原文《空蝉》索引&検索(03001-03023)
03空蝉01章(001-003)
03001 寝られたまはぬままには 我はかく人に憎まれてもならはぬを 今宵なむ初めて 憂しと世を思ひ知りぬれば 恥づかしくて ながらふまじうこそ思ひなりぬれなどのたまへば 涙をさへこぼして臥したり いとらうたしと思す 手さぐりの 細く小さきほど 髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも 思ひなしにやあはれなり あながちにかかづらひたどり寄らむも 人悪ろかるべく まめやかにめざましと思し明かしつつ 例のやうにものたまひまつはさず 夜深う出でたまへば この子は いといとほしく さうざうしと思ふ
03002 女も 並々ならずかたはらいたしと思ふに 御消息も絶えてなし 思し懲りにけると思ふにも やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし よきほどに かくて閉ぢめてむと思ふものから ただならず ながめがちなり
03003 君は 心づきなしと思しながら かくてはえ止むまじう御心にかかり 人悪ろく思ほしわびて 小君に いとつらうも うれたうもおぼゆるに しひて思ひ返せど 心にしも従はず苦しきを さりぬべきをり見て 対面すべくたばかれとのたまひわたれば わづらはしけれど かかる方にても のたまひまつはすは うれしうおぼえけり
03空蝉02章(004-010)
03004 幼き心地に いかならむ折と待ちわたるに 紀伊守国に下りなどして 女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに わが車にて率てたてまつる この子も幼きを いかならむと思せど さのみもえ思しのどむまじければ さりげなき姿にて 門など鎖さぬ先にと 急ぎおはす 人見ぬ方より引き入れて 降ろしたてまつる 童なれば 宿直人などもことに見入れ追従せず 心やすし
03005 東の妻戸に 立てたてまつりて 我は南の隅の間より 格子叩きののしりて入りぬ 御達 あらはなりと言ふなり なぞ かう暑きに この格子は下ろされたると問へば 昼より 西の御方の渡らせたまひて 碁打たせたまふと言ふ さて向かひゐたらむを見ばや と思ひて やをら歩み出でて 簾のはさまに入りたまひぬ この入りつる格子はまだ鎖さねば 隙見ゆるに 寄りて西ざまに見通したまへば この際に立てたる屏風 端の方おし畳まれたるに 紛るべき几帳なども 暑ければにや うち掛けて いとよく見入れらる
03006 火近う灯したり 母屋の中柱に側める人やわが心かくると まづ目とどめたまへば 濃き綾の単衣襲なめり 何にかあらむ上に着て 頭つき細やかに小さき人の ものげなき姿ぞしたる 顔などは 差し向かひたらむ人などにも わざと見ゆまじうもてなしたり 手つき痩せ痩せにて いたうひき隠しためり
03007 いま一人は 東向きにて 残るところなく見ゆ 白き羅の単衣襲 二藍の小袿だつもの ないがしろに着なして 紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに ばうぞくなるもてなしなり いと白うをかしげに つぶつぶと肥えて そぞろかなる人の 頭つき額つきものあざやかに まみ口つき いと愛敬づき はなやかなる容貌なり 髪はいとふさやかにて 長くはあらねど 下り端 肩のほどきよげに すべていとねぢけたるところなく をかしげなる人と見えたり むべこそ親の世になくは思ふらめと をかしく見たまふ 心地ぞ なほ静かなる気を添へばやと ふと見ゆる かどなきにはあるまじ 碁打ち果てて 結さすわたり 心とげに見えて きはぎはとさうどけば 奥の人はいと静かにのどめて 待ちたまへや そこは持にこそあらめ このわたりの劫をこそなど言へど いで このたびは負けにけり 隅のところ いでいでと指をかがめて 十 二十 三十 四十などかぞふるさま 伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ すこし品おくれたり
03008 たとしへなく口おほひて さやかにも見せねど 目をしつけたまへれば おのづから側目も見ゆ 目すこし腫れたる心地して 鼻などもあざやかなるところなうねびれて にほはしきところも見えず 言ひ立つれば 悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて このまされる人よりは心あらむと 目とどめつべきさましたり
03009 にぎははしう愛敬づきをかしげなるを いよいよほこりかにうちとけて 笑ひなどそぼるれば にほひ多く見えて さる方にいとをかしき人ざまなり あはつけしとは思しながら まめならぬ御心は これもえ思し放つまじかりけり
03010 見たまふかぎりの人は うちとけたる世なく ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ かくうちとけたる人のありさまかいま見などは まだしたまはざりつることなれば 何心もなうさやかなるはいとほしながら 久しう見たまはまほしきに 小君出で来る心地すれば やをら出でたまひぬ
03空蝉03章(011-018)
03011 渡殿の戸口に寄りゐたまへり いとかたじけなしと思ひて 例ならぬ人はべりて え近うも寄りはべらず さて 今宵もや帰してむとする いとあさましう からうこそあべけれとのたまへば などてか あなたに帰りはべりなば たばかりはべりなむと聞こゆ さもなびかしつべき気色にこそはあらめ 童なれど ものの心ばへ 人の気色見つべくしづまれるをと 思すなりけり
03012 碁打ち果てつるにやあらむ うちそよめく心地して 人びとあかるるけはひなどすなり 若君はいづくにおはしますならむ この御格子は鎖してむとて 鳴らすなり 静まりぬなり 入りて さらば たばかれとのたまふ この子も いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば 言ひあはせむ方なくて 人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり 紀伊守の妹もこなたにあるか 我にかいま見せさせよ とのたまへど いかでか さははべらむ 格子には几帳添へてはべりと聞こゆ さかし されどもをかしく思せど 見つとは知らせじ いとほし と思して 夜更くることの心もとなさをのたまふ
03013 こたみは妻戸を叩きて入る 皆人びと静まり寝にけり この障子口に まろは寝たらむ 風吹きとほせとて 畳広げて臥す 御達 東の廂にいとあまた寝たるべし 戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば とばかり空寝して 灯明かき方に屏風を広げて 影ほのかなるに やをら入れたてまつる いかにぞ をこがましきこともこそと思すに いとつつましけれど 導くままに 母屋の几帳の帷子引き上げて いとやをら入りたまふとすれど 皆静まれる夜の 御衣のけはひやはらかなるしも いとしるかりけり
03014 女は さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど あやしく夢のやうなることを 心に離るる折なきころにて 心とけたる寝だに寝られずなむ 昼はながめ 夜は寝覚めがちなれば 春ならぬ木の芽も いとなく嘆かしきに 碁打ちつる君 今宵は こなたにと 今めかしくうち語らひて 寝にけり
03015 若き人は 何心なくいとようまどろみたるべし かかるけはひの いと香ばしくうち匂ふに 顔をもたげたるに 単衣うち掛けたる几帳の隙間に 暗けれど うち身じろき寄るけはひ いとしるし あさましくおぼえて ともかくも思ひ分かれず やをら起き出でて 生絹なる単衣を一つ着て すべり出でにけり
03016 君は入りたまひて ただひとり臥したるを心やすく思す 床の下に二人ばかりぞ臥したる 衣を押しやりて寄りたまへるに ありしけはひよりは ものものしくおぼゆれど 思ほしうも寄らずかし いぎたなきさまなどぞ あやしく変はりて やうやう見あらはしたまひて あさましく心やましけれど 人違へとたどりて見えむも をこがましく あやしと思ふべし 本意の人を尋ね寄らむも かばかり逃るる心あめれば かひなう をこにこそ思はめと思す かのをかしかりつる灯影ならば いかがはせむに思しなるも 悪ろき御心浅さなめりかし
03017 やうやう目覚めて いとおぼえずあさましきに あきれたる気色にて 何の心深くいとほしき用意もなし 世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは さればみたる方にて あえかにも思ひまどはず 我とも知らせじと思ほせど いかにしてかかることぞと 後に思ひめぐらさむも わがためには事にもあらねど あのつらき人の あながちに名をつつむも さすがにいとほしければ たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを いとよう言ひなしたまふ たどらむ人は心得つべけれど まだいと若き心地に さこそさし過ぎたるやうなれど えしも思ひ分かず 憎しとはなけれど 御心とまるべきゆゑもなき心地して なほかのうれたき人の心をいみじく思す いづくにはひ紛れて かたくなしと思ひゐたらむ かく執念き人はありがたきものを と思すしも あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ
03018 この人の なま心なく 若やかなるけはひもあはれなれば さすがに情け情けしく契りおかせたまふ 人知りたることよりも かやうなるは あはれも添ふこととなむ 昔人も言ひける あひ思ひたまへよ つつむことなきにしもあらねば 身ながら心にもえまかすまじくなむありける また さるべき人びとも許されじかしと かねて胸いたくなむ 忘れで待ちたまへよなど なほなほしく語らひたまふ 人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ え聞こえさすまじき とうらもなく言ふ なべて 人に知らせばこそあらめ この小さき上人に伝へて聞こえむ 気色なくもてなしたまへ など言ひおきて かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ
03空蝉04章(019-020)
03019 小君近う臥したるを起こしたまへば うしろめたう思ひつつ寝ければ ふとおどろきぬ 戸をやをら押し開くるに 老いたる御達の声にて あれは誰そ とおどろおどろしく問ふ わづらはしくて まろぞと答ふ 夜中に こは なぞ外歩かせたまふ とさかしがりて 外ざまへ来 いと憎くて あらず ここもとへ出づるぞとて 君を押し出でたてまつるに 暁近き月 隈なくさし出でて ふと人の影見えければ またおはするは 誰そと問ふ 民部のおもとなめり けしうはあらぬおもとの丈だちかなと言ふ 丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり
03020 老人 これを連ねて歩きけると思ひて 今 ただ今立ちならびたまひなむ と言ふ言ふ 我もこの戸より出でて来 わびしければ えはた押し返さで 渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば このおもとさし寄りて おもとは 今宵は 上にやさぶらひたまひつる 一昨日より腹を病みて いとわりなければ 下にはべりつるを 人少ななりとて召ししかば 昨夜参う上りしかど なほえ堪ふまじくなむと 憂ふ 答へも聞かで あな 腹々 今聞こえむ とて過ぎぬるに からうして出でたまふ なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと いよいよ思し懲りぬべし
03空蝉05章(021-023)
03021 小君 御車の後にて 二条院におはしましぬ ありさまのたまひて 幼かりけり とあはめたまひて かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ いとほしうて ものもえ聞こえず いと深う憎みたまふべかめれば 身も憂く思ひ果てぬ などか よそにても なつかしき答へばかりはしたまふまじき 伊予介に劣りける身こそなど 心づきなしと思ひてのたまふ ありつる小袿を さすがに 御衣の下に引き入れて 大殿籠もれり
03022 小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり しばしうち休みたまへど 寝られたまはず 御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで 畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり
03023 小君 かしこに行きたれば 姉君待ちつけて いみじくのたまふ あさましかりしに とかう紛らはしても 人の思ひけむことさりどころなきに いとなむわりなき いとかう心幼きを かつはいかに思ほすらむとて 恥づかしめたまふ 左右に苦しう思へど かの御手習取り出でたり さすがに 取りて見たまふ かのもぬけを いかに 伊勢をの海人のしほなれてや など思ふもただならず いとよろづに乱れて 西の君も もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり また知る人もなきことなれば 人知れずうちながめてゐたり 小君の渡り歩くにつけても 胸のみ塞がれど 御消息もなし あさましと思ひ得る方もなくて されたる心に ものあはれなるべし つれなき人も さこそしづむれ いとあさはかにもあらぬ御気色を ありしながらのわが身ならばと 取り返すものならねど 忍びがたければ この御畳紙の片つ方に
空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな