04夕顔11

2020-05-24

夕顔 原文 04-195/04-206

195中将 さらば さるよしをこそ奏しはべらめ 昨夜も 御遊びに かしこく求めたてまつらせたまひて 御気色悪しくはべりき と聞こえたまひて 立ち返り いかなる行き触れにかからせたまふぞや 述べやらせたまふことこそ まことと思うたまへられねと言ふに 胸つぶれたまひて かく こまかにはあらで ただ おぼえぬ穢らひに触れたるよしを 奏したまへ いとこそ たいだいしくはべれと つれなくのたまへど 心のうちには 言ふかひなく悲しきことを思すに 御心地も悩ましければ 人に目も見合せたまはず 蔵人弁を召し寄せて まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ 196大殿などにも かかることありて え参らぬ御消息など聞こえたまふ
197日暮れて 惟光参れり かかる穢らひありとのたまひて 参る人びとも 皆立ちながらまかづれば 人しげからず 召し寄せて いかにぞ 今はと見果てつや とのたまふままに 袖を御顔に押しあてて泣きたまふ 惟光も泣く泣く 今は限りにこそはものしたまふめれ 長々と籠もりはべらむも便なきを 明日なむ 日よろしくはべれば とかくの事 いと尊き老僧の あひ知りてはべるに 言ひ語らひつけはべりぬる と聞こゆ 198添ひたりつる女は いかに とのたまへば それなむ また え生くまじくはべるめる 我も後れじと惑ひはべりて 今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる かの故里人に告げやらむと申せど しばし 思ひしづめよ と ことのさま思ひめぐらしてとなむ こしらへおきはべりつると 語りきこゆるままに いといみじと思して 我も いと心地悩ましく いかなるべきにかとなむおぼゆる とのたまふ 199何か さらに思ほしものせさせたまふ さるべきにこそ よろづのことはべらめ 人にも漏らさじと思うたまふれば 惟光おり立ちて よろづはものしはべるなど申す 200さかし さ 皆思ひなせど 浮かびたる心のすさびに 人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが いとからきなり 少将の命婦などにも聞かすな 尼君ましてかやうのことなど 諌めらるるを 心恥づかしくなむおぼゆべきと 口かためたまふ 201さらぬ法師ばらなどにも 皆 言ひなすさま異にはべると聞こゆるにぞ かかりたまへる 202ほの聞く女房など あやしく 何ごとならむ 穢らひのよしのたまひて 内裏にも参りたまはず また かくささめき嘆きたまふ と ほのぼのあやしがる 203さらに事なくしなせ と そのほどの作法のたまへど 何か ことことしくすべきにもはべらずとて立つが いと悲しく思さるれば 便なしと思ふべけれど 今一度 かの亡骸を見ざらむが いといぶせかるべきを 馬にてものせむとのたまふを いとたいだいしきこととは思へど さ思されむは いかがせむ はや おはしまして 夜更けぬ先に帰らせおはしませ と申せば このごろの御やつれにまうけたまへる 狩の御装束着 替へなどして出でたまふ 204御心地かきくらし いみじく堪へがたければ かくあやしき道に出で立ちても 危かりし物懲りに いかにせむと思しわづらへど なほ悲しさのやる方なく ただ今の骸を見では またいつの世にかありし容貌をも見む と 思し念じて 例の大夫 随身を具して出でたまふ 205道遠くおぼゆ 206十七日の月さし出でて 河原のほど 御前駆の火もほのかなるに 鳥辺野の方など見やりたるほどなど ものむつかしきも 何ともおぼえたまはず かき乱る心地したまひて おはし着きぬ

夕顔 原文かな 04-195/04-206

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

ちうじやう さらば さるよしをこそそうしはべらめ よべも おほむ-あそびに かしこくもとめたてまつらせたまひて みけしきあしくはべりき ときこエたまひて たちかへり いかなるいきぶれにかからせたまふぞや のべやらせたまふことこそ まこととおもうたまへられね といふに むねつぶれたまひて かく こまかにはあらで ただ おぼエぬけがらひにふれたるよしを そうしたまへ いとこそ たいだいしくはべれ と つれなくのたまへど こころのうちには いふかひなくかなしきことをおぼすに みここちもなやましければ ひとにめもみあはせたまはず くらうど-の-べんをめしよせて まめやかにかかるよしをそうせさせたまふ おほとのなどにも かかることありて えまゐらぬおほむ-せうそこなどきこエたまふ
ひくれて これみつまゐれり かかるけがらひありとのたまひて まゐるひとびとも みなたちながらまかづれば ひとしげからず めしよせて いかにぞ いまはとみはてつや とのたまふままに そでをおほむ-かほにおし-あててなきたまふ これみつもなくなく いまはかぎりにこそはものしたまふめれ ながながとこもりはべらむもびんなきを あすなむ ひよろしくはべれば とかくのこと いとたふときらうそうの あひしりてはべるに いひかたらひつけはべりぬる ときこゆ そひたりつるをむなはいかに とのたまへば それなむ また えいくまじくはべるめる われもおくれじとまどひはべりて けさはたににおちいりぬとなむみたまへつる かのふるさとびとにつげやらむ とまうせど しばし おもひしづめよと ことのさまおもひめぐらして となむ こしらへおきはべりつる と かたりきこゆるままに いといみじとおぼして われも いとここちなやましく いかなるべきにかとなむおぼゆる とのたまふ なにか さらにおもほしものせさせたまふ さるべきにこそ よろづのことはべらめ ひとにももらさじとおもうたまふれば これみつおりたちて よろづはものしはべる などまうす さかし さみなおもひなせど うかびたるこころのすさびに ひとをいたづらになしつるかごとおひぬべきが いとからきなり せうしやう-の-みやうぶなどにもきかすな あまぎみましてかやうのことなど いさめらるるを こころはづかしくなむおぼゆべきと くちかためたまふ さらぬほふしばらなどにも みな いひなすさまことにはべる ときこゆるにぞ かかりたまへる ほの-きくにようばうなど あやしく なにごとならむ けがらひのよしのたまひて うちにもまゐりたまはず また かくささめきなげきたまふと ほのぼのあやしがる さらにことなくしなせと そのほどのさほふのたまへど なにか ことことしくすべきにもはべらず とてたつが いとかなしくおぼさるれば びんなしとおもふべけれど いまひとたび かのなきがらをみざらむが いといぶせかるべきを むまにてものせむ とのたまふを いとたいだいしきこととはおもへど さおぼされむは いかがせむ はや おはしまして よふけぬさきにかへらせおはしませ とまうせば このごろのおほむ-やつれにまうけたまへる かりのおほむ-さうぞくきかへなどしていでたまふ みここちかき-くらし いみじくたへがたければ かくあやしきみちにいでたちても あやふかりしものごりに いかにせむとおぼしわづらへど なほかなしさのやるかたなく ただいまのからをみでは またいつのよにかありしかたちをもみ と おぼしねんじて れいのたいふ ずいじんをぐしていでたまふ みちとほくおぼゆ じふしち-にちのつきさし-いでて かはらのほど おほむ-さきのひもほのかなるに とりべののかたなどみやりたるほどなど もの-むつかしきも なにともおぼエたまはず かき-みだるここちしたまひて おはしつきぬ

夕顔 現代語訳 04-195/04-206

中将は、「それでしたら、その旨を奏上しいたしましょうが、昨夜も、管弦の会の折りに、熱心にお探しになられ、ご機嫌あしくあられました」と申し上げ、帰りかけたのを引き返し、
「どういう成り行きで穢れに出くわされたのです。縷々お述べになられた事柄、本当の話とは存ぜられませぬ」と言うのに、胸をつぶして、
「そんなに詳しくはせずに、ただ思いもかけぬ穢れに触れた旨を奏上ください。まったくもって困ったことになりました」と、表面的にはつくろったふうにおっしゃるけれど、心のうちでは、言葉に尽きせぬ悲しいできごとを思い出しになるにつけ、ご気分までおわるくなり、相手と目も合わせにならない。君は蔵人の弁をお呼びになって、誠意をもってくだんの説明を奏上させになる。左大臣家などにも、こういうことがあって参上できない趣旨のお手紙を差し上げになる。
日が暮れて、惟光が参った。かような穢れにあったとおっしゃるので、見舞いにあがった人々も、みな着座することなく早々にさがってゆくから、邸内はしんとして人気が少ない。惟光を召し寄せになって、
「どうであった。もうこれまでかと最後まで見届けたか」とお問いになりながらも袖をお顔に押し当ててお泣きになる。惟光も泣きに泣きながら、
「もうこれまで、助かることはなかろうかと。いつまでもこのまま見守っておるのは詮ないことで、明日は、日柄もよいことなので、あれこれのことは、とてもお偉いご老僧のよく知っておりますのに、よくよくもう話もつけてありますし」とお答え申し上げる。
「つき添った女はどうした」とお聞きになると、
「それがです、これも生きておられそうにない様子で。自分も遅れはしまいと取り乱しまして、今朝などは谷に身投げせんばかりの有様で。例の、もといた家の者たちに知らせたいと申すのですが、しばし心を落ち着けるのだ、後先のことをよく考えた上でと、そうなだめおいた次第で」とお話し申し上げているうちに、何ともたいへんなことになったとお感じになり、
「わたしもひどく加減が苦しくて、どうなってしまうのかと案じられる」とおっしゃる。
「何を、これ以上くよくよなさることがあります。なるようにしか万事はならぬもの、人に知れてはならないと思われますので、惟光がじきじきに諸事に当たりましょう」などと申し上げる。
「そうだな。その通りみな定めだと思ってはみるが、浮わついた心の気まぐれから人をなきものにしてしまった咎を負わねばならないのが、とてもこたえる。少将の命婦などにも聞かせるな。尼君にはましてこうし筋合いのことでは小言を受けるから、あわせる顔がない気がする」と、そう口止めをなさる。
「ほかの坊さんたちなどにも、すべて言いなした内容は事実とは違うものです」と申し上げる惟光の言葉を頼みとおすがりになる。
何かあるなと、もれ聞く女房などは、
「変だわ、なにごとかしら。穢れにあった旨をおっしゃって、宮中にも参内なさらない、そのうえ、あのようにひそひそと話してお嘆きになる」と、隠し事があるなと不審がる。
「けして間違いのないようしおおせ」と、その折りの仕様などをご命じになるのだが、
「滅相な、ものものしくなどしてる時でもありませぬ」と、立ち去ってゆくのが、なんとも悲しくお思いになり、
「おまえはきっと困ったものだと思うだろうが、もう一度あれの亡骸(なきがら)を見ないでは、とてもじゃないがやるせなくていられやしないんだから、馬で出かけよう」とおっしゃるのを、ひどく難儀なことだと思うが、
「そうまでお思いでは、どうしようがありましょう。早くお出でになって、夜の更けぬ先にお帰りあそばしませ」と申し上げると、近頃お忍び歩きにしつらえなさった狩着の衣装に着替えるなどしてお出かけになる。
お心持ちはすっかり暗くなり、とても堪え切れるものでなかったから、このように尋常ならざる用向きで道中に出立なされながらなお、命を危険にさらし懲りに懲りた昨夜の一件から行くべきかどうか心迷いはなされるものの、やはり死別の悲しさは抑えようがなくて、ただもう今ある亡骸を見ないでは、またいつの世になれば、今生で出会った顔形に逢えようかと思いになり、怖さをこらえ、例の大夫の惟光と随身を連れてお出かけになる。
道中まだかと遠くお感じになる。十七日の夜の立待ちの月がさしのぼり、六条の鴨の河原に出た時には、先払いの松明などでは心もとないにもかかわらず、鳥辺野の方を遠くお望になられる様子など、あたりの異様な不気味さも何ともお感じにならず、心中かきむしられるお気持ちのままどうにか目的の地に行き着きになられた。

夕顔 注釈 04-195/04-206

こそ+已然形 04-195

後の文と逆接でつながる。諸訳はここを切るが、逆接であれ、気持ち的に前後はつながっている。

かしこく 04-195

この語の意味は通常、畏れ多いの意味と副詞用法でたいそうの意味に別れるが、『注釈』のように両義をかねると見る方がよいように思う。

立ち返り 04-195

帝の使者としていったんは儀礼的に帰りかける、その上で光の友人として個人的に戻ってきたのである。

行き触れ 04-195

行った先で偶然穢れに遭遇すること。女のもとへ忍び歩きしていて穢れに触れたのではないかと、頭中将は忖度している。

たいだいしく 04-195

公的な怠慢を自己非難しているのではなく、単に事態が自分にとって不都合であるとの意味である。頭中将に見ぬかれぬよう、自分はさも偶然の被害者であるかのように表面をつくろっているというのが、「つれなし」であり、しかし、本当はそうでないという説明が「心の中には」以下である。

まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ 04-195

「まめやかに」は「奏(す)」にかかる。誠意をもって奏上するの意味。蔵人弁がそのように光は命じたのである。自分の説明に疑問を抱いている頭中将からの奏上ではまずいことになりかねないと案じたのである。このあたりの権謀術は、当時の貴族の政治意識が反映されているのだろう、おもしろいところである。

のたまひて 04-197

主体は光。見舞客ではない。

立ちながら 04-197

立ったまますぐに。

今はと 04-197

これで最後だなと見極めのつくところまで。

籠もり 04-197

亡骸をすぐに埋葬するのではなく、蘇生しないかしばらく死体の側で見守る習慣があった。

日よろしはべれば 04-197

陰陽道の占いにより、日取りとして埋葬をしてよい日であるの意味。すでに高徳の僧に話がつけてある(「言ひ語らひつけはべりぬる」の「ぬる」は完了)のだから、ここは確定条件である。それゆえ、「日よろしはべらば」と仮定条件になっているテキストは、同意できない。「とかくのこと」は葬儀万端。「ぬる」は連体終止になっている点を読み落としたくない。まだ話は続くのであるが、光の問いにより中断されたのである。最後まで見届けたのかという詰問に、「もうお坊様にも話がつけてありますし」と、惟光は口ごもっている様子が想像される。惟光は実務的にことを進め、噂など立たぬ前に処理してしまいたいのである。

女 04-198

右近。それまでの別の呼び方(右近の場合は「女房」)から「女」という呼び方に変化した場合には、一般に性的関係が結ばれたことを示す。この場合、それを示す描写はないが、主人である夕顔を失って、心身両面から光源氏を頼らねばならない状況であることは歴然としている。今性交渉がなくとも早晩そうなる状況下にあるのだから、光の女(庇護を受けて暮らしを立てる存在)として語り手から認識されるのかも知れない。

落ち入りぬ 04-198

「落ち入り」は身を投げること。「ぬ」は今にもそうしそうな状態だったということ。一種の未来完了とみると分かりやすい。(日本語は過去形は発達しているが、未来はあまり発達していないため、現在形で未来をあらわすことがある)。

かの故里人 04-198

「かの」は諸本では右近の発言とするが、惟光が光にわかりやすく「あの・例の」と添えているのであって、右近の発言は「古里人」からである。右近の発言と考えるならば、右近が「かの」と言った文脈が必要となる。しかし、惟光の話の流れには、右近が話をしたその文脈は邪魔であり、引用したとすれば意味不明であろう。こういう意味不明なことを平気でしてしまうのが、これまでの古文解釈であるのは嘆かわしい。

こしらへ 04-198

ここちらの都合のいいように相手をなだめ、その場をとりなすこと。右近に無茶をされては、ことが発覚しかねないのだ。

いみじ 04-198

神聖なものや畏れ多いもの・死などと密接につながっている言葉である。ここも夕顔の死を思い出し、感情が極点に達しているのである。

思ほしものせ 04-199

あれこれ思い迷うの敬語。

さるべきにこそ 04-199

なるようになること。あらかじめ定めとして決まっているの意味。

おり立ちて 04-199

惟光自身が人任せにせず自分でしっかりと面倒をみること。

さかし 04-200

「さ」は、「さるべきにこそよろづのことはべらめ」という惟光の言葉を受け、その通りだなと光が実感している。次の「さ」も同じ言葉をさす。

皆 04-200

万事。

浮かびたる 04-200

浮ついた。

いたづらになしつる 04-200

人を死なせたこと。

かごと 04-200

非難。

諌めらるる 04-200

「らるる」は尊敬でなく受身。これまでも光の発言中、尼君には敬語は使われていない。

さらぬ法師ばら 04-201

「さ」は葬儀のことを頼んだ「いと尊き老僧」をさし、そうでない・それ以外の僧侶たちの意味。「さらぬ」は「さあらぬ(そうでない)」の短縮。

異に 04-201

事実と違う言い方をしてあるの意味。

かかりたまへる 04-201

その言葉を何よりの頼みとしてすがりつくこと。ことが発覚すれば、光の将来も危うくなる可能性があるのだろう。実際どうなるかはわからないが、光はひどく恐れている。

ほの聞く 04-202

「ほの」は、漏れた部分が少なく、その隠れている部分に関心が向っている時に使われる表現。

ささめき 04-202

ひそひそ話す。他人を意識して声をひそめている場合。これに対して「ささやく」は、 小声で話すことに違いはなくとも、人に聞かれぬようにという意識はない。

ほのぼのあやしがる 04-202

「ほの」に同じ。すこしだけ怪しく思うのではなく、わかる部分が少ないだけに、わからない部分に大きく興味をもって怪しんでいるのである。「ほの」はなかなかつかみにくい語であるが、この二例からその語感をつかんでほしい。

さらに事なくしなせ 04-203

「さらに」は、その上にの意味ではなく、後の否定と呼応して、決して~ないの意味。「事なく」は、問題なくでよいが、そもそも「事」は大事(だいじ)の意味。大事のないようにということ。間違いのないよう手抜かりなくという意味。

そのほどの作法 04-203

葬儀の進め方。

ことことしく 04-203

大袈裟。光が命じた「そのほどの作法」が、女の身分からも、人目についてはならないという観点からも、惟光にはたいそう過ぎると感じたのである。

便なしと思ふべけれど 04-203

以下の提案をしては、おまえ(惟光)は人目につくから具合が悪いと頭をかかえるだろうがということ。「思ふ」の主体は惟光。「べけれ」は光からの推量。

いぶせかる 04-203

晴らしようのない心の閉塞感。

たいだいしき 04-203

スムースにことが運ばず面倒なという感覚。惟光にとれば、光が夕顔の死体に逢いに行くなんて面倒はとりたくない。はやく葬儀をすませてしまいたいのだ。

いかがせむ 04-203

反語でどうしようもない、止めようがない。「帰らせおはしませ」は一語。お帰りあそばせの意。「御やつれ」は、女のもとへの忍び歩き。

かくあやしき道 04-204

死体に逢いにゆくという怪態な道中。

出で立ちても 04-204

「も」は強意ではなく逆接。これは「危なかりし物懲りに」にかかるのではなく、「危なかりし物懲りにいかにせんと思しわづらへど」までは挿入句、「なほ……」にかかってゆく。貴人が身分の知れぬ女の死体に逢いにゆくなどということは常軌を逸した行動にもかかわらずということ。そもそも、つい昨日の夜命を落とさぬばかりの恐ろしい目にあって懲り懲りしたではないか、自分でも行こうかどうしようか迷いがあるにもかかわらず、「なほ……」とつづく。挿入句といったが、「御心地……出で立ちても」と「危かりし……思しわづらへど」の二句を「なほ」が受けると考えてもよい。

思し念じて 04-204

「思す」と「念ず」の二動作。「念じる」は悲しさやこの機を逃してはいつ逢えるともしれない悲しみをこらえるのではない。「悲しさのやる方なく」とあって、悲しさがこらえられないから、また命の危険があるやもしれぬのにのこのこ出かけてゆくのである。ここは、またもののけに遇うかもしれない、死の穢れに触れるかもしれないという恐怖をがまんして。「いかにせんと思しわづらへど」と「念じ」が呼応関係にある。先の「も」と同じで、どこがどこにかかるのかを押さえずに、のほほんと読んでいると足をすくわれる。古典読解に必要な道具はいたって少ない。簡単な文法と古語の感覚とどの語がどこにかかるかの三つ。文法は高校で習う以上のことはないし、古語の意味はまあ辞書にあるのだから、最後のところだけ頭を悩ませればいい。話は簡単だ。もっとも、古語の感覚は、辞書まかせでは本当は論外で、結局、問題は古語ではなく言葉に対する感受性の問題、つまりセンスのよさが問われるのだから厄介である。

大夫 04-204

惟光。

道遠くおぼゆ 04-205

道中が怖いためとの注があるが、「ものむつかしきも何ともおぼえたまわず」とあるから、その解釈は間違いである。「鳥辺野の方など見やりたる」とあり、これは早く夕顔のもとに着きたくて、目的地の鳥辺野を遠く見やったのだ。そもそも「御前駆の火もほのかなるに」の「ほのかなるに」の原義がつかめていれば難なくここの解釈はできるはずである。火がかすかだから怖くて遠くを見たのではない。松明の火の届く範囲は知れているのに、それでも目的地が見えないかと期待して遠く望んでいるのである。前回説明したとおり、漏れてくる部分が少ないのが不満で隠れている部分に期待を寄せているのが「ほの」の原義。

河原 04-206

鴨川の河原であって賀茂川の河原ではない。この川は北から南に流れるYの字の形の川である。現在の呼称は北西から合流点まで流れ来る部分を賀茂川、北東から合流点までを高野川、合流点以南(今出川通りのあたり)を鴨川と呼ぶ。光の居邸は二条院は二条東洞院(にじょうひがしのとういん)にあり、目的地の鳥辺野は六条東山にある。その行き方としては、二条通りを東にゆき鴨川に出て、河原沿いを南に下がるコースと、東洞院通りを南に下がり、六条から東に折れるコースがある。鴨川沿いはもちろん今のような堤防があって整理されているのではないから、ここにあるように「ものむつかし」すなわち、このうえなく不気味な場所である。当然あとのコースをたどったであろう。こちらのコースでは河原を一度横切ればいいだけであるからだ。ということは、「河原のほど」は場所として一点に絞られる。六条の鴨川の西詰(にしづめ)である。通りが豁然とひらけた六条の河原で目的地の鳥辺野を見やったのである。「鳥辺野の方など」とあるのは、もう鳥辺野は目の前であり、目の前に広がる鳥辺山の広範囲の中でここかあそこかと夕顔の亡骸の置かれている場所を見渡したのであって、鳥辺野とそれ以外の別の場所を見渡したわけではないだろう。「ものむつかしき」は周囲のとてつもない気味の悪さ。薄気味悪いといった程度ではない。「もの」はそのもののもの。気味悪さそのものといった感じを受けるくらいの気味の悪さ。あるいは、漠然とでなく気味悪さが物体化したらこうだろうと感じられるようにというニュアンス。

かき乱る心地 04-206

夕顔を死なせたことに胸を痛めて。この部分の心情を整理する。早く夕顔のもとに行ってやりたいのにはかが進まない。六条の河原に出た時には、かすかな火ではっきり見えるでもないのに亡骸の眠る鳥辺野の方を見やり、周囲の気味の悪さなど微塵も感じず、夕顔へと思いをはせる。あれほど怖かったのに恐れを感じないのは、夕顔を死なせたことに対するすまなさで胸をしめつけられるばかりであるから。
前回は、恐ろしい道中にもかかわらず、死ぬ目にあって懲り懲りながらも、「なほ悲しさやる方なく」、怖さをがまんして出てきたとあった。ここでは、もう怖さを感じていないのである。恋人を亡くした悲しみとただただ早くそのもとへ着きたい一心である。こうした細部にある微妙な心情の変化を読み取らなければ、源氏を読んだことにはならない。源氏のよさはそうした細部に至るまでの神経こまやかな書きぶりにあるから、それを見逃すのであれば、源氏の世界は見えてこない。

おはし着きぬ 04-206

着いたばかりと解釈するのでは、「おはしぬ」でも「着きぬ」でもいいわけで、道中たいへんであったがなんとかたどり着いたというニュアンスが、連語にすることで、すなわち、単独の言葉より長くなる、その長さによって、そのように感じられるのだ。

2020-05-24

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