かの空蝉のうちとけ 末摘花08章24

2021-05-13

原文 読み 意味

かの空蝉の うちとけたりし宵の側目には いと悪ろかりし容貌ざまなれど もてなしに隠されて 口惜しうはあらざりきかし 劣るべきほどの人なりやは げに品にもよらぬわざなりけり 心ばせのなだらかに ねたげなりしを 負けて止みにしかな と ものの折ごとには思し出づ

06130/難易度:☆☆☆

かの/うつせみ/の うちとけ/たり/し/よひ/の/そばめ/に/は いと/わろかり/し/かたちざま/なれ/ど もてなし/に/かくさ/れ/て くちをしう/は/あら/ざり/き/かし おとる/べき/ほど/の/ひと/なり/や/は げに/しな/に/も/よら/ぬ/わざ/なり/けり こころばせ/の/なだらか/に ねたげ/なり/し/を まけ/て/やみ/に/し/かな/と もの/の/をりごと/に/は/おぼし/いづ

あの空蝉の場合も、契りを結んだ宵の横目には、ひどく見栄えしない顔立ちであってが、対応のみごとさに隠れて、失望を感じなかったもので、見劣るに決まった人であろうか。いや、まったくもって、女のよしあしは階級によらぬ意味深いものだことよ、機転がよく効いて癪に思えたが、根負けして止めてしまったものだと、何かあるごとに思い出しになった。

かの空蝉の うちとけたりし宵の側目には いと悪ろかりし容貌ざまなれど もてなしに隠されて 口惜しうはあらざりきかし 劣るべきほどの人なりやは げに品にもよらぬわざなりけり 心ばせのなだらかに ねたげなりしを 負けて止みにしかな と ものの折ごとには思し出づ

大構造と係り受け

古語探訪

かの空蝉の 06130

「の」は何格であろうか。これはなかなかの難問である。考え方をかえて、どこにつづくのだろうか。かかりそうなところは、A「うちとけたりし宵の側目」B「容貌ざまなれど」C「人なりやは」D「心ばせ」など。Aは側目が光の行為だからだめ。Bは「なれど」につづくから変(「空蝉の容貌ざまなれど」は言葉にならない)。C「なりやは」につづくのでだめ。Dは素直につづくが、あまりに遠く自然ではない。この「の」は特殊で、準体格と考え、あとに「場合は」「容貌は」などを補って、「容貌ざまなれど」につづくと考えるよりないと思う(それか、不自然でも連体格と考えて「心ばせ」につづけるかだ)。「かの空蝉の(場合は)……いとわろかりし容貌ざまなれど」となる。その間は挿入句。

うちとけたりし 06130

セックスのあとの放恣状態をいう。こういうところは、訳がごまかされて何を言っているのか、訳だけ読んだのではわからないところである。

もてなし 06130

衣服と注されているが、この語にそういう意味はなく、光との接し方、つまり、男を遠ざけるようでひきつけるテクニックである。そういう点が、まったく末摘花にはないのだ。

口惜しう 06130

つまらぬ女にひっかかった場合の気持ちなんかによく出て来る語。

「劣るべきほどの人なりやは」「げに」06130

諸注ともに、末摘花は空蝉に比べて劣る身分であろうかと解釈するが、ありえない。だいたい、宮家の血をひく末摘花と衛門督の娘を比較して、宮様が受領の女房に劣る身分だろうかなどという、発想方法をするはずがない。二人の階級差は「品」という語で歴然とあるが、女の出来として空蝉は末摘花に劣るはずの女であろうか、いいやそんなことはない、という自分への問いかけがこの部分である。その結果として、女のよしあしは階級によるのではないという結論に達するのである。「げに」とあるのは、雨夜の品定め(『帚木』)で左馬頭が諦観した「今は、ただ、品にもよらじ、容貌をばさらにも言はじ……」を、なるほどと反芻しているのである。ここで、ちょっと、雨夜の品定めにもどるが、その時にも注したが、一般に光はその折り、先輩方の女性論、すなわち、中流階級の女、わけても、もとは上流階級に属しながら今は落ちぶれている女性が一番いいという結論に真剣に耳を傾け、それを後に実践したのだと解釈されている。しかし、その当時、光の頭は、藤壺のことで満たされており、中流の女性が一番だなどという与太話を、入れる余地はなかったはずであり、現に居眠りしたり、ぼっとしていて注意されたりして、いっこう身を入れて聞いている様子はないのである。のちになって、そうした議論に添うようにして、話が展開し、実際に中流階級の女性と肉体関係を結び、心の交流をも交え、それぞれの魅力に引かれはするが、だからといって、藤壺よりそれらの女性がいいという議論にはならない。実生活をともにする紫の上を大事にすることと、藤壺への思慕とは、比較が難しく、紫を一番とも藤壺を一番ともしづらいが、雨夜の品定めの単純化された結論をもって、光と女性との関係を割り切るのは危険であると思う。

心ばせのなだらかにねたげなりし 06130

性格がおだやかでしっかりしていると解釈されているが、どこから読んでもそんな解釈にはならない。性格がおだやかなら、ねたしと感じないし、負けることもない。「心ばせ」は、気が走ること。利発さである。「なだらかに」は、角が立たないようにすることで、具体的には光がいろいろ言葉を尽くして情を結ぼうとするが、それをするするっとかわしてしまうことである。「ねたげ」は、光は空蝉に太刀打ちできずに小癪に感じてきたことを意味する。これは嫌うことではなく、好意が受け入れられないことからくる、反発と同時に敬意でもある。結局のところ、光は強引に空蝉を押さえつけることができず、中途半端で終わったから、若い光はいつまでも忘れられずにいるのだ。本当にいい女であったかどうかは、書かれていない。

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