つれなう今来るやう 末摘花03章03
原文 読み 意味
つれなう 今来るやうにて 御笛ども吹きすさびておはすれば 大臣 例の聞き過ぐしたまはで 高麗笛取り出でたまへり いと上手におはすれば いとおもしろう吹きたまふ 御琴召して 内にも この方に心得たる人びとに弾かせたまふ
06031/難易度:☆☆☆
つれなう いま/くる/やう/にて おほむ-ふえ-ども/ふき/すさび/て/おはすれ/ば おとど れい/の/きき/すぐし/たまは/で こまぶえ/とり/いで/たまへ/り いと/じやうず/に/おはすれ/ば いと/おもしろう/ふき/たまふ おほむ-こと/めし/て うち/に/も この/かた/に/こころえ/たる/ひとびと/に/ひか/せ/たまふ
つれなくも大臣のもとにすぐにも来る様子でありながら、御笛など気ままに吹いておられるので、大臣はいつものごとく、聞き過ごしになれず、高麗笛をお取り出しになった。とても上手でいらっしゃるので、実にみごとにお吹きになる。お琴を召し寄せ、妻のいる御簾の内にも、このこの方面に心得のある女房たちに弾くようご命じになる。
つれなう 今来るやうにて 御笛ども吹きすさびておはすれば 大臣 例の聞き過ぐしたまはで 高麗笛取り出でたまへり いと上手におはすれば いとおもしろう吹きたまふ 御琴召して 内にも この方に心得たる人びとに弾かせたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
つれなう今来るやうにて御笛ども吹きすさびておはすれば 06031
「つれなう今来るやうにて」は、何くわぬ顔でと解釈されている、すなわち、女のもとへ行っていたことを隠し、宮中から今戻った様子をしての考えるのである。しかし、その読みは二つの点で賛成できない。ひとつは「つれなし」の語義から離れすぎていて不自然である点、もうひとつは「今来る」の意味は、「今戻った」の意味にならないからである。あまりに明々白々だから何を言っているかさえわからないかもしれながいが、こうである。「今」という語は、それのみでは、今から(未来)の意味にも、今ちょうど(現在)の意味にも、今はもう(現在完了)の意味にもなるが、それは時の表現と結びついてその意味が決定されるのである。感覚として、未来6割、現在3割であり、完了とはむすびつきにくい。例えば、『桐壺』より順に例をみてゆこう。「今は亡き人とひたぶるに思ひなりなん」は、「今は……なん」で、今後のことを示す決意である(「今は亡き人」ではない)。「もの思ひ知りたまふは……心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる」について、一見現在完了のように見えるが、亡くなった桐壺のことを今になって思い出すという現在の反復行為を示すのである。また、「今は、なほ、昔の形見になずらへてものしたまへ」は、命令形と結びついて、これからはの意味になる。さて、ここで「今来る」は、完了を示す表現がない以上は、ふつうに考えても「今来た」とはならず、今から行くという意味にとるのが自然なのである。来ると行くはおかしい気がするが、「来る」とは、行く先の相手から見た表現で、自分から見ればgoであり、相手から見ればcomeであるのと同じなのである。それではここで相手は誰か。それは左大臣である。左大臣は、二人が帰ってきたから挨拶に来るであろうと期待しているのである。今来るか今来るかと期待しているにもかかわらず、つれなくも、笛を吹いていて来ないのである。原文を忠実に読めば、「つれなう」は「来る」ではなく、「おはすれば」にかかる。つれなくも~しているである。つれなくも、今にも来そうにしていながら、笛を気ままに吹き愉しんでいるので、と解釈できる。そこで、左大臣としては、面目はつぶれるのだが、「例の聞き過ぐしたまはで」という性格であり、高麗笛を持って自ら光のもとに行くのである。ここで「例の」は「聞き過ぐし」ではなく「過ぐし」にかかる。いつも光が演奏をしているのではなく、光が帰って来るといつものように見過ごさずということ。今日はたまたま演奏をしていたので、「見過ぐす」ではなく「聞き過ぐす」となったのである。左大臣はなんと愛すべき人ではないか。「内」にもは、正妻である葵のいる母屋の御簾のうち。光のいる場所とは建物が別であるが、夜のしじまを通して、建物越しに合奏しあうのである。