06末摘花04

2020-05-24

末摘花 原文 06-056/06-074

056命婦は さらば さりぬべからむ折に 物越しに聞こえたまはむほど 御心につかずは さても止みねかし また さるべきにて 仮にもおはし通はむを とがめたまふべき人なし など あだめきたるはやり心はうち思ひて 父君にも かかる事なども言はざりけり 057八月二十余日 宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに 星の光ばかりさやけく 松の梢吹く風の音心細くて いにしへの事語り出でて うち泣きなどしたまふ 058いとよき折かな と思ひて 御消息や聞こえつらむ 例のいと忍びておはしたり 059月やうやう出でて 荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに 琴そそのかされて ほのかにかき鳴らしたまふほど けしうはあらず 060すこし け近う今めきたる気をつけばや とぞ 乱れたる心には 心もとなく思ひゐたる 061人目しなき所なれば 心やすく入りたまふ 062命婦を呼ばせたまふ 063今しもおどろき顔に いとかたはらいたきわざかな しかしかこそ おはしましたなれ 常に かう恨みきこえたまふを 心にかなはぬ由をのみ いなびきこえはべれば みづからことわりも聞こえ知らせむ と のたまひわたるなり いかが聞こえ返さむ なみなみのたはやすき御ふるまひならねば 心苦しきを 物越しにて 聞こえたまはむこと 聞こしめせと言へば いと恥づかしと思ひて 人にもの聞こえむやうも知らぬをとて 奥ざまへゐざり入りたまふさま いとうひうひしげなり 064うち笑ひて いと若々しうおはしますこそ 心苦しけれ 限りなき人も 親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ 若びたまふもことわりなれ かばかり心細き御ありさまに なほ世を尽きせず思し憚るは つきなうこそ と教へきこゆ 065さすがに 人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて 答へきこえで ただ聞け とあらば 格子など鎖してはありなむ とのたまふ 066簀子などは便なうはべりなむ おしたちて あはあはしき御心などは よもなど いとよく言ひなして 二間の際なる障子 手づからいと強く鎖して 御茵うち置きひきつくろふ 067いとつつましげに思したれど かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども 夢に知りたまはざりければ 命婦のかう言ふを あるやうこそはと思ひてものしたまふ 068乳母だつ老い人などは 曹司に入り臥して 夕まどひしたるほどなり 069若き人 二 三人あるは 世にめでられたまふ御ありさまを ゆかしきものに思ひきこえて 心げさうしあへり よろしき御衣たてまつり変へ つくろひきこゆれば 正身は 何の心げさうもなくておはす 070男は いと尽きせぬ御さまを うち忍び用意したまへる御けはひ いみじうなまめきて 見知らむ人にこそ見せめ 栄えあるまじきわたりを あな いとほし と 命婦は思へど ただおほどかにものしたまふをぞ うしろやすう さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ と思ひける 071わが常に責められたてまつる罪さりごとに 心苦しき人の御もの思ひや出でこむ など やすからず思ひゐたり 072君は 人の御ほどを思せば されくつがへる今様のよしばみよりは こよなう奥ゆかしう と思さるるに いたうそそのかされて ゐざり寄りたまへるけはひ 忍びやかに 衣被の香いとなつかしう薫り出でて おほどかなるを さればよ と思す 073年ごろ思ひわたるさまなど いとよくのたまひつづくれど まして近き御答へは絶えてなし 074わりなのわざや と うち嘆きたまふ

末摘花 原文かな 06-056/06-074

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

みやうぶは さらば さりぬべからむをりに ものごしにきこエたまはむほど みこころにつかずは さてもやみねかし また さるべきにて かりにもおはしかよはむを とがめたまふべきひとなし など あだめきたるはやりごころはうち-おもひて ちちぎみにも かかることなどもいはざりけり はちぐわちにじふよにち よひすぐるまでまたるるつきのこころもとなきに ほしのひかりばかりさやけく まつのこずゑふくかぜのおとこころぼそくて いにしへのことかたりいでて うち-なきなどしたまふ いとよきをりかな とおもひて おほむ-せうそこやきこエつらむ れいのいとしのびておはしたり つきやうやういでて あれたるまがきのほどうとましくうち-ながめたまふに きんそそのかされて ほのかにかき-ならしたまふほど けしうはあらず すこし けぢかういまめきたるけをつけばや とぞ みだれたるこころには こころもとなくおもひゐたる ひとめしなきところなれば こころやすくいりたまふ みやうぶをよばせたまふ いましもおどろきがほに いとかたはらいあたきわざかな しかしかこそ おはしましたなれ つねに かううらみきこエたまふを こころにかなはぬよしをのみ いなびきこエはべれば みづからことわりもきこエしらせむと のたまひわたるなり いかがきこエかへさむ なみなみのたはやすきおほむ-ふるまひならねば こころぐるしきを もの-ごしにて きこエたまはむこと きこしめせ といへば いとはづかしとおもひて ひとにものきこエむやうもしらぬを とて おくざまへゐざりいりたまふさま いとうひうひしげなり うち-わらひて いとわかわかしうおはしますこそ こころぐるしけれ かぎりなきひとも おやなどおはしてあつかひうしろみきこエたまふほどこそ わかびたまふもことわりなれ かばかりこころぼそきおほむ-ありさまに なほよをつきせずおぼしはばかるは つきなうこそ とをしへきこゆ さすがに ひとのいふことはつようもいなびぬみこころにて いらへきこエで ただきけ とあらば かうしなどさしてはありなむ とのたまふ すのこなどはびんなうはべりなむ おしたちて あはあはしきみこころなどは よも など いとよくいひなして ふたまのきはなるさうじ てづからいとつよくさして おほむ-しとねうち-おきひきつくろふ いとつつましげにおぼしたれど かやうのひとにものいふらむこころばへなども ゆめにしりたまはざりければ みやうぶのかういふを あるやうこそはとおもひてものしたまふ めのとだつおイびとなどは ざうしにいりふして ゆふまどひしたるほどなり わかきひと に さむにんあるは よにめでられたまふおほむ-ありさまを ゆかしきものにおもひきこエて こころげさうしあへり よろしきおほむ-ぞたてまつりかへ つくろひきこゆれば さうじみは なにのこころげさうもなくておはす をとこは いとつきせぬおほむ-さまを うち-しのびよういしたまへるおほむ-けはひ いみじうなまめきて みしらむひとにこそみせめ はエあるまじきわたりを あな いとほしと みやうぶはおもへど ただおほかたにものしたまふをぞ うしろやすう さし-すぎたることはみエたてまつりたまはじ とおもひける わがつねにせめられたてまつるつみさりごとに こころぐるしきひとのおほむ-ものおもひやいでこむ など やすからずおもひゐたり きみは ひとのおほむ-ほどをおぼせば されくつがへるいまやうのよしばみよりは こよなうおくゆかしう とおぼさるるに いたうそそのかされて ゐざりよりたまへるけはひ しのびやかに えひのかいとなつかしうかをりいでて おほどかなるを さればよとおぼす としごろおもひわたるさまなど いとよくのたまひつづくれど ましてちかきおほむ-いらへはたエてなし わりなのわざやと うち-なげきたまふ

末摘花 現代語訳 06-056/06-074

命婦は、そうまでおっしゃるなら、うまく行きそうな折りに、物越しにお話申し上げになれるよう謀るとして、そのとき、御心にかなわなければ、そこまで進んでもそのまま済んでしまえばいいうし、また、そうなる縁があって仮初めにでもお通いになるとしても、これをお咎めになるような人もないしなどと、軽はずみでことにはやる性分では深くも思わず、父君に対してもこのようなはかりごともふくめいっさい話をしなかった。
八月二十日過ぎ、夜更けまで月の出のない待ち遠しさに、星の光だけがさやかで、松の梢に吹く風の音が心細く、女君は昔のできごとを語り出し、ついお泣きになる。ちょうどよい頃合いかなと命婦は思って、君へご連絡申し上げておいたのだろう、例により、たいそう人目をはばかりながら、君がお出でになった。
月がようやく出て、荒れた籬の様子を不気味みに思いながら、君が中の様子を眺めておられると、琴を命婦にそそのかされて、ほのかにかき鳴らされる風情は、まんざらでもない。もうすこし親しみのある、今風な感じになればよいのにと、取り乱した気持ちから命婦は、女君の様子をじれったく思っている。
人目もない場所なので、気を使うことなく邸内にお入りになる。供の者に命じ、命婦を呼び出しになられる。呼ばれた命婦は、君のお越しを今知ったとばかり驚き顔で、
「なんとも困ったことになりました。これこれの理由で、光の君がいらっしゃったようなのです。いつもあのように恨み言を申し上げになられておいでなのに、わたくしの一存では参りませぬ旨ばかり申してお断りいたしておりますと、ご自身で男女のあり方をも教えてやりたいと、事実、前々からおっしゃられておいででした。どうご返事申しましょう。普通の方の軽々な行いとは違うお越しなので、お気の毒なことですから、物越しで、君のお話申し上げになる言葉を、お聞きなさいませ」と勧めると、とても居たたまれなく思って、
「人へ返事の申し上げ方がわからないのに」と言って、奥の方へ後ずさりして入ってゆかれる様子は、じつに世慣れない感じがする。
命婦はつい笑い出して、
「なんともおぼこくいらっしゃるのが、見ていて痛々しい。この上ない身分のお方でも、親などいらして何くれとお世話申しあげになるうちは、世間知らずでいらっしゃるのも理由のあることだけれど、これほど頼りない身の上でいらっしゃるのに、なおも大人の出会いをやたらと恐れ憚るのは、状況に合わないことで」と、教え申し上げる。
さすがに、人の言うことを、強くも拒絶できない性格から、
「ご返事申し上げないで、だた聞いてなさいということなら。格子などは降ろしておいてほしい」とおっしゃる。
「簀子などにお迎えするのは、どうかと存じます。無理やり軽々しいことをなさるお気持ちなどはよもありますまい」などとじつにうまく説き伏せて、ふたつある廂と母屋の合間の障子の錠を手ずから厳重におろして、君用の敷物を敷いて御座をととのえる。
とても気が引けるようにお感じであるが、このような場合の、目論見があって人にものを言っているのだという相手の心持ちなどもまったくご存じなかったので、命婦がそう言うのを、そうする仔細があるのだろうと思って、従っていらっしゃる。乳母代わりの老女などは、自分の部屋に入ったなり横になって、早くから眠たがっている頃である。若い女房は二三人残っており、それらは世に褒めそやされる源氏の君のお姿をただもう見たいと思い申し上げて、胸をときめかせながら気をひきしめている。最上とはゆかぬがそれなりに見栄えするお召物に着替え申し上げ、身綺麗にして差し上げるに、ご当人は、何の気持ちの張りもなくいらっしゃる。
男君は、尽きないお気持ちを、目立たぬように取りはからっていらっしゃるご様子がとても麗しくて、風趣を理解する女性にこそ娶せたいものだが、こんなぱっとしないあたりでは、なんとも申し訳ないと、命婦は思う一方で、ひとえにおっとししていらっしゃるお方に対して、安心して、行き過ぎたこと目をお見せになることはあるまいと思っていたのに、常々姫君への逢瀬の催促をされる責任逃れに、こういう事態を招いて、姫君のお気の毒な物思いが生じることになろうかと、不安な気持ちで控えている。
君は、女君のご身分をかんがみるに、恋文へのご返答がないのも、洒落っ気の多すぎる当世風の気取り屋よりは、断然心引かれもっと知りたいお考えになって来られたが、あれやこれやとそそのかされて這い寄ってお出でになる、そのご様子は、しっとりと、?衣(えい)の香りがとても慕わしく香り出て、おっとりしていらっしゃるので、思った通りだからなんだなと得心していらっしゃる。
普段から思い続けておられるお気持ちなど、言葉巧みにお話しなされたが、これまでの手紙にもまして間近いご返答はまったくなさらない。この段になってひどい仕打ちだとついお嘆きになる。

末摘花 注釈 06-056/06-074

さりぬべからむ折 06-056

「さありぬべくあらむ折り」がつづまった形。そういうことに向いた折りのこと。つまり、そうするのに具合のよい頃合いにの意味である。具体的には、物越しから光が末摘花に思いを述べようとする機会。

物越しに聞こえたまはむほど 06-056

求愛行動であり、男が女のもとに通いはじめる場合、それが結婚が成立していなくても、女性から強く拒まれない限り、通い続けるのが原則である。

さても止みねかし 06-056

物越しに求愛する段階に入りながらも、その後をつづけず、その時点でよしてしまえばいいという、ひどく身勝手な、当時の倫理観から大きく外れる考え方である。

さるべきにて 06-056

そうなることになっていてということだが、前世から結ばれる縁があってとの意味で多様される。

仮にも 06-056

ifの意味ではなく、本気ではなく、かりそめでもの意味。

とがめたまふべき人 06-056

親などの保護者。

あだめきたる 06-056

上のような倫理観から外れたことを指すが、光との関係をも示唆するように思う。

はやり心はうち思ひて 06-056

「はやり心」は、ことを性急に運ぼうという気持ち。「は」は意味が確定しにくいが、はやり心ではの意味か、はやり心の持ち主(すなわち、命婦)はの意味と考えられる。「うち思ひ」の「うち」はちょっと、軽くなどの意味を添えるので、全体で、深慮なく、浅くしか考えずの意味となる。

父君にもかかる事なども言はざりけり 06-056

恋の取次を父に打ち明けることなどありえぬことだから、ここでわざわざそれを言うのは、命婦の父である兵部大輔(末摘花の住む故常陸邸に住む権利を持ちながら、他所に女がいるので、そちらから時々ここに通っている)は、末摘花の保護者的関係にあるのではないかと想像されている。宣長は末摘花の兄に当たるのではないかと述べているが、「咎めたまふべき人なし」と明確に保護者を否定しているので、保護者的関係にあるとは認めがたい。事実、この後も、保護者としての役割を果たすことがない。異腹の兄と考えるむきもある。しかし、いずれにしろ、保護者としての実質的働きをしないのだから、その方面から「父君にもかかることなども言はざりけり」の真意を読み解くことは不可能である。では、話者はなぜわざわざここで、これを断っているのだろうか。保護者でない父に本来話すべき内的理由は何だろうか。考えられるのは、兵部大輔がこの家を管理しているという点である。家の管理者である父に黙って、他人を家に入れることを、耳に入れなかったのである。末摘花に男ができることを咎める保護者はないが、大輔が管理する家に他人が入り込むことは元来その許可なくして許されない行為である、ということなのだろう。末摘花と大輔との関係のみを取り上げるなら、異腹の兄である可能性もあろうが、単に金でその家を大輔が買っただけなのかもしれない。家の権利が娘の末摘花に行かずに、他人に渡っていることがそれを示唆しているように思えるのだが、どうであろう。

宵過ぐる 06-057

夜が更ける。二十日余の月は、有明の月だから、実際には、夜明けにならないと月は出ない。

心もとなき 06-057

月が出ない夜は闇夜であり、さびしい故常陸宮邸にいる末摘花は、心細いのである。

星の光ばかりさやけく 06-057

星の光は、さみしさを和らげるばかりか、どうもさびしさを募らせるものとして作用しているようである。

いにしへの事 06-057

亡くなった父宮のことや、かつての家の反映ぶりであろう。

御消息や聞こえつらむ 06-058

今日末摘花に会わせるからと、命婦が光に連絡をとったこと、「らむ」はそれが話者の推量であることを示す。末摘花が昔を懐かしみセンチメンタルになっている時に、命婦が光を近づけるよい時だと思っている点がおもしろい。

荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに 06-059

うとましく」は上文には連用中止に、下文には連用修飾として働いているとの注がある。早い話が、荒れた籬を光が「うとまし」、すなわち、気持ち悪く感じているのであるが、問題は、光が「うち眺め」ている対象である。諸注では「籬」を見ているように受け取れるが、それはおかしい。後に「心やすく入りたまふ」とあるから、光はこの時点では、邸の外にいる。つまり、籬の外だ。「眺め」という表現は、すぐ間近の対象を見ることには適さない表現だから、対象が籬であれば、光は籬を遠くから見ていることになり、故常陸の親王邸を遠巻きにしていることになる。しかし、そんな場所から琴の音を聞くことはあり得ない。邸の中でなければ、すぐそば以外で聞く場所はない。つまり、籬のもとにいて光は琴を聞いているのである。その籬が今し出た月の光を受けて不気味に見えているのである。では、光の「うち眺め」ている対象は何か、それは当然、光の気持ちが向いている方向である、末摘花であり、末摘花を取り巻く様子、要するに邸内の様子である。結局、不気味な籬越しに中の様子を窺っているのである。

け近う 06-060

近づきやすさということ。

乱れたる心 06-060

浮気性のという解釈が与えられているが、何ともとんちんかんだ。この文章の流れで、命婦が浮気性であるという説明を入れる必要は全くない。支離滅裂である。まず「乱れたる心」は、先ず、浮気の意味はない。心を取り乱している状態を示すのである。それは多く、恋に狂っている時の表現である。恋に狂い、平静さを保ち得ない状態、冷静な判断ができない状態を指すと考えて間違いない。従って、ここでも心が乱れているのは、光ゆえである。愛する光が他の女のもとに通おうとしているところに平静さが保てない理由があるのである。そうした心理状態で何を判断し損ねたかが次ぎに問題になる。「心もとなく思ひ」がそれである。末摘花は言ってみれば、恋敵である。憎んでもよい相手なのに、光の気に入るために親しみやすく今風な感じを身につけた方がいいと気を焼くところが、一種の倒錯になっている。これを「乱れたる心」と表しているのだろうと私は思う。もっとも、光と命婦が男と女の関係にあることを前提にしている。命婦が光とできているという解釈は、これまでなかったために不自然な感じを与えるかもしれないが、そう考えなければ読めない箇所が多くあることを、これまでにも再三繰り返してきた。あとは読者の判断に委ねよう。

今しもおどろき顔に 06-063

「驚き」ははっとさせられること。光を呼び出したのは、命婦であるのに、今はじめて光の来訪を知ったように驚いたのである。

しかしかこそ 06-063

命婦はこうこうこうでと具体的に光来訪の詳細を語ったのであろうが、それがここまで物語の筋を追ってきた者(聞き手であり、読者)には自明であるので、話者により省略されたのである。

おはしましたなれ 06-063

「おはしましたるなれ」で、「なり」は伝聞、取次の言葉から君がお出での模様ですと答えたのである。こういうところに、「今しも驚き顔に」が顔の演技なら、この「なれ」は言葉の演技である。

かう恨みきこえたまふ 06-063

「かう」の内容は、「しかじか」の中。「恨み」の内容は、手紙を出しても一向に返事がないのはどうしたわけか、手紙では埒が明かないから、直接話をさせろということらしい。直談判を要請されているので、「心にかなはぬ由をのみいなびきこえはべれば」となり、末摘花の許しなく自分の一存では受けられないと断ったのである。

みづからことわりも聞こえ知らせむ 06-063

すでに直接話をしたい旨は言っているのだから「ことわり」は、末摘花への思いを語ることではない。男が女に和歌を何度も贈っているのだから、当然、返事をすべきことなのであるという、男女の関係における作法、ルールに関して教えようというのである。つまり感情教育ということ。もちろん、これも教えてやると言って近づく理由にしているのである。「も」に注意、そうした教育だけではなく、求愛もするのである。本当にとか、実際にの訳を当てるとわかりやすい

のたまひわたるなり 06-063

「なり」は断定。この場合の断定とは、事実これまでもこうこうであったということを強調する用法であり、断定という呼称は間違いのもとである。これまでも、返事も寄越さぬなど失礼な話だ、男女の機微を教育しなおしてやると繰り返してきたことを強調するのだ。

たはやすき 06-063

軽々しい。

心苦しきを 06-063

気の毒に思うので。「心苦し」は、見ている対象に対して自分までもつらく思うこと。

うひうひしげなり 06-063

現代語の初々しいのように好意的表現とは限らない。ここも話者による、あるいは、命婦を通じた話者による、末摘花の幼さに対する非難である。

限りなき人 06-064

身分がこの上なく高い人。末摘花は、故常陸の親王の娘であるから、薄いながら天皇の血を引いている。

かばかり心細き御ありさま 06-064

貧しい末摘花の現実生活を指して言っている。かなり厳しい口調である。命婦が末摘花付きの女房であるなら、こうずけずけとは言えないだろう。ここにも、命婦の末摘花に対する冷たさが感じられる。すなわち、男を近づけろというにしても言い方があるだろうということ。

世を尽きせず思し憚る 06-064

「世」は、男女の仲。「尽きせず」は、無性に、やたらと。「思し憚る」は、恐がり避けること。

つきなうこそ 06-064

場違いである、つまり、いくら身分が高くても、貧しいのであれば、男にこびを売れという、かなりサディスティックな発言である。

格子など鎖してはありなむ 06-065

格子などを鎖しておいてほしいの意味。「格子」は、簀子と廂の間を仕切る。「なむ」は、強意の「ぬ」に願望の「む」がついたもの。

簀子などは便なうはべりなむ 06-066

格子を降ろしてほしいとは、光を格子の外、すなわち、簀子にいさせるつもりで末摘花はいたが、それでは失礼だと、無理を言って、廂に通させる。命婦が手引きさえすれば、廂から末摘花のいる母屋に侵入することはたやすい。

おしたちて 06-066

相手の意向を無視して無理無体に。

あはあはしき 06-066

軽はずみな。

二間の際なる障子 06-066

「二間」とは、ふたつ「間」のあること。「間」は、柱と柱の間で、廂には柱と柱の間(すなわち、ここが出入り口になる)が一つあるものと、ふたつあるものとがある。「際」は、母屋と廂の間。全体では、母屋と廂の境にある二つの障子ということ。

御茵 06-066

その上に座る敷物で、今の座布団の役割をする。

いとつつましげに 06-067

つつましくしていたい、引っ込んでいたいという気持ちで、「世を尽きせず思し憚る」様子、「奥ざまへゐざり入りたまふ」様子である。

思したれど 06-067

「ものしたまふ」(そこにそうしていらっしゃる)にかかる。

かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども夢に知りたまはざりければ 06-067

「かやうの」は「人」にかかり、そのような人、すなわち光と取り、そのよう(に高貴)な人に話をする心遣いの方法を(まったくお知りでないので)と解釈されている。しかし、この解釈は以下の理由により間違いである。ひとつは、「心ばへ」という表現は、自分の気遣いの仕方に用いるよりも、圧倒的に他人の気遣いに使われる。そもそも「心ばへ」とは、心(真意、心の内)が表に現れ、他人から見えることである。その原義からして自分に用いにくい言葉なのである。また、光に話をするのは、未来のことなので「らむ」がこの解釈からは説明がつかない。例えば、この意味では、先には「人にもの聞こえむやうも知らぬを」と、未来の「む」が使用されている。なのに、なぜここは「らむ」になっているのか説明がつかいのだ。そして一番重要なことは、その解釈では意味が通じないからである。「知りたまはざりければ」は、ご存じなかったのでと訳されており、そのように訳すよりないのだが、そうであれば、この文章は全体として、「~なので……だ」という文になることになる。すなわち、理由とその帰結の文である。ところが、今用いられている解釈を当てはめると、「話し方を知らないので、命婦に従った」となるが、これは物語の趣旨に著しく逆らう。なぜなら、これまで、話し方を知らないことを理由に、命婦の意見を拒否してきたからである。いくら命婦の説にも理由があろうと感じた(「あるやうこそはと思ひて」)としても、それだけで手のひらを返すとしたら、今まで拒んできたのは何だったのだと怒りで本をぶん投げるだろう。意見をひるがえすにたるだけの理由も描けないような、そんなへたな文章に、私はつきあう気など毛頭ない。ひどく理走った読みに聞こえるかも知れないが、理屈っぽく聞こえるのは、証明の仕方が理屈っぽいだけであって、要するに、これまで左だと言っていたのが、急にさしたる理由もなく右だと言われては、面食らうだろうという単純な話に過ぎない。では、ここをどのように解釈すればよいのか。方法は至って単純で、ただ自然に読むだけである。「心ばへ」は、他人の気持ちの表れ。「らむ」は現在の推量。「ければ」は理由表現。この三点を素直に取り入れるだけのことである。「人にもの言ふらむ」は、今しゃべっているのだから、命婦。従って、「心ばへ」の「心」は命婦の真意、「ばへ」はそれがそとに現れていること、つまり、「あはあはしき御心などはよも」に対し、何もしないと言う表現を使うこと自体が何かするかもしれない状況にあると、怪しむべきだが、そういう言葉の綾をつかむ力もなく、さらには「二間の際なる障子手づからいと強く鎖して……」という表現に現れている意図をつかむ能力もないのである。難しいのは「かやうの」であるが、(おそらくこれを無批判に「人」にかけて読んだことが、すべての誤読の出発なのだろう)、これは「心ばへ」にかけて読めばよい。「かやうの心ばへ」「人にもの言ふらむ心ばへ」がひとつになって、原文となったのである。長くなったが、以上の説明のごとく、気は乗らないものの、人の発言の裏に現れる真意を見抜く力がないので、末摘花は命婦の今の話を真に受け、それに従ったという論理展開となる。ここには、先の解釈に見られるような何の不自然さもないと思うがどうであろう。

あるやうこそは 06-067

「あらめ」などが省略された表現、そうある理由があろうということ。

乳母だつ 06-068

乳母ではないがその代理を果たす人。ただし、「だつ」には一種の軽蔑が感じられる。

曹司 06-068

女房たちが使用する自室。

夕まどひしたるほど 06-068

「夕まどひ」は、夕方より睡眠に襲われること。「ほど」は、時刻ではなく、時節の意味である。八月の二十日過ぎ、今の中秋過ぎた頃、暑さも終わり、夏の疲れが一気に出る季節で、老女が夕方から眠くなる頃を言うのだろう。「夕まどひ」は夕方から眠いというだけで、今何時なのか特定できないから、時刻の意味での「ほど」は意味をなさなくなる。

若き人二三人あるは 06-069

若い女房で二三人残ったのはの意味。

世にめでられたまふ御ありさま 06-069

世間で評判の光の姿。

心げさうしあへり 06-069

「心げさう」は、心を化粧した状態にすることで、緊張でわくわくすること。「……しあへり」は、互いに……する意味と、すっかり……するの意味になるが、互いに緊張しあったは意味がないので、ここは後者。

つくろひ 06-069

対象が不明だが、「何の心けさうもなく」と対比関係にあるので、おそらく、顔をつくろうこと、つまり、化粧をすることが中心になるだろう。

正身 06-069

当人の意味。

いと尽きせぬ御さまを 06-070

限りなく優美な源氏の姿と解釈されているが、人の様子を尽きるとか尽きないとか表現するのはおかしい上に(筆舌に尽くせないならわかる)、「を」という助詞を介して「用意したまへる」につながらない。この場合、光の様子を表現する語は「御けはひ」である。「うち忍び用意し」は、目立たぬように気を遣うの意味であり、そのように心がけている様子が、「いみじうなまめきて」、すなわち、とても優美なのである。「さま」は、そもそも方向性である。尽きることのない方向とは、末摘花へ向かう気持ち、恋心をさす。これを表立たずに抑えようとしているところに優美さをみたのである。

見知らむ人 06-070

男女の恋愛の場における心の用い方のできる人。最終的目的が性交であれ、それだけ取り出すならば、文化は必要でない、動物にかわらないのである。そこに至る過程をいかに文化的に高めることができるかが、平安貴族の美意識であるわけだ。

いとほし 06-070

第三者からみて気の毒だという意味ではなく、関係者として責任を感じて申し訳ないと思う気持ちである。残念ながら末摘花には、光の心用意を理解するだけの素養がないので、申し訳なく思うのである。「思へど」のかかる場所、これが今回の最大の難関である。「ぞ……思ひける」で連体終止と考えられているが、意味的にそこで文を切ることはできない。「思へど……思ひける」では、意味をなさないのである。「いとほし」と思っているのは、今の気持ちであり、行き過ぎたことはしないだろうと思ったのは過去から今への継続した時間の中においてでる。

ただおおどかに……と思ひける 06-070

挿入部。

おほどかにものしたまふを 06-070

「見えたてまつりたまはじ」の対象であり、「おほどか」は女性のおとなしい性質を指す語であるから、姫君の様子。「見えたてまつりたまはじ」は従って、光が末摘花に対して無理強いをしないこと、末摘花が光にではない。

ける 06-070

過去から現在への継続時間であり、詠嘆の過去にしても、これまでそうは思ってこなかったのに、という時間経緯がふくまれているのである。今、光に対して申し訳なく思っていることに対比されるのは、光が姫君に無理をしないと思ってきたことではなく、光のせいで姫君に物思いをさせることになるという今の不安である。

責められたてまつる 06-071

「られ」は受け身、「たてまつる」は、催促されること自体は命婦が対象であるが、そのベクトルは姫君に向かっているため、心理的に対象敬語が使われているのであろう、そのまま読めば責められている対象である命婦に敬意が向かうがそうではない。

心苦しき人の御もの思ひ 06-071

「心苦しき」は「人の」ではなく「(人の)御もの思ひ」にかかる。光との恋愛を通して、物思いが生じることを心配しているのである。それは、世間で名高い貴公子である光との恋愛の結末が悲恋に終わるであろうと予想されるからである。

人の御ほど 06-072

相手の身分の高さ。

思せば 06-072

「奥ゆかしろ思しわたる」にかかる。

されくつがへる 06-072

洒落が過剰であるの意味。「くつがへる」は度が過ぎること。

今様 06-072

当世風で、通例、古典美(=雅さ)に反する。

「よしばみ」と「奥ゆかし」06-072

「よしばみ」は、教養もないのに教養を見せようとすること。具体的には、手紙の返事に教養を示すような和歌をよみこむこと。末摘花はそうした男との風雅のつきあいを一切しないので、光はこれまで「奥ゆかし」と感じてきた。ここで読み取るべきは、返書がないこと自体を「奥ゆかし」と感じているのではない点である。返書がないという事態に対し、身分の高い相手であるから「奥ゆかし」と感じるのであって、そうでない相手(例えば空蝉)ならば、じれったくなるのである。その差は何か。光が身分の高い女を好む傾向にあるという結論は早計である。「奥ゆかし」とは、未知なる領域(=奥)に入り込みたいという願望表現である。女性の身分の高さが障害となって、ずかずかと相手の領域を侵犯できないのである。この願望未充足が奥ゆかしさとじれったさを分けるのである。しかし、その差は微妙であろう。

ゐざり寄り 06-072

高貴な大人の女性は、部屋の中を立ち上がってすたすた歩くような真似はしない。移動動作は、這うのが種。はしたなさを感じてはいけない。

けはひ 06-072

「忍びやかに」と「おほどかなる」の両方にかかる。「忍びやかに」のみが受けるのであれば、「おほどかなる」に対する主体がなくなってしまう。

忍びやかに 06-072

「けはひ」を受ける述語であると同時に、「薫り出でて」にかかる連用修飾語にもなっている。このように一語が二重の機能を果たす用法は和歌的である。ただし、「けはひ」を受ける述語とは考えない読みも可能であるが、今はそうは取らない。

さればよ 06-072

思った通り、奥ゆかしかったのではない。「奥ゆかし」は光の側のもっと知りたいという願望である。返書を出さない女性のイメージを光は思い描いていたが、「衣被(匂い袋)」から匂いを漂わせながら、ゆっくり這い出してくる末摘花が、想像通りの女性だったのである。

衣被 06-072

匂い袋とも練り香とも言う。焚き物は、灰の中で火をつけるが、火をつけずに匂いを発する香を言うのであろう。

まして 06-073

手紙でも返事がないのに、まして直に返事はもらえないの意味。

わりなのわざや 06-074

道理に反する仕打ち。道理の合わないとは、命婦の導きにより夜這いは半ば成立しているのである。あとは、女が否と言うか、応じるかである。その返事がないのでは処置なしである。「わざ」ははっきりと意図のこもった行為。「わりなのわざや」に籠められた光の落胆を、読者は滑稽に思ってはいけない。プレイボーイが又も振られたといった光の軽さを読み取る場所ではない。ここでの話者は光を批判的に描いてはいない。光の落胆は当然であり、そのように話者は物語っているのである。

2020-05-24

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