いとかかるもさまか 末摘花05章18

2021-05-11

原文 読み 意味

いとかかるも さまかはり 思ふ方ことにものしたまふ人にや と ねたくて やをら押し開けて入りたまひにけり

06066/難易度:☆☆☆

いと/かかる/も さま/かはり おもふ/かた/こと/に/ものし/たまふ/ひと/に/や/と ねたく/て やをら/おし-あけ/て/いり/たまひ/に/けり

こんな風でも、うって変わって、思う人が別にいらっしゃるお方ではないかと、いまいましくなり、そっと襖(ふすま)を押し開け中に入ってしまわれた。

いとかかるも さまかはり 思ふ方ことにものしたまふ人にや と ねたくて やをら押し開けて入りたまひにけり

大構造と係り受け

古語探訪

いとかかるもさまかはり思ふ方ことにものしたまふ人にやとねたくて 06066

「いとかかるも」の「も」について、順接と考え、こんな風につれないのも(実は……であるから)と訳されている。つまり、「……でるのも」の「も」と考えるのである。しかし、この係助詞の「も」には逆接的意味も考えられる。「……でありながらも」の「も」である。こんな風にすげなくしておきながらも、実は別に男がいるのではと光は勘ぐり、頭に血を上らせる場面。自分にすげないその理由として、別に男がいることを邪推すると考えるより、自分にはすげなくしておきながら、他に男がいることに嫉妬し、相手にされずばかにされていることで、「ねたし」という感情にカッとなったのだ、と考える方がスムーズである。(そもそも、理由を考えるのは頭の働きであり、冷静さとつながるのである)。このことを考える上で重要なのは「ねたし」という感情語。この語は現代語と相違するので注意を要す(注釈者がそれを知らないことはないし、訳の上でも気をつけてはいるのだが)。「ねたし」は現代語のように、相手の色男がねたまれるの意味ではない。女の仕打ち、つまり、本当は色恋について知っていながら、自分を相手にしない態度を、うとましく感じるとの意味である。他の男に許しておきながら、自分はなぜだめなんだと逆上するわけ。「も」一語がこれだけのことを語るわけである畏るべしではないか。なおまた、ここでの「思ふ方ことに」の筆頭として光の頭によぎるのは、他ならぬ頭中将である。光が初めて末摘花のもとを訪ねたおり、頭中将はその後をつけており、帰りがけにふたりは鉢合わせるという事件があったことを思い出すべきである。ただし、そのことをもって、頭中将を「ねたし」と考えてはいけない。あくまで「ねたし」は自分にはつれない末摘花の態度なのである。
さて、ついでながら、助詞以外に解釈の誤る原因(予想では数万はいただけないと思う箇所がある)をあげれば、かかりと受ける語に注意を払わないこと(これが圧倒的に多い)、文脈の中で意味を決定する習慣に欠けること、古注を鵜呑みにして自分で考えようとしないこと(もしかするとこいつが元凶かもしれない)、ついつい現代語に引きずられてしまうことなどである。要するに考える作業を放棄してしまっているのだ。「ねたし」が男でなく、つれない女に向けられていることを理解すれば、「ねたし」の具体的意味を考えることになろう、すると、男を知っていながら、なぜ自分にはやらせないのかという身勝手さが読み取れようし、そこから「いとかかるも」の読み直しが迫られるのである。そこまで来れば、「さまかは7り」を普通ではなくてと訳して意味がないことが知られるわけである。そこで「さまかはり」:「も」は実は、文の流れから自然に逆接に読んでいたので(他の注釈が順接に読んでいることに驚いたくらいだから)ほとんど考える必要がなかったのだが、「さまかはり」については考えさせられた。つまり、考えるとは、わからないと思うことに対してなされることなのだ。「も」は逆接の読んで自然だったから考えずにすませたが、「さまかはり」は他の注釈者と同様、「普通と違って」と解釈してみたが、具体的に何が言いたいのかよくわからなかった。求愛に答えないことがなぜ「さまかはり」なのか。冷感症の女ということでこれはまだ理解できるが、なぜ、これが他に男がいることと並列されているのか理解できなかったのだ。「さま」が「変り」とは、別に意味がないかと考えると、「様変わりする」との意味があることに思い当たる。つまり、自分に見せている態度から豹変してとの意味。これで、上に述べたような「ねたし」の真意がわたしには理解できたのである。外国文学について考えればわかりやすいと思うが、この程度の理解がなければ読んだとも言えないし、まして翻訳や注釈などつけることは土台無理である。訳文として出来上がるのは氷山の一角であり、水面下にはそれを支える原文理解がなくてはならない。これに比して、日本の古典の注釈書は、辞書的説明(つまりほとんど文脈抜きの語句の注釈)であるし、何となく訳せてしまうから、改めて分析してみない。しかのみならず、注釈も訳文も多くは孫引きである。よそではとても考えられない。わたしは、わたしの性格ゆえか、わからないことはすませられない。「さまかはり」を普通でなくと訳すのは、辞書がやってくれる作業で、それでは文脈上意味をなさないと気づいたが最後、どうしたって辻褄の合う説明を求めないわけにはいかない。それだけのことである。それだけというのは、文脈がある以上、文脈をつかみ損ねていない限り、すべての語句は説明できるはずである。どこまでその焦点をあわせられるかは、その語句の全体に占める大切さの度合いによる。従って、いわゆる難語という源氏にしか現れず、具体的意味を特定できない語にしても、それが服の名だとか、色の名だとか、解釈に最低必要な説明はつけられる。それゆえ、語句を説明することはさして難しいことではない。一番問題なのは、異変に気づくこと。これは本当に難しい。ある語Xが文脈Rとどう関わりがあるのだろうかと、せいぜい気遣う習慣を身につけることである。この講義ではなるべく見過ごしのないよう、わたしのできる緻密さにおいて抜かりなきよう心がけている次第。もっと緻密な方がさらなる注釈をつけてくださることを望んでいる。

やをら 06066

静かに、音を立てず。

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