06末摘花06

2021-02-21

目次

06末摘花 原文 読みかな 対訳 088/108

イ:や行の「い」/エ:や行の「え」

《かしこには 文をだにと いとほしく思し出でて 夕つ方ぞありける》088
かしこ/に/は ふみ/を/だに/と いとほしく/おぼし/いで/て ゆふつかた/ぞ/あり/ける
あちらにはせめて手紙だけでもと、申し訳なく思い出しになり、なんと夕方になってお遣わしになるのだった。


《雨降り出でて ところせくもあるに 笠宿りせむと はた 思されずやありけむ》089
あめ/ふり/いで/て ところせく/も/ある/に かさやどり/せ/む/と はた おぼさ/れ/ず/や/あり/けむ
雨が降り出したのに、おっくうでもある上は、今夜笠宿りしようとは、やはりお考えではなかったのであろうか。


《かしこには 待つほど過ぎて 命婦も いといとほしき御さまかな と 心憂く思ひけり》090
かしこ/に/は まつ/ほど/すぎ/て みやうぶ/も いと/いとほしき/おほむ-さま/かな/と こころうく/おもひ/けり
むこうでは、待てども後朝の歌の来る時刻も過ぎて、命婦も、とても申し訳ないことになったなと、後悔に胸が痛むのだった。


《正身は 御心のうちに恥づかしう思ひたまひて 今朝の御文の暮れぬれど なかなか 咎とも思ひわきたまはざりけり》091
さうじみ/は みこころ/の/うち/に/はづかしう/おもひ/たまひ/て けさ/の/おほむ-ふみ/の/くれ/ぬれ/ど なかなか とが/と/も/おもひ/わき/たまは/ざり/けり
当の本人は、心から居たたまれないとお思いになって、今朝届くべきお手紙が暮れになったのに、かえってそのことを難ずべきこととも判断なされないのだった。


《夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさそふる宵の雨かな 雲間待ち出でむほど いかに心もとなうとあり》092
ゆふぎり/の/はるる/けしき/も/まだ/み/ぬ/に いぶせさ/そふる/よひ/の/あめ/かな くもま/まち/いで/む/ほど いかに/こころもとなう と/あり
「あなのたの心の夕霧が晴れる気色もまだ見ないうちに 気持ちまで滅入らせる宵の雨だこと 雲の切れ間を待つこの時間、いかに待ち遠しいことか」とある。


《おはしますまじき御けしきを 人びと胸つぶれて思へど なほ 聞こえさせたまへと そそのかしあへれど いとど思ひ乱れたまへるほどにて え型のやうにも続けたまはねば 夜更けぬ とて 侍従ぞ 例の教へきこゆる》093
おはします/まじき/みけしき/を ひとびと/むね/つぶれ/て/おもへ/ど なほ きこエ/させ/たまへ と そそのかし/あへ/れ/ど いとど/おもひ/みだれ/たまへ/る/ほど/にて え/かた/の/やう/に/も/つづけ/たまは/ね/ば よふけ/ぬ とて じじゆう/ぞ れい/の/をしへ/きこゆる
おいでになりそうにないご様子に、女房たちは胸のつぶれる思いでいるが、「それでもご返事を申し上げなさいませ」とそれぞれお勧めしあうが、ますます気が動顛しておしまいのお具合のため、型どおりの返しもおできにならないので、これでは夜が更けてしまうということで、侍従が例の通り教え申し上げる。


《晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心に眺めせずとも
口々に責められて 紫の紙の 年経にければ灰おくれ古めいたるに 手はさすがに文字強う 中さだの筋にて 上下等しく書いたまへり》094
はれ/ぬ/よ/の/つき/まつ/さと/を/おもひやれ おなじ/こころ/に/ながめ/せ/ず/と/も くちぐち/に/せめら/れ/て むらさき/の/かみ/の とし/へ/に/けれ/ば/はひ/おくれ/ふるめい/たる/に て/は/さすがに/もじ/つよう なかさだ/の/すぢ/にて かみ/しも/ひとしく/かい/たまへ/り
「晴れぬ夜に心も曇り月を待ちながらあなたを待っている里があることを 思いやってくださいまし たとえ同じ気持ちでいらっしゃらないにしても」 女房たちから口々に責め立てられため、紫の紙の年数を経ったために灰色っぽく古ぼけてしまったものに、筆跡はさすが骨法にかない、やや古めかしい流儀で、天地の余白をそろえてお書きになった。


《見るかひなううち置きたまふ》095
みる/かひ/なう/うち-おき/たまふ
君は見るかいなしという風に、読まずに置いてしまわれる。


《いかに思ふらむと思ひやるも 安からず》096
いかに/おもふ/らむ/と/おもひやる/も やすから/ず
あちらではどのようにお思いだろうと、思いやることさえしかねていらっしゃる。


《かかることを 悔しなどは言ふにやあらむ さりとていかがはせむ 我は さりとも 心長く見果ててむ と 思しなす御心を知らねば かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける》097
かかる/こと/を くやし/など/は/いふ/に/や/あら/む さりとて/いかが/は/せ/む われ/は さりとも こころながく/み/はて/て/む/と おぼし/なす/みこころ/を/しら/ね/ば かしこ/に/は/いみじう/なげい/たまひ/ける
きっとこういう事態をさして、悔しいなどという言葉は、遣われるのではあろうな、だからといってどうしようがあろう、わたしはそうした場合でも必ずや末長く世話しようと、そのようにご決心なさったお気持ちを知らないために、あちらではひどく嘆いておられた。


《大臣 夜に入りてまかでたまふに 引かれたてまつりて 大殿におはしましぬ》098
おとど よる/に/いり/て/まかで/たまふ/に ひか/れ/たてまつり/て おほいどの/に/おはしまし/ぬ
左大臣が夜になって宮中より退出なさるのに、つれられ申して君は大殿においでになった。


《行幸のことを興ありと思ほして 君たち集りて のたまひ おのおの舞ども習ひたまふを そのころのことにて過ぎゆく》099
ぎやうがう/の/こと/を/きよう/あり/と/おもほし/て きみ-たち/あつまり/て のたまひ おのおの/まひ-ども/ならひ/たまふ/を その-ころ/の/こと/にて/すぎ/ゆく
行幸の行事が楽しみだとお思いになって、若い公達が集まり、おしゃべりし、それぞれ舞などお習いになるのを、その頃の興味の中心として時は過ぎてゆく。


《ものの音ども 常よりも耳かしかましくて かたがたいどみつつ 例の御遊びならず 大篳篥 尺八の笛などの大声を吹き上げつつ 太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて 手づからうち鳴らし 遊びおはさうず》100
の/の/ね-ども つね/より/も/みみ/かしかましく/て かたがた/いどみ/つつ れい/の/おほむ-あそび/なら/ず おほひちりき さくはち/の/ふえ/など/の/おほごゑ/を/ふきあげ/つつ たいこ/を/さへ/かうらん/の/もと/に/まろばし/よせ/て てづから/うち/ならし あそび/おはさうず
さまざまにする楽器の音も、普段よりも耳やかましくて、公達はそれぞれ競いながら、いつものご演奏とは違い、大篳篥(オオヒチリキ)や尺八の笛などが大きな音を吹き立てていて、太鼓まで高欄のそばに転がせ寄せて、ご自身たちで打ち鳴らし競演なさっている。


《御いとまなきやうにて せちに思す所ばかりにこそ 盗まはれたまへれ かのわたりには いとおぼつかなくて 秋暮れ果てぬ》101
おほむ-いとま/なき/やう/にて せち/に/おぼす/ところ/ばかり/に/こそ ぬすまは/れ/たまへ/れ かの/わたり/に/は いと/おぼつかなく/て あき/くれ/はて/ぬ
君はお暇がないご様子で、是非ともと愛情をかけていらっしゃるお方だけはこっそりと出かけてゆかれているが、例のあたりにおいては、とても不安な様子で、秋は暮れてしまった。


《なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく》102
なほ/たのみ/こ/し/かひなく/て/すぎ/ゆく
やはりあてにして来た甲斐なくて時は過ぎゆく。


《行幸近くなりて 試楽などののしるころぞ 命婦は参れる》103
ぎやうがう/ちかく/なり/て しがく/など/ののしる/ころ/ぞ みやうぶ/は/まゐれ/る
行幸が近くなって、予行演習などと騒ぎ立てている時分に、命婦が君のもとへ参上して来た。


《いかにぞ など 問ひたまひて いとほしとは思したり》104
いかに/ぞ など とひ/たまひ/て いとほし/と/は/おぼし/たり
「どのようにお過ごしですか」などお問いになって、ご無沙汰を申し訳ないとはお考えである。


《ありさま聞こえて いとかう もて離れたる御心ばへは 見たまふる人さへ 心苦しくなど 泣きぬばかり思へり》105
ありさま/きこエ/て いと/かう もて-はなれ/たる/みこころばへ/は み/たまふる/ひと/さへ こころぐるしく など なき/ぬ/ばかり/おもへ/り
命婦は姫君のご様子を申し上げて、「なんともまあこんなに距離のあるご愛情は、そばで見ております者まで、胸が痛くて」など、泣かぬばかりの心配よう。


《心にくくもてなして止みなむと思へりしことを くたいてける 心もなくこの人の思ふらむ をさへ思す》106
こころにくく/もてなし/て/やみ/な/む/と/おもへ/り/し/こと/を くたい/て/ける こころ/も/なく/この/ひと/の/おもふ/らむ を/さへ/おぼす
姫のことを君の心にとどめる程度に対処し、そこまでで止めおこうと考えていた命婦の配慮を、ぶち壊しにしてしまったこと、思いやりもあったものじゃないと、この人は思っているだろうと、そんなことまで君は心配している。


《正身の ものは言はで 思しうづもれたまふらむさま 思ひやりたまふも いとほしければ いとまなきほどぞや わりなしと うち嘆いたまひて もの思ひ知らぬやうなる心ざまを 懲らさむと思ふぞかしと ほほ笑みたまへる 若ううつくしげなれば 我もうち笑まるる心地して わりなの 人に恨みられたまふ御齢や 思ひやり少なう 御心のままならむも ことわりと思ふ》107
さうじみ/の もの/は/いは/で おぼし/うづもれ/たまふ/らむ/さま おもひやり/たまふ/も いとほしけれ/ば いとま/なき/ほど/ぞ/や わりなし/と うち-なげい/たまひ/て ものおもひ/しら/ぬ/やう/なる/こころざま/を こらさ/む/と/おもふ/ぞ/かし と ほほゑみ/たまへ/る わかう/うつくしげ/なれ/ば われ/も/うち-ゑま/るる/ここち/し/て わりな/の ひと/に/うらみ/られ/たまふ/おほむ-よはひ/や おもひやり/すくなう みこころ/の/まま/なら/む/も ことわり と/おもふ
恋愛の相手である当人が、言うべきことを言わず、思い沈んでいらっしゃるであろうご様子を、想像してごらんになるにつけても、申し訳なければ、「空いた時間が取れないこの頃で、どうにもな」と、うち嘆きになり、「人を思いやる気持ちを知らないらしいご気性を、懲らしめようと思っているのだ」と、微笑みになる、若くあどけないご様子に、こちらもつい微笑まれる気持になり、何ともしようもなく、人に恨まれになるご年齢だこと、思いやりに欠け、勝手気ままになさろうとするのも、無理もない」と見定める。


《この御いそぎのほど過ぐしてぞ 時々おはしける》108
この/おほむ-いそぎ/の/ほど/すぐし/て/ぞ ときどき/おはし/ける
この行幸の準備の時期がすんでからは、時々姫君のもとにお通いになった。

末摘花 注釈 06088/06108

かしこ 06088

末摘花のもと。

文 06088

情交を初めて交わした後だから、後朝(きぬぎぬ)の歌を詠んだ手紙。

だに 06088

最低限~だけでも。

いとほしく 06088

責任を感じること。

夕つ方 06088

後朝の歌は、遅くとも昼までに届ける決まり。

ぞ 06088

後朝の歌が遅い事に対する、話者の非難・驚きが込められている。

ける 06088

この段は前々段同様、「けり」が目立つ。前段で、すでにこの日の光の行動を述べたので、同じ日の末摘花の様子を語る際に、すでにこの日が終わった時点で、物語が語られているのである。

雨降り出でて 06089

「て」は理由を表し、「ところせくもある」と「笠宿りせむ」の双方にかかるが、前者には悪い理由、後者にはよい理由となっている。

とろこせく 06089

気が重い、動くのがおっくうの意味。雨が降り出したための気分。これが、笠宿りしない理由となっている。

笠宿りせむ 06089

すげない末摘花に対し、「短き心ばへつかはぬものを」(心変わりなどせずいつまでも世話するものを)と命婦に訴え、取次を迫った際、「さやうにをかしき方の御笠りにはえしもや」(そのように風雅な方面での笠宿りに値するだろうか)とすかされたことによる。諸注は、命婦の言葉のみを取り上げるが、それがその言葉が使われた文脈全体、すなわち、光の訴えあるいは誓いとそれに対するすかしの言葉としての笠宿りという文脈全体を受けると取りたい。そこで「笠宿りせむとははた思されずやありけむ」を考える。

はた 06089

表面化されていない真意をさぐりあてる際の表現。後朝の歌を夕方に届けるという真意は、遅くても届けるという誠実さからではなく、行こうと思えば行けるはずなのに、今晩末摘花のもとへは行かぬつもりだなとの話者のすっぱぬき。そして、笠宿りには、先に見たように、一夜の宿りというもともとの意味の他に、二人でなされた会話の結果、心変わりをしないという意味が添えられているのである。心変わりなどしないと言っておきながら、一夜しか保たないのかという話者の非難がここには籠る。この点に関しては、この段の最後でもう一度検討を加えることになる。

けむ 06089

話者による主人公の行動理由を推察する時の表現である。

命婦もいといとほしき 06090

命婦も光を取り次いだ責任を感じていることを表す。

御心のうちに 06091

心中の意味だが、「心」は大事な部分の意味でもあるので、心からと訳してみた。「御心のうちに」が単に心の内での意味であれば、この表現は不要になってしまう。

今朝の御文の暮れぬれど 06091

後朝の歌の届くのが夕方になったこと。男の不実が如実に表れている。

なかなか咎とも思ひわきたまはざりけり 06091

このような男の不実をかえって咎ともお考えにならなかったのはなぜか、考えてみなければならない。それは、昨夜の出来事があまりに恥ずかしく、手紙が遅いなどということも目に入らないくらいであったからである。しかし、この時代の貴族社会は恋愛を重視し、それを円滑にすすめるためのルールを文化的にも高度に発達させてきたことを考えれば、それから逸れたやり方を非難することなく、ただただ恥ずかしがっていたのでは、貴族文化は成り立たなくなる。わけても、末摘花は貴族の中の貴族である王家の血筋を受けているのだから。だが、見方はもうひとつある。いくら貴族社会が高度に恋愛を発達させたところで、男女の交わりという一点に関しては、女が積極的に受け入れない限り、男が女を動物的に襲うという形をとるのである。この点に眼を向けるなら、貴族社会の恋愛ルールは性の実情を離れた虚飾である。この両方の視点から、末摘花の様子を考える必要があろう。もちろん、末摘花には、個人的コンプレックスがあり、それのみに焦点をあてるなら、これは末摘花のみに特殊な反応ということになるが、わたしはそうは取らない。末摘花のコンプレックスにより、性交と恋愛ルールとのギャップが如実に表面化したのだと取りたい。

いぶせさ 06092

胸のふさがる思い。地の文の「ところせし」を言い換えた表現。

おはしますまじき御けしき 06093

歌の内容から今夜おいでになりそうにないと判断されるということ。

文字強う中さだの筋にて 06094

この物語が設定されている年代(物語を味わう上でこういう読み方に意味はないことは述べたが、ある語解釈を限定してゆく時には利用できる場合もある)はおよそ西暦九五〇年頃であり、かな書きが発達するのは、貫之・道風の活躍頃、すなわち、西暦九百年前後からである。いわゆる三蹟(道風・佐理・行成)はこの物語の時代と重なってしまう。末摘花を時代遅れの女性という設定にずれてしまう。それ以前の三筆(嵯峨天皇・空海・逸勢)の時代(西暦八百年後)は、中国書の直接的影響下にある。中国書と和書の違いは、骨法が深さにあり、前者は掘るよう書き、後者は撫でるように書く。「文字強う」は中国書風の骨法にならっているということである。問題は「中さだ」をいつに捉えるかであるが、道真による遣唐使廃止が八九〇年代であり、それから国風文化が一気に花開くわけだが、遣唐使を送っても意味がないとの判断ができるには、すでに中国の影響を離れた独自の文化を創り上げていたはずであるから、八五十年前後頃から徐々に国風の波が生まれて来たのだろうと判断してよいであろう。すなわち、プレ道真時代をもって、中国文化から国風への過度期とし、「文字強う中さだの筋」を、中国書風の影響を色濃く残す、古めかしさの残る書と考えることができると思う。

上下等しく 06094

ちらし書きをせず、料紙の上下の余白を一定にとり、上と下で文字を揃えた書き方である。これもやはり、国風ではなく、中国書の様式である。

見るかひなううち置きたまふ 06095

書体の説明があるから、読者は中の文字を見た気になるが、光はここで中の手紙を読まなかったのである。この点を押さえ損ねては以下の内容がわからなくなってしまう。

いかに思ふらむと思ひやるも安からず 06096

末摘花がどう思っているのか思いやるにつけても心が痛むと解釈されているが、それは大きな間違いである。なぜなら、相手のことを考えるなら、手紙を読むのが一番だからである。しかし、手紙さえ読まない光は末摘花の気持ちを思いやることさえ抵抗を感じてしないと解釈しなければならない。「やすからず」は抵抗があって簡単にできないこと。「心やすからず」安心できないと意味は近いが、ここでは困難の意味である。末摘花の気持ちなど考えないからこそ、次の文が出て来るのである。これほど勝手な言い分はないといった表現である。

かかることを 悔しなどは言ふにやあらむ 06097

注目すべきは「は」の有無による意味の違いである。通例の解釈は、こういうことを悔しいなどと言うのだろうか、などとする。「は」を抜かして訳しているのである。しかし、これではこの文のいやらしさ、エゴイスティックな内容が全く表れて来ない。この文は倒置になっており、元にもどすとわかりやすい。「悔しなどは、かかることをいふにやあらむ」であり、これを倒置したのが原文なのである。この文のエゴイスティックな点は、末摘花との体験を悔しいと言っているのではなく、悔しいなどという表現は、このような体験をさす言葉なのかと、悔しさの典型として末摘花との体験を捉えている点にある。末摘花の気持ちなどおよそ頭にもないことが知れようというもの。また、私が助詞にこだわらねばならないと説く理由の一斑を、理解していただけたであろう。光は末摘花との関係をマイナス・オンリーの評価しかしていないのである。にもかかわらず、「さりとていかがはせむ、我はさりとも心長く見はててむ(と思しなす)」のである。すなわち、末摘花は光にとってまったく存在価値はない相手であるが、それでも他に始末のつけようはなく、末長く世話することにするのだと言っているのである。これほど女を馬鹿にした話はない。相手との関係性の上で結論を出したのではなく、まったく光個人の一方的理由により(男の美学なのか、宮をすてては名望が落ちるとの判断からか、関係した女はすべて背負い込む性格なのかはいざ知らず)、一生面倒を見ようと結論したわけである。

思しなす 06097

「なす」は注意。そうでないことを無理にそうするのが「なす」の意味。つまり、気持ち的にはしたくもないが、面倒をみることにしようということ。先に、「笠宿り」の注で述べたように、話者は光が一生面倒を見ることに疑問をもっている点に触れた。結論としては、光は面倒をみることを決心し、事実、この後末摘花の面倒を一生見ることになるが、大事なのは、本心からそうしようと思ってするわけではないこと。その点に話者も批判を籠めていること。この二点を忘れてはならない。好きであろうとなかろうと、関係した女を一生面倒見ることが、色好みのあるべき姿であり、光源氏は理想的姿でそれが具体的に描かれているといった読みがなされることがある。甲斐性のある男が複数の女性の世話をすることは、ある社会体制の中では自然であろう。しかし、そのようにされた女性一般が幸福であるかどうかは別の問題である。おそらく、末摘花は生涯にわたり光の面倒をみてもらうことで幸福な生を全うしたろうとは思われる。しかし、物語のこの部分では、話者は光の愛情のなさを露骨に描いており、物語の進行としては結果オーライであれ、これを語る話者は、光のエゴイズムをここで闡明に描いているのである。この点を見逃し、光=理想の男性像と考えるのは、何ともおめでたく、幼稚な読みである。

大臣 06098

光の結婚相手である葵の父の左大臣。

大殿 06098

左大臣邸。

行幸のこと 06099

「行幸」は帝(すなわち今上天皇、いわゆる桐壺帝)が朱雀院におでかけになること。「行幸のこと」の「こと」は、行幸に関係する諸行事の意味。形式名詞としての「こと」はこの時代まだ未発達と考える方がよい。

思ほして 06099

主語は、後の「君たち」(大臣の息子たちやその友人などの貴公子たち)。

そのころのこと 06099

「こと」について、仕事だ日課だなどと訳されているが、理由なくいい加減に訳している感じがする。「ことのついでに」などの「こと」に同じ。「ことのついでに」は、何かのついでの意味ではなく、大事のついでにの意味。現在「ことのついでに」というと、「ついでに」に重点が置かれ、何かのついでにとの意味になるが、本来は「ことあるついでに」の意味である。「ことあれば」は、火急の大事があればの意味である。これも何かあればと現在は言うが、その何かは重大なできごとの意味である。従って、「そのころのこと」とは、その頃の重大事、その頃一番大切にしていた対象であるとの意味である。つまり、普段なら一番の興味は女性であるのに、いまは特別に興味の対象が別にあるとの意味だ。

例の御遊びならず 06100

普段の管弦の遊びとは違って。

遊びおはさうず 06100

演奏し合うの意味。「おはさうず」は「おはしあひす」の詰まった形、主語は複数の人。

御いとまなきやうにてせちに思す所ばかりにこそ盗まはれたまへれかのわたりにはいとおぼつかなくて秋暮れ果てぬ 06101

なかなか落とし穴が一文である。一番の落とし穴は「かのわたりにはいとおぼつかなくて」だ。諸注はかのあたり(末摘花)へはご無沙汰でと訳すが、どこから来る訳なのだろう。「おぼつかなし」は、相手の対象がはっきりせず、不安だ、わからない、逢いたいなどの意味となる。「おぼつかなし」とある時点でこれは末摘花の心情だととるのが解釈の第一。いや、末摘花に対する光の愛情がおぼつかなくての意味だと、なお考える人があろう。しかし、それは混乱がある。「愛情がおぼつかない」とは相手の愛情であって、相手への愛情ではない。「光の愛情がおぼつかない」と言えるのは末摘花であって、光ではない。それに何よりこの解釈がいけないのは、「おぼつかなし」の主体が光があれば、敬語が必要である。ここの部分が末摘花の感情だと読むことで、「なほ頼みこしかひなくて過ぎゆく」に素直に続くのである。では、なにゆえ、主体を光と取り違えたのか。同じ轍を踏まないために、ここからが重要なので、しっかり考えてほしい。それは、それまで主体が光であったからであり、光から末摘花に切り替わるポイントが分からなかったからである。まずターニングポイントとなるのは、「かのわたりには」である。その意味は、「あのあたりに対しては」の意味と、「あのあたりにおいては」の意味の両方がありえるのである。前者は主体が光、後者は主体は末摘花である。「かのわたりには」という表現は、「かのわたり」を話題に取り出すだけで、それが文章の中で、主体であるのか客体であるのかは問わない、まったく五分五分である。しかし、前の文の主体が光で、この文も途中まで光が主語になっているのだから、「かのわたりには」も主体を光ととるのが自然なようである。おそらく、各注釈者はそのように解釈したであろう。しかし、一点大きな思い違いがある。前の文の主体が光であることは自明だが、この文の冒頭の主体が光であることは自明ではない。「御暇なきやうにて切に思す所ばかりにこそ盗まはれたまへ」は、「御暇」「思す」などの敬語から光を主体にしたくなるが、「こそ……已然形」は語り手の挿入句であるケースが多い(ほとんどそうだと見てよい)ルールを思いだしてほしい。愛情の篤いところへは暇を盗んでゆかれるが、というのは末摘花の話題をする前の、対照表現として、他の女性を持ち出したに過ぎない。また「御暇なきやうにて」は「盗まはれたまへ」にかかるから、これも挿入句の一部である。従って、この一文は挿入句ではじまり、それを括弧に入れると、「かのわたりには」という出だしになる。それまでが、大臣邸でのこと、これ以降が末摘花の家のこと。「は」は区別の働き。これでこの段の全体の構成がスムースに理解できると思う。「過ぎゆく」という表現が二度でるが、これも大臣邸ではこのように時が過ぎ、末摘花の家ではこのように時が過ぎるという対照を明確化しているのである。いわば、相対性原理ということだ、光をとりまく大臣邸と末摘花の家では、時間の進み方が違うのだ、方や「興あり、暇なき」であり、方や「おぼつかなく、かひなく」である。

試楽 06103

リハーサル。

いとほしとは思したり 06104

「いとほしと思したり」ならば、「申し訳ないと思った」と素直にとればよいが、「は」が入るとニュアンスが出る。イメージとして、「いとほし」とも思ったが、それ以外の感情も起こったというニュアンスである。ともあれ、素直に申し訳ない、わたしが悪うございました、というのではない。

見たまふる人さへ 06105

下二段活用だから、普通は、側で末摘花の世話をしている人、つまり、女房たちを意味するが、命婦は末摘花のもとに出入りすることがあるだけで、末摘花の女房ではない。従って、ここは、端で見ている者さえの意味となる。先に述べたが、(わたしの読みでは)この命婦と光はおそらく愛人関係にあると想像される。この関係がこの段でも匂わされている感じがする。

心苦しく 06105

他人の不幸を自分に置きかけ、こちらまで胸が痛むとの意味。つまり、自分は部外者であるが、それでも光のやり方は身につまされるとの意味。

心にくくもてなして止みなむと思へりしこと 06106

「心にくし」は、対象がぼんやりした状態にあって、もどかしさ、憧憬などを示す語。もっと近くで末摘花の琴の演奏を立ち聞きさせてほしい、つまり、末摘花に接近したいと命婦に願い出た際、命婦は近づきすぎず、「心にくくて」との状態で止めおこうと意図したのである。それは、末摘花があまりに人づきあいしないため、接近すれば光の不興を買うだろうとの配慮があったからである。しかし、この点もすでに触れたが、思うに、見た目に貧しい末摘花の暮らしに、安定を得るためには、光のような貴族の援助が必要である。末摘花のもとに出入りする者として、命婦はもっと積極的に光に働きかけてよいはずである。物語の表面には出ていないが、光の愛人である命婦の女心が、これを積極的に推し進めることをためらわせているのではないかと感じられてならない。この段に戻ろう。「心にくくもてなしてやみなむ」とは、光を末摘花の興味を持たせるだけで、近づけ過ぎないでおこうとの命婦の考えである。ここで考えるべきは、では、どこまでならよく、どこからはだめなのかである。ストーリーをまとめよう。末摘花の話を持ち出したのは命婦であり、第一回の透き見が行われる。そして、光がもっと接近したいと願い出る。命婦は近づきすぎないようにしたいと思う。しかし、光の再三の催促にまけて末摘花と出会わせる。ここで光は命婦の意図を踏み越え、末摘花と関係を持ってしまう。関係を持ちながら、光はそこで通ってこなくなり、命婦は見ておられず会いに来たという流れ。こう見てくると、命婦はもともと光を末摘花に逢わせようとの意志はなく、それゆえ、末摘花の面倒をみてもらおうとの狙いもなかったのである。この点は非常に重要である。姫の窮状を見過ごしにできず、仲立ちの者が積極的に貴公子を手引きするというのが、恋愛物語のパターンである。しかし、命婦はその役を担っていない。命婦にとって近づきすぎるとは、末摘花と光が男女の関係を結ぶことであり、それさえ認めない命婦は仲人の立場にないことになる。結論は、以前すでに述べたことだが、命婦が末摘花の話を持ち出したのは、末摘花へ興味を持たせるためにではなく、光と愛人関係にある命婦が年上の女として、若い光の興味をひきつけたいがために、手管として末摘花の存在を利用したのではないか(おそらくそうした話をしたのはベッドの中であり、ベッドインに気乗りしない光を振り向かせるがためであったろう)。そこで、この場面に戻るが、これ以上末摘花に近づけたくないとの女心を無視して末摘花と関係を結んでしまったことに、愛人でもある命婦から、なんと女の気持ちのわからぬ人だと恨まれているだろうなと、光は気を揉んでいるのである。

正身 06107

末摘花。

ものは言はで 06107

「もの」は大事なこと。つまり、結婚間もなく男に見限られた女として言うべきこと、権利、恨み言などである。ものも言わないの意味ではない。はっきりと相手に言うべきことを言わないことである。「もの思ひ知らぬ」の「もの」も大事なことの意味。

わりなし 06107

状況が手にあまる、仕方がないとの意味。

もの思ひ知らぬ 06107

「もの」も大事なことの意味、ただし、「もの思ひ知らぬ」全体で決まり文句となっており、(人として一番大事な)恋愛感情、恋愛における心の機微、相手を思いやる気持ち、愛情などの具体的な意味をになう。

ほほ笑みたまへる 06107

光は何ゆえ微笑んだのか。命婦が末摘花との間を取り持つ仲介者であれば、とてもこの状況で笑いかけることはできないし、ましてこちらも微笑み返す気持ちにはならないであろう。このあたり、二人に特殊な感情があると読むことに無理がない気がするがどうであろう。

わりなの 06107

「御齢や」にかかる。意見しても仕方がない、そういうお年頃なのだということ。これは末摘花の代弁であるとともに、命婦自身が光との関係の中で学んだ真理、すなわち、若い男は一人の女では満足しないものなのだということ。

ことわり 06107

命婦自身が光との関係の中で学んだ真理。すなわち、若い男は一人の女では満足しないものなのである。それが真理であり、どうすることもできない諦観である。

御いそぎ 06108

行幸の準備。

おはしける 06108

末摘花のもとに光が通うこと。

06末摘花 原文 06章088/108

かしこには 文をだにと いとほしく思し出でて 夕つ方ぞありける 雨降り出でて ところせくもあるに 笠宿りせむと はた 思されずやありけむ かしこには 待つほど過ぎて 命婦も いといとほしき御さまかな と 心憂く思ひけり 正身は 御心のうちに恥づかしう思ひたまひて 今朝の御文の暮れぬれど なかなか 咎とも思ひわきたまはざりけり
 夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさそふる宵の雨かな 
雲間待ち出でむほど いかに心もとなうとあり おはしますまじき御けしきを 人びと胸つぶれて思へど なほ 聞こえさせたまへと そそのかしあへれど いとど思ひ乱れたまへるほどにて え型のやうにも続けたまはねば 夜更けぬ とて 侍従ぞ 例の教へきこゆる
 晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心に眺めせずとも
口々に責められて 紫の紙の 年経にければ灰おくれ古めいたるに 手はさすがに文字強う 中さだの筋にて 上下等しく書いたまへり 見るかひなううち置きたまふ いかに思ふらむと思ひやるも 安からず かかることを 悔しなどは言ふにやあらむ さりとていかがはせむ 我は さりとも 心長く見果ててむ と 思しなす御心を知らねば かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける 大臣 夜に入りてまかでたまふに 引かれたてまつりて 大殿におはしましぬ 行幸のことを興ありと思ほして 君たち集りて のたまひ おのおの舞ども習ひたまふを そのころのことにて過ぎゆく ものの音ども 常よりも耳かしかましくて かたがたいどみつつ 例の御遊びならず 大篳篥 尺八の笛などの大声を吹き上げつつ 太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて 手づからうち鳴らし 遊びおはさうず 御いとまなきやうにて せちに思す所ばかりにこそ 盗まはれたまへれ かのわたりには いとおぼつかなくて 秋暮れ果てぬ なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく
 行幸近くなりて 試楽などののしるころぞ 命婦は参れる いかにぞ など 問ひたまひて いとほしとは思したり ありさま聞こえて いとかう もて離れたる御心ばへは 見たまふる人さへ 心苦しくなど 泣きぬばかり思へり 心にくくもてなして止みなむと思へりしことを くたいてける 心もなくこの人の思ふらむ をさへ思す 正身の ものは言はで 思しうづもれたまふらむさま 思ひやりたまふも いとほしければ いとまなきほどぞや わりなしと うち嘆いたまひて もの思ひ知らぬやうなる心ざまを 懲らさむと思ふぞかしと ほほ笑みたまへる 若ううつくしげなれば 我もうち笑まるる心地して わりなの 人に恨みられたまふ御齢や 思ひやり少なう 御心のままならむも ことわりと思ふ この御いそぎのほど過ぐしてぞ 時々おはしける

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