よき折かなと思ひて 末摘花02章10
原文 読み 意味
よき折かな と思ひて 御琴の音 いかにまさりはべらむと 思ひたまへらるる夜のけしきに 誘はれはべりてなむ 心あわたたしき出で入りに えうけたまはらぬこそ口惜しけれ と言へば 聞き知る人こそあなれ 百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは とて 召し寄するも あいなう いかが聞きたまはむと 胸つぶる
06014/難易度:☆☆☆
よき/をり/かな と/おもひ/て おほむ-こと/の/ね いかに/まさり/はべら/む/と おもひ/たまへ/らるる/よ/の/けしき/に さそは/れ/はべり/て/なむ こころ/あわたたしき/いで/いり/に え/うけたまはら/ぬ/こそ/くちをしけれ と/いへ/ば きき/しる/ひと/こそ/あ/なれ ももしき/に/ゆきかふ/ひと/の/きく/ばかり/やは とて めしよする/も あいなう いかが/きき/たまは/む/と むね/つぶる
いい折りだことと思って、「お琴の音がどんなに優れて聞こえましょうかと、つい存知られます夜の風情に誘われて参りました次第。心せわしい出入りのせいで、鑑賞できないのが残念でして」と言うと、「弾き手の思いを聞き知る人があるとのことですが、あなたのように華やかな宮中へ出入りする人が聞くほどの腕かしら」と言いながら琴を召し寄せるのだが、無駄とは知りながら、君はどうお聞きになろうかと心配で胸がつぶれる。
よき折かな と思ひて 御琴の音 いかにまさりはべらむと 思ひたまへらるる夜のけしきに 誘はれはべりてなむ 心あわたたしき出で入りに えうけたまはらぬこそ口惜しけれ と言へば 聞き知る人こそあなれ 百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは とて 召し寄するも あいなう いかが聞きたまはむと 胸つぶる
大構造と係り受け
古語探訪
御琴の音いかにまさりはべらむ 06014
『新全集』は、光に対してと正反対のことを述べ、命婦の口上手を印象づけると注している。面白い注釈だ。
聞き知る人こそあなれ百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは 06014
「琴の音の分かってくれる人がいるということですね」との解釈がなされているが、なんのことかいな。ぼくなりに解釈し直すと、「あなたのの発言から察するに、誰か琴を理解する人が側にいるということなのですね」ということなのだろう。この解釈の根拠は「あなれ」の「なり」は伝聞推量だから、あなたの発言から察すると……としたものと推量される。これが本当なら、末摘花は、誰か聞く人がいると知りながら琴を弾く女性となり、音楽は当然ながら、恋の道具であるので、かなり積極的な女性という性格を持つと考えなければならない。前回「かいひそめ人疎うもてなしたまへば(正体を隠し、人を遠ざけて暮らしているので)」とあったことと、およそ正反対な性格にならないだろうか。あるいは、性欲が溜まりに溜まって、今日だけは積極的になったのだろうか。冗談はさておく。この解釈がいただけないのは、「こそ……已然形……」の前後は、逆接でつながるという、受験生レベルの知識を見落とした点にある。何の根拠もなくあえて感覚だけで言ってしまうと、「こそ……已然形」は強調3割、逆接7割である。圧倒的に後者が多いのだ(2対8と言ってもいいくらいだ)。まず、「こそ……已然形」を外して考える。A「聞き知る人あなり」は、聞き知る人があるそうだの意味。「なり」は、ここでは伝聞であって、伝聞推量ではない。すなわち、あなたの発言から察すると聞き知る人が側にいるようね、ではない。琴の演奏から奏者の人の気持ちを理解する人があるそうね、の意味である。伯牙(ハクガ)の琴の演奏から伯牙のその時の気持ちを聞き知る鍾子期(ショウシキ)という人がいたという知音の故事(『列子』)を引いているのである。B「ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」は、華やかな宮中に出入りしている人が聞くに耐えるくらい腕があろうか、いやない」の意味。これは「御琴の音いかにまさりはべらむ」に対しての答え。さて、このAとBを逆接でつなぐのが、「こそ……已然形」の役目。通してわかりやすくすると、「琴の演奏から気持ちを理解する人があるというけれど(ここまでは一般論)、宮中に出入りしているあなたに聞かせられる腕じゃないでしょうね」となる、つまり、あなたはわたしにとっての鍾子期ではないと言いたいのである。ここがポイントである。前回、光は、三友を愉しんでいる末摘花に対して、自分が第四の友になれないものかと自問していた。その答え(もちろん、読者だけが知る答えであり、ふたりは単に独白しているに過ぎない)がここにあるのである。すなわち、三友(琴酒詩のこと)でなく、真の友(知音)がほしい、しかし、一番身近である命婦も、末摘花には物足りないのである。自分は身分こそ高いが、人前に出ることができないからである(因みに、ここで使った「こそ……が」という表現が、古文の「こそ……已然形」の現代版である)。しかし、そういう友を本当はほしい。人を遠ざけながらも、知音を望んでいるという引き裂かれた心の持ち主が末摘花なのだ。琴の音がわかってくれる人がいると言うのですね、じゃあお引きしましょう、ではないのである。
あいなう 06014
何かすることが無駄であること。この場合、どのようにお聞きだろうかと心配することが無駄であること。無駄とは知りながらの意味。