06末摘花01

2020-05-24

末摘花 原文 06-001/06-021

001思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を 年月経れど 思し忘れず ここもかしこも うちとけぬ限りの 気色ばみ心深きかたの御いどましさに け近くうちとけたりしあはれに 似るものなう恋しく思ほえたまふ 002いかで ことことしきおぼえはなく いとらうたげならむ人の つつましきことなからむ 見つけてしがなと こりずまに思しわたれば すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは 御耳とどめたまはぬ隈なきに さてもやと 思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ 一行をもほのめかしたまふめるに なびききこえずもて離れたるは をさをさあるまじきぞ いと目馴れたるや 003つれなう心強きは たとしへなう情けおくるるまめやかさなど あまりもののほど知らぬやうに さてしも過ぐしはてず 名残なくくづほれて なほなほしき方に定まりなどするもあれば のたまひさしつるも多かりける 004かの空蝉を ものの折々には ねたう思し出づ 005荻の葉も さりぬべき風のたよりある時は おどろかしたまふ折もあるべし 006火影の乱れたりしさまは またさやうにても見まほしく思す 007おほかた 名残なきもの忘れをぞ えしたまはざりける
008左衛門の乳母とて 大弐のさしつぎに思いたるが女 大輔の命婦とて 内裏にさぶらふ わかむどほりの兵部大輔なる女なりけり 009いといたう色好める若人にてありけるを 君も召し使ひなどしたまふ 010母は筑前守の妻にて 下りにければ 父君のもとを里にて行き通ふ 011故常陸親王の 末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御女 心細くて残りゐたるを もののついでに語りきこえければ あはれのことやとて 御心とどめて問ひ聞きたまふ 012心ばへ容貌など 深き方はえ知りはべらず かいひそめ 人疎うもてなしたまへば さべき宵など 物越しにてぞ 語らひはべる 琴をぞなつかしき語らひ人と思へる と聞こゆれば 三つの友にて 今一種やうたてあらむ とて 我に聞かせよ 父親王の さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ おしなべての手にはあらじ となむ思ふ とのたまへば さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむと言へど 御心とまるばかり聞こえなすを いたうけしきばましや このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ まかでよとのたまへば わづらはしと思へど 内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ 013父の大輔の君は他にぞ住みける 014ここには時々ぞ通ひける 015命婦は 継母のあたりは住みもつかず 姫君の御あたりをむつびて ここには来るなりけり
016のたまひしもしるく 十六夜の月をかしきほどにおはしたり 017いと かたはらいたきわざかな ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに と聞こゆれど なほ あなたにわたりて ただ一声も もよほしきこえよ むなしくて帰らむが ねたかるべきをとのたまへば うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて うしろめたうかたじけなしと思へど 寝殿に参りたれば まだ格子もさながら 梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ 018よき折かな と思ひて 御琴の音 いかにまさりはべらむと 思ひたまへらるる夜のけしきに 誘はれはべりてなむ 心あわたたしき出で入りに えうけたまはらぬこそ口惜しけれ と言へば 聞き知る人こそあなれ 百敷に行き交ふ人の聞くばかりやはとて 召し寄するも あいなう いかが聞きたまはむと 胸つぶる 019ほのかに掻き鳴らしたまふ をかしう聞こゆ 020何ばかり深き手ならねど ものの音がらの筋ことなるものなれば 聞きにくくも思されず 021いといたう荒れわたりて寂しき所に さばかりの人の 古めかしう ところせく かしづき据ゑたりけむ名残なく いかに思ほし残すことなからむ かやうの所にこそは 昔物語にもあはれなることどもありけれ など思ひ続けても ものや言ひ寄らまし と思せど うちつけにや思さむと 心恥づかしくて やすらひたまふ

末摘花 原文かな 06-001/06-021

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

おもへどもなほあかざりしゆふがほのつゆにおくれしここちを としつきふれど おぼしわすれず ここもかしこも うちとけぬかぎりの けしきばみこころふかきかたのおほむ-いどましさに け-ぢかくうちとけたりしあはれに にるものなうこひしくおもほエたまふ いかで ことことしきおぼエはなく いとらうたげならむひとの つつましきことなからむ みつけてしがなと こりずまにおぼしわたれば すこしゆゑづきてきこゆるわたりは おほむ-みみとどめたまはぬくまなきに さてもやと おぼしよるばかりのけはひあるあたりにこそ ひとくだりをもほのめかしたまふめるに なびききこエずもてはなれたるは をさをさあるまじきぞ いとめなれたるや つれなうこころづよきは たとしへなうなさけおくるるまめやかさなど あまりもののほどしらぬやうに さてしもすぐしはてず なごりなくくづほれて なほなほしきかたにさだまりなどするもあれば のたまひさしつるも おほかりける かのうつせみを もののをりをりには ねたうおぼしいづ をぎのはも さりぬべきかぜのたよりあるときは おどろかしたまふをりもあるべし ほかげのみだれたりしさまは またさやうにてもみまほしくおぼす おほかた なごりなきもの-わすれをぞ えしたまはざりける
さゑもんのめのととて だいにのさしつぎにおぼいたるがむすめ たいふのみやうぶとて うちにさぶらふ わかむどほりのひやうぶのたいふなるむすめなりけり いといたういろこのめるわかうどにてありけるを きみもめしつかひなどしたまふ はははちくぜんのかみのめにて くだりにければ ちちぎみのもとをさとにてゆきかよふ こ-ひたちのみこの すゑにまうけていみじうかなしうかしづきたまひしおほむ-むすめ こころぼそくてのこりゐたるを もののついでにかたりきこエければ あはれのことやとて みこころとどめてとひききたまふ こころばへかたちなど ふかきかたはえしりはべらず かい-ひそめ ひとうとうもてなしたまへば さべきよひなど ものごしにてぞ かたらひはべる きんをぞなつかしきかたらひびととおもへる ときこゆれば みつのともにて いまひとくさやうたてあらむ とて われにきかせよ ちちみこの さやうのかたにいとよしづきてものしたまうければ おしなべてのてにはあらじ となむおもふ とのたまへば さやうにきこしめすばかりにはあらずやはべらむ といへど みこころとまるばかりきこエなすを いたうけしきばましや このごろのおぼろづきよにしのびてものせむ まかでよ とのたまへば わづらはしとおもへど うちわたりものどやかなるはるのつれづれにまかでぬ ちちのたいふのきみはほかにぞすみける ここにはときどきぞかよひける みやうぶは ままははのあたりはすみもつかず ひめぎみのおほむ-あたりをむつびて ここにはくるなりけり
のたまひしもしるく いざよひのつきをかしきほどにおはしたり いと かたはらいたきわざかな もののねすむべきよのさまにもはべらざめるに ときこゆれど なほ あなたにわたりて ただひとこゑも もよほしきこエよ むなしくてかへらむが ねたかるべきを とのたまへば うちとけたるすみかにすゑたてまつりて うしろめたうかたじけなしとおもへど しんでんにまゐりたれば まだかうしもさながら むめのかをかしきをみいだしてものしたまふ よきをりかな とおもひて おほむ-ことのね いかにまさりはべらむと おもひたまへらるるよのけしきに さそはれはべりてなむ こころあわたたしきいでいりに えうけたまはらぬこそくちをしけれ といへば ききしるひとこそあなれ ももしきにゆきかふひとのきくばかりやは とて めしよするも あいなう いかがききたまはむと むねつぶる ほのかにかき-ならしたまふ をかしうきこゆ なにばかりふかきてならねど もののねがらのすぢことなるものなれば ききにくくもおぼされず いといたうあれわたりてさびしきところに さばかりのひとの ふるめかしう ところせく かしづきすゑたりけむなごりなく いかにおもほしのこすことなからむ かやうのところにこそは むかしものがたりにもあはれなること-どもありけれ などおもひつづけても ものやいひよらまし とおぼせど うちつけにやおぼさむと こころはづかしくて やすらひたまふ

末摘花 現代語訳 06-001/06-021

気持ちの上でいくら思っても満ち足りなかった夕顔が露と消え死に後れた思いを、年月を経ても思い忘れることがおできにならず、こちらでもあちらでも心うち解けることのない人たちばかりが、嫉妬してみたり愛情を示したりする場面で、互いに意地を張り合うので、身近にうち解け合った夕顔のことが、大切で似る人がないほど恋しく、つい思ってしまわれる。
どうかして、たいそうな評判などなく、とても愛くるしい人が、つつましくひっそりと暮らしているのを、見つけたいものだと、懲りもせず考えつづけておられるところ、多少でも名の通った方面へは聞き漏らしになるすきはない上に、ひょっとしてこれがそうかと思いをお寄せになるに足ると感じられるあたりには、ちょっとした手紙でそれらしいことをしたためになるようであるが、なびき申し上げることなくかえって距離を開ける女性は、まずめったにないであろうというのでは、まったく新鮮みのない話だこと。
冷淡なほどに芯の強い女などでは、まるで違う感じで愛情のない生真面目さなどを示し、あまり人の情理を知らないようであるが、かと言ってそのように一生を送ることなく、心持ちは跡形もなく崩れてしまい、ごくつまらない男のもとへ納まったりすることもあるので、恋をしかけた途中で手を引いた場合も多かった。
例の空蝉のことを、ことがある折には、小癪な女だと思い出しになる。軒端荻をも、好機となりえる風の便りがある時には、気をお引きになる折りもおありであろう。火影のもとで見たしどけなかった様子は、再びそのような状態で見たいとお思いになる。どのような相手であっても、名残なく忘れてしまわれることは、どうしてもおできでなかった。
左衛門の乳母と言って、大弐の乳母の次に君が大切にされていた乳母の娘は、大輔の命婦という呼び名で内裏に仕えているが、これは皇族の血を引く兵部大輔の娘であった。それはもう大変多情な若い女房であったのを、君も側に召し使いなどなさる。母は今は筑前守の妻になって、任地に下っていたので、娘は父君のもとを里家にして宮中に出入りしている。
亡き常陸の親王が晩年にもうけ、たいそう愛情を注ぎかしずくようにお育てになられた御姫さまが、心細く死におくれていらっしゃるのを、命婦がとあるついでに申し上げたところ、おかわいそうにとおっしゃって、ご関心をお持ちになって詳細をお尋ねになる。
「ご気性や顔形など詳しいことは存じません。すっかり正体を隠し、人を遠ざけてお過ごしですので、ご用のある宵などは、物越しでお話いたします。琴を心通う相手とお思いです」と申し上げると、
「三つの友であるから、今ひとつ増えてはご不快であろうか」とおっしゃって、「聞かせておくれ。父親王が、そうした方面にとてもご堪能でいらっしゃったのだから、凡庸な手並みではあるまいと思う」と持ちかけになる。
「そんなにしてお聞きになるほどのものではございませんでしょう」と口では言うが、ご関心を引くような口ぶりで申し上げたところ、
「ひどく気を持たせるね。このところの朧月夜に乗じてこっそり出かけよう。あちらへ行っておくように」とおっしゃるので、面倒なこととは思いながら、宮中全体も何事もなくのどやかな春の空いた時間にまかせて退出した。その父である兵部大輔の君は、別な場所に住んでいて、亡き親王の邸へは時々通っていた。命婦は、継母の方へは寄りつきもせず、姫君の方へ心馴染み、こちらに来るのであった。
仰せの甲斐あって、折しも十六夜の朧月の美しい時分に、君はお出でになった。
「何とも気が気でならないお越しだこと。楽の音が澄んで聞こえるような夜の様でもございませんでしょうに」と申し上げるが、
「それでもあちらに行って、さわりだけでもお勧め申せ。何の成果もないまま帰るのでは、くやしいではないか」とおっしゃるので、命婦がいつも気兼ねなく使っている部屋にお待ち願って、そんな場所では気がかりで胸が痛むほどかたじけなく思いつつ、寝殿に上がったところ、まだ格子も下ろさぬまま、姫君は梅の香りの典雅な趣きに心を留めていらっしゃる。いい折りだことと思って、
「お琴の音がどんなに優れて聞こえましょうかと、つい存知られます夜の風情に誘われて参りました次第。心せわしい出入りのせいで、鑑賞できないのが残念でして」と言うと、
「弾き手の思いを聞き知る人があるとのことですが、あなたのように華やかな宮中へ出入りする人が聞くほどの腕かしら」と言いながら琴を召し寄せるのだが、無駄とは知りながら、君はどうお聞きになろうかと心配で胸がつぶれる。
ほのかにかき鳴らされる琴の音は、興味深く聞こえる。何ほどのうまい演奏ではないけれど、琴の持つ音色は特別のものだから、聞きにくいとも思われない。なんともひどく荒れ渡った人気のない場所で、あのようなお方が、古めかしいほど窮屈にかしづき育てたであろう愛情の名残もないでは、どうして思いをお残しにならないことがあろう。このような場所にこそ、昔物語でも哀れ深い出来事があるものなのに」などと思いつづけるにつけ、何か言い寄れたらとお望みになるが、軽はずみだと思われはしまいかと、気後れがして、二の足をお踏みになる。

末摘花 注釈 06-001/06-021

夕顔の露に後れし心地 06-001

五七調の散文詩になっている。「夕顔」は女性の名であり、はかない花の夕顔をかける。

露に後れ 06-001

女が露のようにはかなく亡くなり、自分は死に後れたということ。

年月経れど 06-001

夕顔の死より六ヶ月しか経っていないが、年をまたぐために、この表現が使われたと説明されている。確かにこの表現は、年をまたぐことで成立するには違いないが、そうした物理的時間がこれこれであると突き止めることに意味があるとは思えない。夕顔を失ってから光の生きた時間、藤壺の懐妊、葵の嫉妬、六条御息所(らしき女性)との関係、若紫の発見など、濃密な時間が経たのにかかわらず、夕顔のことが忘れられないのである。

ここもかしこもうちとけぬ限りの気色ばみ心深き方の御いどましさにけ近くうちとけたりしあはれに似るものなう恋しく 06-001

文構造と意味の両面で問題がある。先ず諸訳を見てみよう。A「このお方もあのお方も気のおける方々ばかりで、もったいぶってみたり心用意の深さを見せようとしたり、そうした面で張り合われるという有様だから」。問題はいろいろあるが細かい点はあとにして、どの注も「ここもかしこも」に対して、葵であり六条御息所であると説くのだが、六条御息所についてはこれまで具体的には何一つ表立って語られていないので不問に付すとして、いったい、葵が心用意の深さを光に示したことがあったろうか。
では、どのように解釈すべきか。こういう時にはすべきことは、問題の語が、源氏物語の他の箇所でどのように使われているかを見ることである。幸い、ネット上で検索が可能である。すると、「気色ばみ」はふつう、嫉妬をしてみせることの意味で使われており、これは悪い行いではなく、一種の愛情となっていることがわかるし、「心深し」は愛情深いの意味であり、他の訳にあるような教養があるという意味ではない。すると、「気色ばみ心深き」は、よいことになり、いよいよ混乱するが、ここからしかもつれはほぐせない。
まず、「うちとけぬ限りの……御いとましさ」と「け近くうちとけたりし」が対立することを押さえる。「気色ばみ心深き方の御いどましさ」は、嫉妬をみせたり愛情示したりする面での意地の張り合い。これ全体に対して、「うちとけぬばかりの」がかかる。この「の」は主格とも連体格ともとれる。通して訳すと、こちらでもあちらでも、心の通わない者ばかりが、嫉妬をしてみせたり愛情を示したりする場面で、意地を張り合う、となる。あるいは「うちとけぬばかりの」を程度ととり、ここでもあちらでも、心が決して通わないやり方で、嫉妬してみせたり愛情を示したりする場面で、意地を張り合う。
「御いどましさ」は、女同士の張り合いと解釈されているが、具体的に書かれていない御息所はともかく、葵が、他の女と張り合い、光に愛情を示したことはないので、光に対して、愛情を示すべき場面で意地を張ってしめさない、あるいは、素直なやりかたをしないと解釈すべきである。そう読んでこそ、葵や御息所と夕顔が対立するのである。

似るものなう 06-001

音便は例により、中止法でなく連用修飾ととる。すなわち、「恋しく」を修飾する。

いかで 06-002

どうにかしてという願望表現で、「見つけてしがな」にかかる。

ことことしきおぼえ 06-002

大げさな評判。名家などをさす。

人の 06-002

「の」は同格との説もあるがあとに連体形(準体言)があるので、連体格であり、「なからむ」の準体格にかかる。人が~であるのを(みつけたい)。

つつましきことなからむ 06-002

諸訳は、気兼ねする必要のない女性をと訳す。つまり「つつましきこと」が「なからむ」と解釈するが、間違いである。「~すること」という表現、すなわち形式名詞の「こと」は、この時代には活発ではない。他の場所で形式名詞の「こと」はないと注釈している書物までが、ここではそのように訳しているのだから注意散漫この上ない。ここは「つつましき」+「ことなからむ(ことなし+む)」である。「つつまし」には、気兼ねするの意味もあるが、ここでは遠慮深いの意味である。この意味は現代風な感じがし、諸注はこれを避けようとしたのかも知れないが、源氏の他の箇所より、この意味での「つつまし」を引いている辞書もあるのだから、遠慮はいらないわけだ。

ことなからむ 06-002

「ことなし」は、特別なことがない。ひっそり暮らしていること。「ことごとしきおぼえ」の逆である。

こりずまに 06-002

懲りないで。夕顔をあんな風に死なせておきながらという語り手の批判がある。

思しわたれば 06-002

「ほのめかしたまふめる」にかかる。これが大事。已然形+「ば」は確定条件と高校でも習う。条件があればそれに対する帰結があるのだ。性懲りもなく第二の夕顔を見つけたいと考え続けた結果、これはという女性には手紙を出すのである。

すこしゆゑづきて 06-002

多少でも教養があり名門の出である女性のこと。これは夕顔派ではなく、その反対の「ことごとしきおぼえ」がある女性の方である。そうした貴顕に対しても情報に漏れはないが、そうでない女性たちに対してもである。

隈なきに 06-002

「に」は理由ではなく「添加」と取らなければならない。すなわち、その上にの意味。

さてもや 06-002

「さ」は、「ことごとしきおぼえはなく……ことなからむ」を指すのである。「すこしゆゑづき」を指すとする注するのは誤りだ。

思し寄るばかりの 06-002

今にも思いを寄せそうな、あるいは、思いを寄せるに十分なの意味。

けはひあるあたり 06-002

名門ではいため、はっきりとそんな女性がいるとわかっているのではなく、なんとなくそれらしい女性がいる感じがする場所にはの意味。

一行をもほのめかしたまふめる 06-002

手紙の一通でもしたため、思わせぶりな態度を示すこと。「める」は、推量。

なびききこえずもて離れたる 06-002

かつての夕顔がそうであり、この帖の主人公である末摘花がそうした女性と登場するが、普通にはありえないことなのである。世に新しきものはなしで、「いと目馴れたるや」は、目慣れたものである、新鮮みがない、つまらないという話者による評価。もっとも、これが枕になって、これから目馴れない女性の話になるのである。

この文の問題点は、形式名詞の「こと」はともかくとして、「すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは御耳とどめたまはぬ隈なきに」の挿入句をどう読むかであった。あるいは、挿入句であると気づくことが問題なのかも知れない。挿入句は、対比としてはめ込まれることが多い。しかし、そういう感覚がなくても、「ゆゑ」が第一級品であって、夕顔と対立することは火を見るよりも明らかではないか。そこからもう一度考え直すことが重要なのだ。

つれなう 06-003

冷淡な。

たとしへなう 06-003

二者を比較して全然違うの意味。前段の慎ましき女性とは違いの意味。

情けおくるる 06-003

情愛に欠ける。

さてしも 06-003

かと言って、そのようには。「さ」は「たとしへなう情けおくるるまめやかさ」を指す。

なほなほしき 06-003

普通の、平凡な、つまらない。

のたまひさしつる 06-003

言い寄っておきながら、途中で投げ出すこと。

ねたう 06-004

小癪だと思うこと。光は、この女を思い通りにできなかったため、ことあるごとに思い出されて、癪に思うのである。前段の「つれなう心強き」女の例である。

荻の葉 06-005

軒端荻。

さりぬべき風のたよりある時は 06-005

ちょっとつかみにくい。しかるべき次いでと訳されるが、それでは、「さりぬべき折り」だけか、「風の便りある時」だけでいい。また、公的な便りとの注があるが、それでは「風の」の意味がなくなる。「さりぬべき」はなどの訳を決めるのは、何となく口調で訳すのではなく、もとの表現に置き直して考えるべきなのだ。「さありぬべき」であり、きっとそうあるべきはずのの意味である。この場合「そうある」は、風の便りがあるのではなく、光が「おどろかしたまふ」こと。ちょっかいを出す機会が持てそうな、何かの便りがある場合にはの意味である。

おどろかしたまふ 06-005

気を引く、注意をひく、ちょっかいを出す。

火影の乱れたりしさま 06-006

「いま一人は 東向きにて 残るところなく見ゆ 白き羅の単衣襲 二藍の小袿だつもの ないがしろに着なして 紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに ばうぞくなるもてなしなり」『空蝉』を指す。

「左衛門の乳母」と「大弐のさしつぎに思いたる」が同格で、「むすめ」が主語、「内裏にさぶらふ」がその述語。さらに、「さぶらふ」が連体形であることから、これ全体が文の主語となり、その述語は「むすめなりけり」である。要するに大輔命婦との名で宮中に出仕している女房は、父は皇族の血を引く兵部大輔であり、母は光が大弐の乳母の次に大切にしている左衛門の乳母であるということ。

さしつぎに 06-008

その次に。

わかむどほり 06-008

皇族の血を引く。

色好める 06-009

現代語の浮気者には当たらない。浮気者は否定のニュアンスしかないが、「色好み」は恋愛に積極的で旺盛なという肯定的な意味をもふくむ。

君も召し使ひなどしたまふ 06-009

「も」に注意。本来、帝のために出仕している女房である大輔命婦を、光も召し使っていたのである。女房を使用することは、当然ながら肉体関係がありうることが前提になる。帝の女房を光が使用するとは、実に帝の女を寝取るという意味合いを持つのだ。こんなことが表立って許されるとは思われない。母と光の特別な関係(乳母は男子にとって、性の教育者であり、性の相手である)により、大輔命婦は、帝や同僚の女房たちには内密に、光のもとにも出入りしたのであろう。そうした危険な関係を通じて、秘密を分け合った相手であるから、光も気を許すことができ、末摘花に対する相談をもできるのだ。
「君も召し使ひなどしたまふ」の一文から、以上のようなことが読み取れるわけだが、逆にそうした前提なしに、二人が末摘花を落とす相談をするのは、わたしなどにははなはだ不自然に思える。もっと言えば、語釈などより、こうした物語の背景の説明がより大切ではないかと思うのだ。つまり、こうした背景の上に、源氏物語は構築されているのである。源氏物語に対する批判の多くは、こうした背景を知らずに読むから、不自然な作り物に思えてしまうのである。

母は筑前守の妻にて 06-010

母である左衛門の乳母は再婚して、筑前守の妻になっている。

故常陸親王 06-011

命婦の父である「わかむどほりの兵部大輔」とは血縁関係にあり、親王亡き後、その邸宅へは、兵部大輔が住むことになっていることが、物語で説明されないながら、その筋から伺える。単に描写が粗雑であるのか、それぞれにモデルがあって、当時の人には、特に説明するまでもなくわかることであったのか、いろいろと考えさせられる箇所ではある。

かいひそめ 06-012

「掻きひそめ」であり、すっかり姿をくらませとの意味。ひっそり暮らすという程度のことではない。そこへ出入りしている命婦にも姿を見せないことを言っているのである。

さべき 06-012

「さ」は後の「語らふ」を受ける。語らうべき用事がある時にの意味。

琴 06-012

「こと」と訓読みせず、「きん」と読むことになっている。それは中国の楽器であり、日本の「こと」とは別だからである。しかし、次の回で「御琴の音」と会話に出て来て、これは「こと」と読む以外にない。ここでも「こと」と読むのがよいのではないかと思っているが、今後も出て来る楽器であって、いつも「こと」と読むことにも抵抗感があるので、しばらく「きん」と読んでおく。ただし、どう読もうと、現在の「こと」ではない。あくまで中国の楽器なのである。この楽器は、紫式部の時代には、すでにすたれていたとのこと。しかし、そうした事実をもって、源氏物語の中で、この楽器が廃れていたことにはならない。物語の中で琴がどういう楽器であるかが問題である。それは物語を読み進めると自ずから理解されるであろう。光自身は、父である桐壺帝から伝授され、堪能な諸楽器の中でも得意中の得意にしている。

三つの友 06-012

白氏文集の「欣然トシテ三友ヲ得タリ。三友ハ誰トカ為(ナ)ス。琴罷ンデ輒(スナハチ)チ酒ヲ挙グ、酒罷ンデ輒チ詩ヲ吟ズ。三友逓(タガ)ヒニ相引キテ循環シテ已ムコト無シ」による。

今一種やうたてあらむ 06-012

諸訳と読むとだいたい「もう一つの方は不向きであろう」という風になっており、「いま一くさ」とは、酒のことで、琴と詩は女に向くが、酒は女に向かないとの注がつく。ホントかね。この読みに疑問を感じるのは、文中に出ているのは、「琴」だけであり、残る二つから「酒」のみを出すときに、「いま一くさ」という言い方は不自然であること。今ひとつとあれば、今までとは別のひとつの意味に取るのが普通だからである。それにもうひとつ理由がある。こちらがさらに重要な理由である。それは、酒は女には苦手であろうという光の言葉は、何ら後に続いて来ないからである。ここで光がそういう必然性がない、何とかのたわごととしか、わたしには思えない。まあ、もう少し理詰めに説明しよう。この前後の本文を単純化すると、「Aと(命婦が)聞こゆれば、Bとて、我に聞かせよ……」となる。問題は「Bとて我に聞かせよ」の部分。命婦の話から、Bということになって、私にその琴を聞かせておくれ、と続くのである。ここが、酒は女には不向きだ、では続かないのだ。Bに入るべき言葉は、琴を聞かせてにスムーズにつながらないといけない。例えば、Bを空欄にし、そこに以下の選択肢から適語を入れよという問題を作ったとして、誰が、酒は云々を選ぶだろうか。全くのナンセンス、何とかのたわごとだと言った意味がわかるであろう。訳を読めばおわかりかと思うが、「今一くさ」とは、光自身のこと。すなわち、その姫君は三友を愉しんでいるのだろうが、今一人自分が加わっては、嫌な気がするだろうかとの意味である。こういう遠回しの言い方をしたのは、その姫君が、すっかり引っ込んでいて、人を近づけない暮らしをしているからである。女は酒はだめだなんて、いったいどこから来たのか、気が知れない。

とて 06-012

例えば「あはれのことやとて、御心とどめて問ひ聞きたまふ」について、「かわいそうなことだ、と君はおっしゃって」などと普通は訳すが、厳密には間違いであろうと思う。この「とて」は、登場人物である誰それが「言って、おっしゃって」を略したものではなく、話者が会話文をひとくくりにして、と言うことで、という話があって、ということになって、とでも言うところをはしょって、「とて」と表現しているのである。「Bとて、我に聞かせよ」の「とて」を考える参考にしてほしい。

いとよしづき 06-012

造詣が深いこと。

おしなべて 06-012

並、平凡。

あらずやはべらむ 06-012

前に光が「いま一くさやうたてあらむ」と、「や……あらむ」という表現を使ったのを受けて、「あらずやはべらむ」で返したのである。ここらの息づかいを、何とか現代語に直したいと苦心したが、現代語と古文では否定の表現の仕方が異なるのでうまくいかなかった。何が言いたいのかわかりにくいであろう。身分の相違を越え、こうした一種のオウム返しが可能な場は、ひとつしかないとわたしは踏んでいる。ふたりは、今同衾しながら、睦言として、常陸の姫君を話題にしているのだろうと読むのである。こうした読みが何を生むかというと、諸注は、命婦は光に姫君に関心を向けようとしていると考えてるが、わたしはそうではなく、命婦は光の関心を引くのが目的であって、命婦に関心を向けるのが狙いではないであろうと読むのだ。たとえば、姫君のことをちゃんと説明せず気を持たせる言い方をしている点でそう読める。しかし、それも光に興味を持たせるためのテクニックであると解釈することもできよう。しかし、その読みでは、「まかでよ」と命じられたおり、「わづらはし」と命婦が思ったことの説明がつかない。姫君に興味を持たせ、その世話をさせることが目的であるなら、「わづらはし」には決してならない。光の関心を引く目的で、末摘花の話をしたのに、そちらに興味が移ってしまったことから来る一種の嫉妬心が、「わづらはし」にはあるだろうと思う。もうひとつ言えば、性交渉が済んだあとの疲れがあるうちに、出てゆくのが難儀であったろうと、想像するがまあそれはおいておこう。

のどやかなる 06-012

宮中が行事などなくのんびりしていること。

つれづれに 06-012

命婦に割り当てられた仕事がない空き時間があることを言うのだろう。「のどやか」と「つれづれ」を同意であるとする注釈には与し得ない。「ほかに」は、常陸親王の家に住むはずであるのに、それ以外の場所にの意味。後妻のところに住んでいるのである。

ここには時々ぞ通ひける 06-014

常陸親王の家へ、自分の家であるのに父が時々通うこと。「継母」は、父の後妻。前回の説明では、命婦は父と住んでいるようにあったが、あれは、母と一緒に母の再婚相手である筑前守のもとへは行かず、父と一緒に京に残ったという意味であったのだろう。
「いま一くさ」にしろ、命婦の本来の狙いにしろ、これらを理解するには、いかに文脈が大事であるかがご理解いただけたかと思う。逆にこれまでの解釈は、いかに前後を無視して来たかが、よく理解いただけたろう。語釈がいい加減であったり、文法的に正しくなかったり、かかる場所が違ったりなんぞは、学者として恥ずかしいことではあっても、まあ源氏物語を愉しむことにとっては、些細な部分であろうが、こと文脈の無視となると、支離滅裂となり、これは理解することが不可能となるのだから、罪は深い。もっとも、古文だから文意が多少不鮮明でもいいという、暗黙の了解があるのであろうと想像する。しかし、わたしは、不鮮明な文章を読む頭を持ち合わせていないのだ。命婦が姫君を紹介したいと思っていたのだとしたら、なぜ「わづらはし」と思ったのかと自問すべきであった。それをせずに通釈をしてしまうことが恐ろしいのである。自問したがわからなかったのであれば、致し方ない、前後の文意がつながらないことを断るべきである。別の通釈者が、その矛盾を解決してくれるだろうから、問題を闡明にすることも注釈者の務めだと思う。

のたまひしもしるく 06-016

仰せの通り(お越しになった)と解釈されているが、納得できない。「しるし」とは、元来はっきりわからないものが、ありありと現れていることに用いる言葉。自分で言って、その通りすぐに出かけてきたのでは、目に見えない部分がない。すなわち、「しるし」という表現を使う場所ではないのである。まして「のたまひしも」と「しも」で強調されているのだから、口で言ったことが、何か目に見えないことと結びつき、それが結果として表れていないのいけない。そこで、原文を読み直す。「のたまひもしるく、十六夜の月をかしき程におはしたり」とあり、その後は会話文になるので、文はどうしてもここで切れることになる。この中で考えるしかないのである。上で説明したように、「のたまひ」と「おはしたり」の間には、「しるし」で表現される見えない部分がない。従って、「おはしたり」以外にかけることになる。すると、「十六夜の月のをかしき程に」しか残らない。今から行くといった言葉に、自然が呼応したかのように、折しも十六夜の月のをかしき夜であったということ。より厳密に言えば、のたまった段階で、せれにふさわしい条件が、すでに現れていたというのが、「のたまひもしるく」の意味である。そして実際に、十六夜の月が美しいという形でそれが現れたのである。すなわち、十六夜の月が美しいという預言が、琴を聞きに行くと言った時点で預言されていた、あるいは、先取りされていたということ。行こうと言った段階で、予感していたように、月が美しかったというのである。「しるし」のこうした感覚を身につけてほしい。口で言ったと、来たという二者の間に、「しるし」が入ることはないことが、ご理解いただけたであろう。しかし、「しるし」の語感を体得すること以上に大切なことがある。それは、ここでなぜ「のたまひしもしるく」などと表現したのかを考えることである。光が行こうと口にした時には、宮中の藤壺にあり、十六夜の夜であることは知っていたろうが、それが美しい夜であったかどうかは、知らなかったのである。知らないながら、行こうと光が口にした、それが預言となり、月の美しさが演出されたのである。後にわかる通り、琴を聞くことに十六夜の夜はプラスに働かない。しかしながら、話者は、十六夜の月を「をかしき」という表現でプラス評価しているのである。それは、琴のためにならなくとも、恋の演出にはなるからである。以上をまとめると、恋の達人である光が、行こうと言った段階で、恋の演出にふさわしい月のうつくしさをあらかじめ予感してたかのごとく、月の美しい夜に光はやって来た、となる。「のたまひしもしるく」という表現において、発話と月のうつくしさ、恋の達人である光と恋の演出を、一気に結びつけてしまうのである。とても魅力的な表現である。

わざ 06-017

行為。この場合、琴を聞きに出向いてきたこと。あるいは、琴が聞けるように取りはからえと命じられたこと。

ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめる 06-017

「このごろのおぼろ月夜に忍びてものせむ」とあった通り、今は春で、朧夜の時節。空気は湿り、楽器は美しい音色を奏でないのである。

むなしくて 06-017

琴を聞くことができないということと、「むなし」ということにはギャップがある。光の思いとして、単に琴を聞くことだけが狙いなのではなく、それにつづく恋愛が真の狙いであることをにおわせる表現。「むなし」は、何の収穫も得ないままの意味。

うちとけたる住み処 06-017

普段気兼ねなく命婦が使用している部屋。

まだ格子もさながら 06-017

夜になっても格子をおろさないまま。

御琴の音いかにまさりはべらむ…… 06-018

『新全集』は、光に対してと正反対のことを述べ、命婦の口上手を印象づけると注している。面白い注釈だ。

聞き知る人こそあなれ百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは 06-018

「琴の音の分かってくれる人がいるということですね」との解釈がなされているが、なんのことかいな。ぼくなりに解釈し直すと、「あなたのの発言から察するに、誰か琴を理解する人が側にいるということなのですね」ということなのだろう。この解釈の根拠は「あなれ」の「なり」は伝聞推量だから、あなたの発言から察すると……としたものと推量される。これが本当なら、末摘花は、誰か聞く人がいると知りながら琴を弾く女性となり、音楽は当然ながら、恋の道具であるので、かなり積極的な女性という性格を持つと考えなければならない。前回「かいひそめ人疎うもてなしたまへば(正体を隠し、人を遠ざけて暮らしているので)」とあったことと、およそ正反対な性格にならないだろうか。あるいは、性欲が溜まりに溜まって、今日だけは積極的になったのだろうか。冗談はさておく。この解釈がいただけないのは、「こそ……已然形……」の前後は、逆接でつながるという、受験生レベルの知識を見落とした点にある。何の根拠もなくあえて感覚だけで言ってしまうと、「こそ……已然形」は強調3割、逆接7割である。圧倒的に後者が多いのだ(2対8と言ってもいいくらいだ)。まず、「こそ……已然形」を外して考える。A「聞き知る人あなり」は、聞き知る人があるそうだの意味。「なり」は、ここでは伝聞であって、伝聞推量ではない。すなわち、あなたの発言から察すると聞き知る人が側にいるようね、ではない。琴の演奏から奏者の人の気持ちを理解する人があるそうね、の意味である。伯牙(ハクガ)の琴の演奏から伯牙のその時の気持ちを聞き知る鍾子期(ショウシキ)という人がいたという知音の故事(『列子』)を引いているのである。B「ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」は、華やかな宮中に出入りしている人が聞くに耐えるくらい腕があろうか、いやない」の意味。これは「御琴の音いかにまさりはべらむ」に対しての答え。さて、このAとBを逆接でつなぐのが、「こそ……已然形」の役目。通してわかりやすくすると、「琴の演奏から気持ちを理解する人があるというけれど(ここまでは一般論)、宮中に出入りしているあなたに聞かせられる腕じゃないでしょうね」となる、つまり、あなたはわたしにとっての鍾子期ではないと言いたいのである。ここがポイントである。前回、光は、三友を愉しんでいる末摘花に対して、自分が第四の友になれないものかと自問していた。その答え(もちろん、読者だけが知る答えであり、ふたりは単に独白しているに過ぎない)がここにあるのである。すなわち、三友(琴酒詩のこと)でなく、真の友(知音)がほしい、しかし、一番身近である命婦も、末摘花には物足りないのである。自分は身分こそ高いが、人前に出ることができないからである(因みに、ここで使った「こそ……が」という表現が、古文の「こそ……已然形」の現代版である)。しかし、そういう友を本当はほしい。人を遠ざけながらも、知音を望んでいるという引き裂かれた心の持ち主が末摘花なのだ。琴の音がわかってくれる人がいると言うのですね、じゃあお引きしましょう、ではないのである。

あいなう 06-018

何かすることが無駄であること。この場合、どのようにお聞きだろうかと心配することが無駄であること。無駄とは知りながらの意味。

ほのか 06-019

単に量の少なさを意味しない。こちらが期待している量に達しないため、この場合であれば、もう少し大きな音であればいいのにとの関心をふくんだ表現であり、物足りなさとは反対に好奇心がそそられている状況を示している。

ものの音がら 06-020

そのものの持つ本来の音。「から」は本来の性質の意味。

いといたう荒れわたりて寂しき所にさばかりの人の古めかしうところせくかしずき据ゑたりけむ名残なくいかに思ほし残すことなからむかやうの所にこそは昔物語にもあはれなることどもありけれなど 06-021

解釈がかなり分かれるところである。先ず、「所に」の「に」は場所を示す助詞とされているが、それでは、受ける用言がない。訳文を読んでも、続かないから、意味不明な訳になっている。もちろん、寂しい場所に据えたとは読めない。かつては寂しい場所であったのではないからである。従って、この「に」は助詞ではない。断定の「なり」の連用形と考えねばならない。あるいは「にあり」の省略と考えるしかない。いずれにせよ、そうとわかると、これが「名残なく」の連用形と呼応し、ともに「いかに思ほし残すことなからむ」にかかるという、文構造がすっきり見えてくる。意味はだいたい「こんな寂しくなった場所であり、親の愛情が跡形も消えているのでは」であり、次の判断を示す文の根拠が連用形の形で示されているのだとわかる。この部分を細かく見る。「荒れわたりて」は、結果として一面荒れたという現在の状況を示すと考えてよいが、そこには荒れかけてから荒れが広がっていく時間経過が「わたり」の語により示されている。「さばかりの人」は姫君の父である故常陸の親王で、「据ゑたりけむ」に対する主語。「古めかしうところせく」は、教育方法が古めかしいくらいに窮屈なものであること。「名残なく」:諸注の大きな間違いは、かしづき育てた名残がないとすることである。姫君の服装や、建物の荒廃はしても、教育として培われた教養や身のこなしなどは、しっかりと末摘花に残っているはずである。そもそも「名残」という語は、そこに籠められた思いの意味である。娘を育てるに当たっての子へ示してきた愛情や思いが、今は形として残っていないということである。親王の娘として相応の暮らしをさせてやりたいとの親の思いも空しく今や家が傾いてしまったとの意味である。決して教育して身に付いたことが残りなく失われてしまったのではないのだ。「いかに思ほし残すことなからむ」:主体を父ととる説と娘ととる説がある。まず、ルールとして、「……所に、……なごりなく、」という連用形で理由が示されている時に、その帰結文の主体が変わることは先ず考えにくい(全ての文を検討しないと、ないとは言い切れないが、たぶん、そんなことをしては文章が読めなくなるから、ないと言ってしまってよさそうである)。従って、娘と取る解釈には与しがたい。娘説が起こりえる理由として、「らむ」が現在推量であることが考えられる。常陸の親王は亡くなっているのだから、思いを残しているだろうというのはおかしいという理屈だ。しかし、そんなことを言っては、亡くなった人に対して、歌を詠みかけたり、思いをはせたりできなくなる。第一、「思ほし残す」は「思ひ残す」の尊敬形であり、「思ひ残す」は執着するという意味である。娘が何に執着しているというのであろう。亡き父親の娘への思いが、家は荒れ果て、慈しんできた思いも形として残っていないだけに、心配で執着という形でこの世に残っているであろうとの意味である。「かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」:「こそ……已然形は」逆接で下に続くのが原則。この場合、下に続くものはないが、後にくる表現が前に出たと考える。すなわち、前文と逆接の関係にあるのである。「昔物語」は、荒れ果てた邸に住む没落貴族の娘と、偶然知り合った貴族の男性が恋愛関係を結ぶ(その結果娘が救われる)という形式をとることが多い。ここからは、わたし流の深読みだか、知り合い二人を結びつける運命を操る、ないしそれに手を貸すのは、亡き父がこの世に残す娘へ愛情であるのだろう。「あはれなることども」は、恋愛感情を刺激するいろいろな出来事。かわいそうだとか守ってやりたいという感情もふくんでいる。こうした場所には、昔物語にあるように、いろいろ「あはれ」を催すできごとが多いのに、どうして親の愛情が残らないことがあろう、いや残るとなる。
以上が上で訳した解釈であるが、実は、別の考え方があるのではないかと思っている。上の考え方は、二点、気になる箇所があるのだ。ひとつは、連用形で理由を作っているとしたところ。「いかに……なからむ」という強い口調を帰結するためには、はっきりとした理由表現があるのが自然だからである。もう一点は、「あはれ」について、この語は男女の恋愛を多くいい、いわゆる哀れだの意味は少ないが、「こそ……已然形」の逆接ルールをとるなら、ここは恋愛感情よりも哀れみの意味が強く出てしまうからである。この二点をふせぐ解決がないではない。それは、「いかに思ほし残すことなからむ」を、話者の挿入句ととる読み方である。すなわち、「いといたう……ことどもありけれ」は光の心内語であるが、「いかに思ほし残すことなからむ」のみは、そうした光の心理に対する話者の説明と考えるのである。つまり、執着している主体を光と取るのである。そう読むと、「いといたう荒れわたりてさびしき所に……名残なく」は、挿入句を挟んで「かやうの所にこそは」とまとめられることになり、理由表現と考える必要がなくなる。なお、「さびしき所に」の「に」は助詞でも断定の助動詞でもよくなり、「こそ……已然形」は、前にも後にも文がなくなるので、強調の意味に解すことになる。前後がスムースにつながるのはこちらだと思うが、心内語に話者の挿入句を入れたという読みは突飛過ぎると思われる。現代小説にも、おそらく使われていない技法である。ふつうそんなことをしたら意味不明になるからだ。したがって、この一カ所のみ、それを行ったという読み方には無理がある。以下で同じようなことがあれば、その時に再考すべきであろう。

うちつけにや思さむ 06-021

「うちつけなりと思さむや」の意味である。すなわち、「うちつけに」は副詞でなく、「や」があるために連用形になった「うちつけなり」という形容動詞(あるいは名詞+なり)である。さて、その意味だが、唐突であるとの意味と、軽はずみであるとの意味がある。諸訳により、どちらをとるかまちまちだが、唐突であるはいただけない。それは次に「心恥づかしくて」とあるからである。この語は、相手が立派であるために気後れすることである。唐突だからというのは、気後れにつながらず、単に、相手に対して無礼だというに過ぎない。自分の行動が相手に、軽はずみだと取られたらどうしようという心配があるから、気がひけるのである。

やすらひ 06-021

ためらうこと。

2020-05-24

Posted by 管理者