御いとまなきやうに 末摘花06章16

2021-05-12

原文 読み 意味

御いとまなきやうにて せちに思す所ばかりにこそ 盗まはれたまへれ かのわたりには いとおぼつかなくて 秋暮れ果てぬ

06087/難易度:☆☆☆

おほむ-いとま/なき/やう/にて せち/に/おぼす/ところ/ばかり/に/こそ ぬすまは/れ/たまへ/れ かの/わたり/に/は いと/おぼつかなく/て あき/くれ/はて/ぬ

君はお暇がないご様子で、是非ともと愛情をかけていらっしゃるお方だけはこっそりと出かけてゆかれているが、例のあたりにおいては、とても不安な様子で、秋は暮れてしまった。

御いとまなきやうにて せちに思す所ばかりにこそ 盗まはれたまへれ かのわたりには いとおぼつかなくて 秋暮れ果てぬ

大構造と係り受け

古語探訪

御いとまなきやうにて…秋暮れ果てぬ 06087

なかなか落とし穴が一文である。一番の落とし穴は「かのわたりにはいとおぼつかなくて」だ。諸注はかのあたり(末摘花)へはご無沙汰でと訳すが、どこから来る訳なのだろう。「おぼつかなし」は、相手の対象がはっきりせず、不安だ、わからない、逢いたいなどの意味となる。「おぼつかなし」とある時点でこれは末摘花の心情だととるのが解釈の第一。いや、末摘花に対する光の愛情がおぼつかなくての意味だと、なお考える人があろう。しかし、それは混乱がある。「愛情がおぼつかない」とは相手の愛情であって、相手への愛情ではない。「光の愛情がおぼつかない」と言えるのは末摘花であって、光ではない。それに何よりこの解釈がいけないのは、「おぼつかなし」の主体が光があれば、敬語が必要である。ここの部分が末摘花の感情だと読むことで、「なほ頼みこしかひなくて過ぎゆく」に素直に続くのである。では、なにゆえ、主体を光と取り違えたのか。同じ轍を踏まないために、ここからが重要なので、しっかり考えてほしい。それは、それまで主体が光であったからであり、光から末摘花に切り替わるポイントが分からなかったからである。まずターニングポイントとなるのは、「かのわたりには」である。その意味は、「あのあたりに対しては」の意味と、「あのあたりにおいては」の意味の両方がありえるのである。前者は主体が光、後者は主体は末摘花である。「かのわたりには」という表現は、「かのわたり」を話題に取り出すだけで、それが文章の中で、主体であるのか客体であるのかは問わない、まったく五分五分である。しかし、前の文の主体が光で、この文も途中まで光が主語になっているのだから、「かのわたりには」も主体を光ととるのが自然なようである。おそらく、各注釈者はそのように解釈したであろう。しかし、一点大きな思い違いがある。前の文の主体が光であることは自明だが、この文の冒頭の主体が光であることは自明ではない。「御暇なきやうにて切に思す所ばかりにこそ盗まはれたまへ」は、「御暇」「思す」などの敬語から光を主体にしたくなるが、「こそ……已然形」は語り手の挿入句であるケースが多い(ほとんどそうだと見てよい)ルールを思いだしてほしい。愛情の篤いところへは暇を盗んでゆかれるが、というのは末摘花の話題をする前の、対照表現として、他の女性を持ち出したに過ぎない。また「御暇なきやうにて」は「盗まはれたまへ」にかかるから、これも挿入句の一部である。従って、この一文は挿入句ではじまり、それを括弧に入れると、「かのわたりには」という出だしになる。それまでが、大臣邸でのこと、これ以降が末摘花の家のこと。「は」は区別の働き。これでこの段の全体の構成がスムースに理解できると思う。「過ぎゆく」という表現が二度でるが、これも大臣邸ではこのように時が過ぎ、末摘花の家ではこのように時が過ぎるという対照を明確化しているのである。いわば、相対性原理ということだ、光をとりまく大臣邸と末摘花の家では、時間の進み方が違うのだ、方や「興あり、暇なき」であり、方や「おぼつかなく、かひなく」である。

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