小君を御前に臥せて 空蝉05章02
原文 読み 意味
小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり しばしうち休みたまへど 寝られたまはず 御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで 畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり
03022/難易度:☆☆☆
こぎみ/を/おまへ/に/ふせ/て よろづ/に/うらみ かつ/は かたらひ/たまふ あこ/は らうたけれ/ど つらき/ゆかり/に/こそ え/おもひ/はつ/まじけれ と/まめやか/に/のたまふ/を いと/わびし/と/おもひ/たり しばし/うち-やすみ/たまへ/ど ね/られ/たまは/ず おほむ-すずり/いそぎ/めし/て さしはへ/たる/おほむ-ふみ/に/は/あら/で たたうがみ/に/てならひ/の/やう/に/かきすさび/たまふ
うつせみ/の/み/を/かへ/て/ける/こ/の/もと/に/なほ/ひとがら/の/なつかしき/かな
と/かき/たまへ/る/を ふところ/に/ひき-いれ/て/も/たり かの/ひと/も/いかに/おもふ/らむ/と いとほしけれ/ど かたがた/おもほし/かへし/て おほむ-ことつけ/も/なし かの/うすごろも/は こうちき/の/いと/なつかしき/ひとが/に/しめ/る/を み/ちかく/ならし/て/み/ゐ/たまへ/り
小君をお側に寝かせて、これまでの計略のすべてにわたり恨んでは、またかわいがりなる。「そちはかわいいが、情の薄い人のゆかりゆえ、愛しつづけはできなかろうね」と、真顔みたいにおっしゃるのを、とてもつらいと思った。しばらく臥せておられたが、お休みになれない。御硯を急いでお召しになって、表だった用向きのお手紙ではなくて、懐紙に手習いのように気慰みにお書きになる。
《うつせみが羽化したように姿を変えて去って行った木の下で なお残された殻である記憶の中の人柄が慕われることだな》
とお書きになったのを、小君は懐に引き入れて持っておいた。あの人もどう思っているだろうかと、その後便りを出さない軒端荻に対して申し訳なく思いながら、あれこれ考え直した挙句、人を介した伝言もなさらない。例の薄衣は、小袿としてとても慕わしい人の香りが染付いているのを、肌身に離さず側においていつもご覧になっておいでである。
小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり しばしうち休みたまへど 寝られたまはず 御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで 畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり
大構造と係り受け
古語探訪
語らひ 03022
味方に引き入れるために言葉を弄すること。あるいは、男女間で性的行為を言う。ここはその両方の意味をかける。
まめやかに 03022
「まめ」のように。「まめ」は誠実、まじめ。
さしはへたる… 03022
要するに、ちゃんと出すつもりで書いた手紙でなく、慰みに書いた和歌であることを言う。 「さしはへたる」は目的のはっきりした。
畳紙 03022
懐紙で、鼻紙にも使い、和歌を詠むにも使う。
空蝉 03022
蝉の抜け殻の意味と蝉自身の意味とあり、ここは後者。はかないこの世の生の意としての現身のイメージもふくむ。
身をかへ 03022
さなぎから成虫に変態する。
てけり 03022
完了の「つ」と過去の「けり」。
引き入れて 03022
「引き入れて」とあるのは、光が出すつもりもなく棄てる気でいた手習いの歌を、小君の判断で、空蝉に見せることにしたということが言外に語られている。
かの人も… 03022
物語から外れた説明である(物語には出来事を時間を追って語るナレータ―部分(語り)と、物語の時間に縛られない説明の部分とに分かれる)。空蝉への思いを歌った和歌のあとに続けて、「かの人もいかに思ふらん」と光が思いやったのではない。もし続けて思いやったのであれば、空蝉には手紙を出すつもりでなく和歌を書いたのに(結果として空蝉に渡ったことと混乱してはならない)、軒端荻へは手紙を出そうかどうしようかと考えたことになり、主である空蝉と従である軒端荻との扱いが転倒してしまう。ここは語りの部分ではなく、説明の部分と考える。次の一文も説明である。
人香 03022
空蝉が焚き染めて移り香としているお香のかおりと、空蝉自身の体臭がまざったもの。女性フェロモンとして働き、性的な興奮をもよおさせる。