いとつつましげに思 末摘花05章09

2021-05-11

原文 読み 意味

いとつつましげに思したれど かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども 夢に知りたまはざりければ 命婦のかう言ふを あるやうこそはと思ひてものしたまふ 乳母だつ老い人などは 曹司に入り臥して 夕まどひしたるほどなり

06057/難易度:☆☆☆

いと/つつましげ/に/おぼし/たれ/ど かやう/の/ひと/に/もの/いふ/らむ/こころばへ/など/も ゆめ/に/しり/たまは/ざり/けれ/ば みやうぶ/の/かう/いふ/を ある/やう/こそ/は/と/おもひ/て/ものし/たまふ めのとだつ/おイびと/など/は ざうし/に/いり/ふし/て ゆふまどひ/し/たる/ほど/なり

とても気が引けるようにお感じであるが、このような場合の、目論見があって人にものを言っているのだという相手の心持ちなどもまったくご存じなかったので、命婦がそう言うのを、そうする仔細があるのだろうと思って、従っていらっしゃる。乳母代わりの老女などは、自分の部屋に入ったなり横になって、早くから眠たがっている頃である。

いとつつましげに思したれど かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども 夢に知りたまはざりければ 命婦のかう言ふを あるやうこそはと思ひてものしたまふ 乳母だつ老い人などは 曹司に入り臥して 夕まどひしたるほどなり

大構造と係り受け

古語探訪

いとつつましげに 06057

つつましくしていたい、引っ込んでいたいという気持ちで、「世を尽きせず思し憚る」様子、「奥ざまへゐざり入りたまふ」様子である。

思したれど 06057

「ものしたまふ」(そこにそうしていらっしゃる)にかかる。

かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども夢に知りたまはざりければ 06057

「かやうの」は「人」にかかり、そのような人、すなわち光と取り、そのよう(に高貴)な人に話をする心遣いの方法を(まったくお知りでないので)と解釈されている。しかし、この解釈は以下の理由により間違いである。ひとつは、「心ばへ」という表現は、自分の気遣いの仕方に用いるよりも、圧倒的に他人の気遣いに使われる。そもそも「心ばへ」とは、心(真意、心の内)が表に現れ、他人から見えることである。その原義からして自分に用いにくい言葉なのである。また、光に話をするのは、未来のことなので「らむ」がこの解釈からは説明がつかない。例えば、この意味では、先には「人にもの聞こえむやうも知らぬを」と、未来の「む」が使用されている。なのに、なぜここは「らむ」になっているのか説明がつかいのだ。そして一番重要なことは、その解釈では意味が通じないからである。「知りたまはざりければ」は、ご存じなかったのでと訳されており、そのように訳すよりないのだが、そうであれば、この文章は全体として、「~なので……だ」という文になることになる。すなわち、理由とその帰結の文である。ところが、今用いられている解釈を当てはめると、「話し方を知らないので、命婦に従った」となるが、これは物語の趣旨に著しく逆らう。なぜなら、これまで、話し方を知らないことを理由に、命婦の意見を拒否してきたからである。いくら命婦の説にも理由があろうと感じた(「あるやうこそはと思ひて」)としても、それだけで手のひらを返すとしたら、今まで拒んできたのは何だったのだと怒りで本をぶん投げるだろう。意見をひるがえすにたるだけの理由も描けないような、そんなへたな文章に、私はつきあう気など毛頭ない。ひどく理走った読みに聞こえるかも知れないが、理屈っぽく聞こえるのは、証明の仕方が理屈っぽいだけであって、要するに、これまで左だと言っていたのが、急にさしたる理由もなく右だと言われては、面食らうだろうという単純な話に過ぎない。では、ここをどのように解釈すればよいのか。方法は至って単純で、ただ自然に読むだけである。「心ばへ」は、他人の気持ちの表れ。「らむ」は現在の推量。「ければ」は理由表現。この三点を素直に取り入れるだけのことである。「人にもの言ふらむ」は、今しゃべっているのだから、命婦。従って、「心ばへ」の「心」は命婦の真意、「ばへ」はそれがそとに現れていること、つまり、「あはあはしき御心などはよも」に対し、何もしないと言う表現を使うこと自体が何かするかもしれない状況にあると、怪しむべきだが、そういう言葉の綾をつかむ力もなく、さらには「二間の際なる障子手づからいと強く鎖して……」という表現に現れている意図をつかむ能力もないのである。難しいのは「かやうの」であるが、(おそらくこれを無批判に「人」にかけて読んだことが、すべての誤読の出発なのだろう)、これは「心ばへ」にかけて読めばよい。「かやうの心ばへ」「人にもの言ふらむ心ばへ」がひとつになって、原文となったのである。長くなったが、以上の説明のごとく、気は乗らないものの、人の発言の裏に現れる真意を見抜く力がないので、末摘花は命婦の今の話を真に受け、それに従ったという論理展開となる。ここには、先の解釈に見られるような何の不自然さもないと思うがどうであろう。

あるやうこそは 06057

「あらめ」などが省略された表現、そうある理由があろうということ。

乳母だつ 06057

乳母ではないがその代理を果たす人。ただし、「だつ」には一種の軽蔑が感じられる。

曹司 06057

女房たちが使用する自室。

夕まどひしたるほど 06057

「夕まどひ」は、夕方より睡眠に襲われること。「ほど」は、時刻ではなく、時節の意味である。八月の二十日過ぎ、今の中秋過ぎた頃、暑さも終わり、夏の疲れが一気に出る季節で、老女が夕方から眠くなる頃を言うのだろう。「夕まどひ」は夕方から眠いというだけで、今何時なのか特定できないから、時刻の意味での「ほど」は意味をなさなくなる。

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