思へどもなほ飽かざ 末摘花01章01
原文 読み 意味
思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を 年月経れど 思し忘れず ここもかしこも うちとけぬ限りの 気色ばみ心深きかたの御いどましさに け近くうちとけたりしあはれに 似るものなう恋しく思ほえたまふ
06001/難易度:☆☆☆
おもへ/ども/なほ/あか/ざり/し/ゆふがほ/の/つゆ/に/おくれ/し/ここち/を としつき/ふれ/ど おぼし/わすれ/ず ここ/も/かしこ/も うちとけ/ぬ/かぎり/の けしきばみ/こころふかき/かた/の/おほむ-いどましさ/に け-ぢかく/うちとけ/たり/し/あはれ/に にる/もの/なう/こひしく/おもほエ/たまふ
気持ちの上でいくら思っても満ち足りなかった夕顔が露と消え死に後れた思いを、年月を経ても思い忘れることがおできにならず、こちらでもあちらでも心うち解けることのない人たちばかりが、嫉妬してみたり愛情を示したりする場面で、互いに意地を張り合うので、身近にうち解け合った夕顔のことが、大切で似る人がないほど恋しく、つい思ってしまわれる。
思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を 年月経れど 思し忘れず ここもかしこも うちとけぬ限りの 気色ばみ心深きかたの御いどましさに け近くうちとけたりしあはれに 似るものなう恋しく思ほえたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
夕顔の露に後れし心地 06001
五七調の散文詩になっている。「夕顔」は女性の名であり、はかない花の夕顔をかける。
露に後れ 06001
女が露のようにはかなく亡くなり、自分は死に後れたということ。
年月経れど 06001
夕顔の死より六ヶ月しか経っていないが、年をまたぐために、この表現が使われたと説明されている。確かにこの表現は、年をまたぐことで成立するには違いないが、そうした物理的時間がこれこれであると突き止めることに意味があるとは思えない。夕顔を失ってから光の生きた時間、藤壺の懐妊、葵の嫉妬、六条御息所(らしき女性)との関係、若紫の発見など、濃密な時間が経たのにかかわらず、夕顔のことが忘れられないのである。
ここもかしこもうちとけぬ限りの気色ばみ心深き方の御いどましさにけ近くうちとけたりしあはれに似るものなう恋しく 06001
文構造と意味の両面で問題がある。先ず諸訳を見てみよう。A「このお方もあのお方も気のおける方々ばかりで、もったいぶってみたり心用意の深さを見せようとしたり、そうした面で張り合われるという有様だから」。問題はいろいろあるが細かい点はあとにして、どの注も「ここもかしこも」に対して、葵であり六条御息所であると説くのだが、六条御息所についてはこれまで具体的には何一つ表立って語られていないので不問に付すとして、いったい、葵が心用意の深さを光に示したことがあったろうか。
では、どのように解釈すべきか。こういう時にはすべきことは、問題の語が、源氏物語の他の箇所でどのように使われているかを見ることである。幸い、ネット上で検索が可能である。すると、「気色ばみ」はふつう、嫉妬をしてみせることの意味で使われており、これは悪い行いではなく、一種の愛情となっていることがわかるし、「心深し」は愛情深いの意味であり、他の訳にあるような教養があるという意味ではない。すると、「気色ばみ心深き」は、よいことになり、いよいよ混乱するが、ここからしかもつれはほぐせない。
まず、「うちとけぬ限りの……御いとましさ」と「け近くうちとけたりし」が対立することを押さえる。「気色ばみ心深き方の御いどましさ」は、嫉妬をみせたり愛情示したりする面での意地の張り合い。これ全体に対して、「うちとけぬばかりの」がかかる。この「の」は主格とも連体格ともとれる。通して訳すと、こちらでもあちらでも、心の通わない者ばかりが、嫉妬をしてみせたり愛情を示したりする場面で、意地を張り合う、となる。あるいは「うちとけぬばかりの」を程度ととり、ここでもあちらでも、心が決して通わないやり方で、嫉妬してみせたり愛情を示したりする場面で、意地を張り合う。
「御いどましさ」は、女同士の張り合いと解釈されているが、具体的に書かれていない御息所はともかく、葵が、他の女と張り合い、光に愛情を示したことはないので、光に対して、愛情を示すべき場面で意地を張ってしめさない、あるいは、素直なやりかたをしないと解釈すべきである。そう読んでこそ、葵や御息所と夕顔が対立するのである。
似るものなう 06001
音便は例により、中止法でなく連用修飾ととる。すなわち、「恋しく」を修飾する。