ほのかに掻き鳴らし 末摘花02章11
原文 読み 意味
ほのかに掻き鳴らしたまふ をかしう聞こゆ 何ばかり深き手ならねど ものの音がらの筋ことなるものなれば 聞きにくくも思されず いといたう荒れわたりて寂しき所に さばかりの人の 古めかしう ところせく かしづき据ゑたりけむ名残なく いかに思ほし残すことなからむ かやうの所にこそは 昔物語にもあはれなることどもありけれ など思ひ続けても ものや言ひ寄らまし と思せど うちつけにや思さむと 心恥づかしくて やすらひたまふ
06015/難易度:☆☆☆
ほのか/に/かき-ならし/たまふ をかしう/きこゆ なに/ばかり/ふかき/て/なら/ね/ど もの/の/ねがら/の/すぢ/こと/なる/もの/なれ/ば ききにくく/も/おぼさ/れ/ず いと/いたう/あれ/わたり/て/さびしき/ところ/に さばかり/の/ひと/の ふるめかしう ところせく かしづき/すゑ/たり/けむ/なごり/なく いかに/おもほし/のこす/こと/なから/む かやう/の/ところ/に/こそ/は むかしものがたり/に/も/あはれ/なる/こと-ども/あり/けれ など/おもひ/つづけ/て/も もの/や/いひよら/まし と/おぼせ/ど うちつけ/に/や/おぼさ/む/と こころはづかしく/て やすらひ/たまふ
ほのかにかき鳴らされる琴の音は、興味深く聞こえる。何ほどのうまい演奏ではないけれど、琴の持つ音色は特別のものだから、聞きにくいとも思われない。なんともひどく荒れ渡った人気のない場所で、あのようなお方が、古めかしいほど窮屈にかしづき育てたであろう愛情の名残もないでは、どうして思いをお残しにならないことがあろう。このような場所にこそ、昔物語でも哀れ深い出来事があるものなのに」などと思いつづけるにつけ、何か言い寄れたらとお望みになるが、軽はずみだと思われはしまいかと、気後れがして、二の足をお踏みになる。
ほのかに掻き鳴らしたまふ をかしう聞こゆ 何ばかり深き手ならねど ものの音がらの筋ことなるものなれば 聞きにくくも思されず いといたう荒れわたりて寂しき所に さばかりの人の 古めかしう ところせく かしづき据ゑたりけむ名残なく いかに思ほし残すことなからむ かやうの所にこそは 昔物語にもあはれなることどもありけれ など思ひ続けても ものや言ひ寄らまし と思せど うちつけにや思さむと 心恥づかしくて やすらひたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
ほのか 06015
単に量の少なさを意味しない。こちらが期待している量に達しないため、この場合であれば、もう少し大きな音であればいいのにとの関心をふくんだ表現であり、物足りなさとは反対に好奇心がそそられている状況を示している。
ものの音がら 06015
そのものの持つ本来の音。「から」は本来の性質の意味。
いといたう荒れわたりて寂しき所に…など 06015
解釈がかなり分かれるところである。先ず、「所に」の「に」は場所を示す助詞とされているが、それでは、受ける用言がない。訳文を読んでも、続かないから、意味不明な訳になっている。もちろん、寂しい場所に据えたとは読めない。かつては寂しい場所であったのではないからである。従って、この「に」は助詞ではない。断定の「なり」の連用形と考えねばならない。あるいは「にあり」の省略と考えるしかない。いずれにせよ、そうとわかると、これが「名残なく」の連用形と呼応し、ともに「いかに思ほし残すことなからむ」にかかるという、文構造がすっきり見えてくる。意味はだいたい「こんな寂しくなった場所であり、親の愛情が跡形も消えているのでは」であり、次の判断を示す文の根拠が連用形の形で示されているのだとわかる。この部分を細かく見る。「荒れわたりて」は、結果として一面荒れたという現在の状況を示すと考えてよいが、そこには荒れかけてから荒れが広がっていく時間経過が「わたり」の語により示されている。「さばかりの人」は姫君の父である故常陸の親王で、「据ゑたりけむ」に対する主語。「古めかしうところせく」は、教育方法が古めかしいくらいに窮屈なものであること。「名残なく」:諸注の大きな間違いは、かしづき育てた名残がないとすることである。姫君の服装や、建物の荒廃はしても、教育として培われた教養や身のこなしなどは、しっかりと末摘花に残っているはずである。そもそも「名残」という語は、そこに籠められた思いの意味である。娘を育てるに当たっての子へ示してきた愛情や思いが、今は形として残っていないということである。親王の娘として相応の暮らしをさせてやりたいとの親の思いも空しく今や家が傾いてしまったとの意味である。決して教育して身に付いたことが残りなく失われてしまったのではないのだ。「いかに思ほし残すことなからむ」:主体を父ととる説と娘ととる説がある。まず、ルールとして、「……所に、……なごりなく、」という連用形で理由が示されている時に、その帰結文の主体が変わることは先ず考えにくい(全ての文を検討しないと、ないとは言い切れないが、たぶん、そんなことをしては文章が読めなくなるから、ないと言ってしまってよさそうである)。従って、娘と取る解釈には与しがたい。娘説が起こりえる理由として、「らむ」が現在推量であることが考えられる。常陸の親王は亡くなっているのだから、思いを残しているだろうというのはおかしいという理屈だ。しかし、そんなことを言っては、亡くなった人に対して、歌を詠みかけたり、思いをはせたりできなくなる。第一、「思ほし残す」は「思ひ残す」の尊敬形であり、「思ひ残す」は執着するという意味である。娘が何に執着しているというのであろう。亡き父親の娘への思いが、家は荒れ果て、慈しんできた思いも形として残っていないだけに、心配で執着という形でこの世に残っているであろうとの意味である。「かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」:「こそ……已然形は」逆接で下に続くのが原則。この場合、下に続くものはないが、後にくる表現が前に出たと考える。すなわち、前文と逆接の関係にあるのである。「昔物語」は、荒れ果てた邸に住む没落貴族の娘と、偶然知り合った貴族の男性が恋愛関係を結ぶ(その結果娘が救われる)という形式をとることが多い。ここからは、わたし流の深読みだか、知り合い二人を結びつける運命を操る、ないしそれに手を貸すのは、亡き父がこの世に残す娘へ愛情であるのだろう。「あはれなることども」は、恋愛感情を刺激するいろいろな出来事。かわいそうだとか守ってやりたいという感情もふくんでいる。こうした場所には、昔物語にあるように、いろいろ「あはれ」を催すできごとが多いのに、どうして親の愛情が残らないことがあろう、いや残るとなる。
以上が上で訳した解釈であるが、実は、別の考え方があるのではないかと思っている。上の考え方は、二点、気になる箇所があるのだ。ひとつは、連用形で理由を作っているとしたところ。「いかに……なからむ」という強い口調を帰結するためには、はっきりとした理由表現があるのが自然だからである。もう一点は、「あはれ」について、この語は男女の恋愛を多くいい、いわゆる哀れだの意味は少ないが、「こそ……已然形」の逆接ルールをとるなら、ここは恋愛感情よりも哀れみの意味が強く出てしまうからである。この二点をふせぐ解決がないではない。それは、「いかに思ほし残すことなからむ」を、話者の挿入句ととる読み方である。すなわち、「いといたう……ことどもありけれ」は光の心内語であるが、「いかに思ほし残すことなからむ」のみは、そうした光の心理に対する話者の説明と考えるのである。つまり、執着している主体を光と取るのである。そう読むと、「いといたう荒れわたりてさびしき所に……名残なく」は、挿入句を挟んで「かやうの所にこそは」とまとめられることになり、理由表現と考える必要がなくなる。なお、「さびしき所に」の「に」は助詞でも断定の助動詞でもよくなり、「こそ……已然形」は、前にも後にも文がなくなるので、強調の意味に解すことになる。前後がスムースにつながるのはこちらだと思うが、心内語に話者の挿入句を入れたという読みは突飛過ぎると思われる。現代小説にも、おそらく使われていない技法である。ふつうそんなことをしたら意味不明になるからだ。したがって、この一カ所のみ、それを行ったという読み方には無理がある。以下で同じようなことがあれば、その時に再考すべきであろう。
うちつけにや思さむ 06015
「うちつけなりと思さむや」の意味である。すなわち、「うちつけに」は副詞でなく、「や」があるために連用形になった「うちつけなり」という形容動詞(あるいは名詞+なり)である。さて、その意味だが、唐突であるとの意味と、軽はずみであるとの意味がある。諸訳により、どちらをとるかまちまちだが、唐突であるはいただけない。それは次に「心恥づかしくて」とあるからである。この語は、相手が立派であるために気後れすることである。唐突だからというのは、気後れにつながらず、単に、相手に対して無礼だというに過ぎない。自分の行動が相手に、軽はずみだと取られたらどうしようという心配があるから、気がひけるのである。
やすらひ 06015
ためらうこと。