文脈ないしはその場の状況を受けるのであって、具体的な受ける言葉はない。世の中とはそうしたものだ、すなわち、死別は避けられぬのだということ。

別れと言ふもの悲しからぬはなし 04-219

「別れと言ふもの」の後に「の」を入れ、「死別というもので悲しくない場合はない」と同格に訳す解釈もあるが、すなおに主格でよかろう、「死別というものは悲しくない場合はない」。

とあるもかかるも同じ命の限りあるもの 04-219

長命でも短命でも同じように命に限りがある、すなわち、長命短命にかかわらず寿命に限界がある点では同じだとの意味。「さなむ世の中はある」の具体的な説明。

のたまひこしらへて 04-219

「こしらへ」は、この場合相手のために言葉を工夫してなぐさめること。しかし、光自身その言葉に反して悲しみゆえ生きて行けないというのだから、「我を頼め」もないものだというのが、「頼もしげなしや」との語り手の評。もちろん、これは光への批判ではなく、光の悲しみに語り手が同調し、いとしむように語っているのである。ある注釈は、からかっていると注するが、むろん、からかっているのではない。

や 04-219

詠嘆。読者への共感の誘い。何と~ではないでしょうか。

らむ 04-220

今ごろ外は夜明け近くなっているだろうという現在の推量。

たまひなむ 04-220

「なむ」は「たまへ」とい勧誘(命令)を強めている。

露けき 04-221

夜露にくわえ、涙にくれてと読むのが、古文の常套。

いとどしき 04-221

そのうえ。

いづこともなく惑ふ 04-221

帰り道がわからなくなることであって、どこかわからないところへさまよい出るのではない。どこに向って行こうとしているのか行き暮れること。

うち交はしたまへりしが我が御紅の御衣の着られたりつるなど 04-222

どうもこの個所は平安文法にのっとっていないず、おそらく定家の書き換えがなされているように思われる。「が」について、ないものとして処理するのが一般的である。しかし、書かれているものを無視はできない。残ったものをテキストとするからには、それで説明がつく限りは安易な変更はすべきでないと思う。この「が」は意味的に主格にはなりえず、同格とも取りにくい。院政期以後にできたという接続助詞の「が」と考えるよりないであろう。また「着られ」の「られ」についても、平安期には無生物が受身をとることがないとの規則により、これを自発などにとる考えが一般的だが、自然と着せられているということ自体、自発という考えを逸脱しているだろう。やはり受身に取るのが自然である。初めに述べたように、この箇所は、平安文法に習わない感じが受けるが、青表紙の諸本が同一文である以上、無視したり無理な説明をせずに疑問を残しながらも素直な解釈を当てはめておくのが現時点での最善策だと思われる。「うちかはし」は光の召物をひとつ衾として同衾したことをいう。その同衾した召物が夕顔の亡骸を覆っているのである。

また 04-223

鳥辺野に来るときと同様、帰る今もとの注があるが、来るときに惟光が世話をしたという記述はない。これは、夕顔が死んだ廃院からの帰りと同様、この帰りにも。

おはしまさする 04-223

「する」は使役。

すべり下り 04-223

ころげ落ちるようにして下り立つこと。

はふれ 04-223

行き倒れる。

さらに 04-223

打ち消しを伴い、すこしも。

我がはかばかしくは 04-223

諸注はこれを仮定とし、「出でたてまつるべきかは」をその結果として解釈するが、呼応関係があいまいである。ここは独立した二文と考えるのがよい。自分がもっとしかりしていればな、という、良かったのになどの結果を省略した反省と、いったいあのようにおっしゃったからとてこんな道中へお連れすべきだったろうか、という反語を使った深い後悔。

手を洗ひ 04-223

禊(みそぎ)のため。

清水の観音 04-223

千手観音で、霊験あらたかとして、当時あつく信仰されていた。

なむ 04-224

助けられて、そうして(ようやく)というニュアンス。

ける 04-224

詠嘆。なんとか帰りついたのである、と訳してみた。

あやしう 04-225

末尾の「嘆きあへり」にかかるのではないかと感じるが、ここは無難に諸注に合わせ「御歩き」にかかるとしておく。さらに気になるのは音便変化。どういう場合にそれが起こるのか、一度じっくり研究してみないといけないと前から感じているが、いまだ手がつけられずにいます。「人々」ここはお付きの女房であろう。

見苦しき 04-225

現代語の「見苦しい」は相手の行為・容貌の醜さを言う形状形容詞としての要素が強いが、古語の「見苦し」は見ている側の気持ちを表す心情形容詞としての要素が強い。従って、安易に見苦しいと訳すべきではないであろう。御付きの女房たちが主君である光に対して見苦しいというのは強すぎる。

わざ 04-225

行為・行動。

しきる 04-225

立て続けにそうする。「たどり」は手探りするように。
ここのように、光・右近・惟光という主人公たちから、スポット・ライトを女房たちに切りかえる手法は、物語の構造を重層的にさせる効果がある。舞台役者の背後にコーラスグループがいるような感じ。

2020-05-24

Posted by 管理者