03空蝉03 濡れる袖

2020-10-11

03空蝉 原文 03章063/105

やうやう目覚めて いとおぼえずあさましきに あきれたる気色にて 何の心深くいとほしき用意もなし 世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは さればみたる方にて あえかにも思ひまどはず 我とも知らせじと思ほせど いかにしてかかることぞと 後に思ひめぐらさむも わがためには事にもあらねど あのつらき人の あながちに名をつつむも さすがにいとほしければ たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを いとよう言ひなしたまふ たどらむ人は心得つべけれど まだいと若き心地に さこそさし過ぎたるやうなれど えしも思ひ分かず 憎しとはなけれど 御心とまるべきゆゑもなき心地して なほかのうれたき人の心をいみじく思す いづくにはひ紛れて かたくなしと思ひゐたらむ かく執念き人はありがたきものを と思すしも あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ この人の なま心なく 若やかなるけはひもあはれなれば さすがに情け情けしく契りおかせたまふ 人知りたることよりも かやうなるは あはれも添ふこととなむ 昔人も言ひける あひ思ひたまへよ つつむことなきにしもあらねば 身ながら心にもえまかすまじくなむありける また さるべき人びとも許されじかしと かねて胸いたくなむ 忘れで待ちたまへよなど なほなほしく語らひたまふ 人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ え聞こえさすまじき とうらもなく言ふ なべて 人に知らせばこそあらめ この小さき上人に伝へて聞こえむ 気色なくもてなしたまへ など言ひおきて かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ 小君近う臥したるを起こしたまへば うしろめたう思ひつつ寝ければ ふとおどろきぬ 戸をやをら押し開くるに 老いたる御達の声にて あれは誰そ とおどろおどろしく問ふ わづらはしくて まろぞと答ふ 夜中に こは なぞ外歩かせたまふ とさかしがりて 外ざまへ来 いと憎くて あらず ここもとへ出づるぞとて 君を押し出でたてまつるに 暁近き月 隈なくさし出でて ふと人の影見えければ またおはするは 誰そと問ふ 民部のおもとなめり けしうはあらぬおもとの丈だちかなと言ふ 丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり 老人 これを連ねて歩きけると思ひて 今 ただ今立ちならびたまひなむ と言ふ言ふ 我もこの戸より出でて来 わびしければ えはた押し返さで 渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば このおもとさし寄りて おもとは 今宵は 上にやさぶらひたまひつる 一昨日より腹を病みて いとわりなければ 下にはべりつるを 人少ななりとて召ししかば 昨夜参う上りしかど なほえ堪ふまじくなむと 憂ふ 答へも聞かで あな 腹々 今聞こえむ とて過ぎぬるに からうして出でたまふ なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと いよいよ思し懲りぬべし 小君 御車の後にて 二条院におはしましぬ ありさまのたまひて 幼かりけり とあはめたまひて かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ いとほしうて ものもえ聞こえず いと深う憎みたまふべかめれば 身も憂く思ひ果てぬ などか よそにても なつかしき答へばかりはしたまふまじき 伊予介に劣りける身こそなど 心づきなしと思ひてのたまふ ありつる小袿を さすがに 御衣の下に引き入れて 大殿籠もれり 小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり しばしうち休みたまへど 寝られたまはず 御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで 畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ
 空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり 小君 かしこに行きたれば 姉君待ちつけて いみじくのたまふ あさましかりしに とかう紛らはしても 人の思ひけむことさりどころなきに いとなむわりなき いとかう心幼きを かつはいかに思ほすらむとて 恥づかしめたまふ 左右に苦しう思へど かの御手習取り出でたり さすがに 取りて見たまふ かのもぬけを いかに 伊勢をの海人のしほなれてや など思ふもただならず いとよろづに乱れて 西の君も もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり また知る人もなきことなれば 人知れずうちながめてゐたり 小君の渡り歩くにつけても 胸のみ塞がれど 御消息もなし あさましと思ひ得る方もなくて されたる心に ものあはれなるべし つれなき人も さこそしづむれ いとあさはかにもあらぬ御気色を ありしながらのわが身ならばと 取り返すものならねど 忍びがたければ この御畳紙の片つ方に
  空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな

03空蝉 原文 読みかな 対訳 063/105

イ:や行の「い」/エ:や行の「え」

《やうやう目覚めて いとおぼえずあさましきに あきれたる気色にて》063
やうやう/め/さめ/て いと/おぼエ/ず/あさましき/に あきれ/たる/けしき/にて
次第に目が醒めてゆくと、まったく思いもよらぬあまりな出来事に、呆気にとられ、


《何の心深くいとほしき用意もなし》063
なに/の/こころふかく/いとほしき/ようい/も/なし
この場を避ける何の深い思慮も、君の良心に訴える何の心用いもない。


《世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは さればみたる方にて あえかにも思ひまどはず》064
よのなか/を/まだ/おもひ/しら/ぬ/ほど/より/は さればみ/たる/かた/にて あエか/に/も/おもひ/まどは/ず
男をまだ知らない生娘に比べれば男馴れした方で、今にも消え入りそうなほどうろたえることはない。


《我とも知らせじと思ほせど》065
われ/と/も/しらせ/じ/と/おぼせ/ど
君は相手の男が私であるとも知らせずじまいにしようとお考えながら、


《いかにしてかかることぞと 後に思ひめぐらさむも わがためには事にもあらねど》065
いかにして/かかる/こと/ぞ/と のち/に/おもひ/めぐらさ/む/も わが/ため/に/は/こと/に/も/あら/ね/ど
どうしてこういうことになったのか、後々女があれこれ思い巡らし真相を理解したところで、自分にとってさしたる大事でもないが、


《あのつらき人の あながちに名をつつむも さすがにいとほしければ》065
あの/つらき/ひと/の あながち/に/な/を/つつむ/も さすが/に/いとほしけれ/ば
あの冷たい女が世間の評判を気に病み自分との関係をひた隠しにするのも、さすがに心咎められる気がして、


《たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを いとよう言ひなしたまふ》
たびたび/の/おほむ-かたたがへ/に/ことつけ/たまひ/し/さま/を いと/よう/いひなし/たまふ
たびたびの御方違えに何度も会いたい旨を伝えておられたその折りの様子を、実にみごとに言い聞かせになる。


《たどらむ人は心得つべけれど》066
たどら/む/ひと/は/こころえ/つ/べけれ/ど
筋道立ててものごとを考える人であれば察しもつこうはずが、


《まだいと若き心地に さこそさし過ぎたるやうなれど えしも思ひ分かず》066
まだ/いと/わかき/ここち/に さ/こそ/さし-すぎ/たる/やう/なれ/ど え/しも/おもひ/わか/ず
まだたいそう若い心慮では、男馴れしてるぐらい年の割にもののわかった風であっても、どうしたって思い至りようがない。


《憎しとはなけれど》067
にくし/と/は/なけれ/ど
気にいらぬわけではないが、


《御心とまるべきゆゑもなき心地して なほかのうれたき人の心をいみじく思す》067
みこころ/とまる/べき/ゆゑ/も/なき/ここち/し/て なほ/かの/うれたき/ひと/の/こころ/を/いみじく/おぼす
情を注がずにおれない積極的理由もない気がして、薄情でもやはりあの癪な女の心根をひどく気になさる。


《いづくにはひ紛れて かたくなしと思ひゐたらむ》068
いづく/に/はひ-まぎれ/て かたくなし/と/おもひ/ゐ/たら/む
いったいどこぞに逃げ隠れて、思い込みのはげしい愚か者と思っておいでなのか、


《かく執念き人はありがたきものを》068
かく/しふねき/ひと/は/ありがたき/もの/を
これほど片意地な人はまずありはしない、


《と思すしも あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ》
と/おぼす/しも あやにく/に まぎれ/がたう/おもひいで/られ/たまふ
とお思いになるにつけても、何とも憎らしいことに、他に紛らせようがなく空蝉のことがつい思い出されてしまいになる。


《この人の なま心なく 若やかなるけはひもあはれなれば》069
この/ひと/の なま-こころ/なく わかやか/なる/けはひ/も/あはれ/なれ/ば
この人が色欲をむき出しにしない若々しい感じにも愛情をお感じなので、

《さすがに情け情けしく契りおかせたまふ》069
さすが/に/なさけなさけしく/ちぎり/おか/せ/たまふ
空蝉のことは思い出されてならないが、情愛こまやかに軒端荻をお抱きになる。


《人知りたることよりも かやうなるは あはれも添ふこととなむ 昔人も言ひける》070
ひと/しり/たる/こと/より/も かやう/なる/は あはれ/も/そふ/こと/と/なむ むかしびと/も/いひ/ける
「世間に知れた関係よりも、こうしたみそか事の方が恋しさも加わる関係だと、昔の人も言っている。


《あひ思ひたまへよ》070
あひ/おもひ/たまへ/よ
あなたもわたしのことを思って、お便りをくださいな。


《つつむことなきにしもあらねば 身ながら心にもえまかすまじくなむありける》070
つつむ/こと/なき/に/しも/あら/ね/ば み/ながら/こころ/に/も/え/まかす/まじく/なむ/あり/ける
世間をはばかる事柄がないでもない身なので、自分のことながら思うにまかせない点があるのです。


《また さるべき人びとも許されじかしと》070
また さるべき/ひとびと/も/ゆるさ/れ/じ/かし/と
それに、歴としたあなたのまわりの方々もお許しならないでしょうね、


《かねて胸いたくなむ 忘れで待ちたまへよなど》070
かねて/むね/いたく/なむ わすれ/で/まち/たまへ/よ/など
そう思うと今から胸が痛くて。忘れずに待ってなさいよ」などと、


《なほなほしく語らひたまふ》070
なほなほしく/かたらひ/たまふ
とってつけたようなことをお話になる。


《人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ》071
ひと/の/おもひ/はべら/む/こと/の/はづかしき/に/なむ
「人がどう思いますことかと居たたまれなくて。


《え聞こえさすまじき とうらもなく言ふ》071
え/きこエ/さす/まじき と/うら/も/なく/いふ
とてもお便りでを差し上げられません」と、疑いもせずに言う。


《なべて 人に知らせばこそあらめ この小さき上人に伝へて聞こえむ》072
なべて ひと/に/しら/せ/ば/こそ/あら/め この/ちひさき/うへびと/に/つたへ/て/きこエ/む
「世間に広く知らせればそうでしょうが、この幼い殿上人に伝えてお手紙しましょう。


《気色なくもてなしたまへ など言ひおきて》072
けしき/なく/もてなし/たまへ など/いひおき/て
変に浮ついたりせず普段通りいるのですよ」などと言い残して、


《かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ》072
かの/ぬぎ/すべし/たる/と/みゆる/うすごろも/を/とり/て/いで/たまひ/ぬ
あの空蝉が脱ぎ落としたと思われる薄い衣を取って出て行かれた。


《小君近う臥したるを起こしたまへば》073
こぎみ/ちかう/ふし/たる/を/おこし/たまへ/ば
小君が近くで寝ているをのお起こしになると、


《うしろめたう思ひつつ寝ければ ふとおどろきぬ》073
うしろめたう/おもひ/つつ/ね/けれ/ば ふと/おどろき/ぬ
気がかりに思いつつ寝ていたので、すぐに目が醒めた。


《戸をやをら押し開くるに》074
と/を/やをら/おし/あくる/に
小君が妻戸をそっと押し開けると、


《老いたる御達の声にて あれは誰そとおどろおどろしく問ふ》074
おイ/たる/ごたち/の/こゑ/に/て あれ/は/たそ/と/おどろおどろしく/とふ
年をとった女房の声で、「そこにいるのは誰じゃ」と、人を脅すような大袈裟な声で聞く。


《わづらはしくて まろぞと答ふ》075
わづらはしく/て まろ/ぞ/と/いらふ
面倒なことになったぞと思い、「わたしだ」と答える。


《夜中に こは なぞ外歩かせたまふ》076
よなか/に こは なぞ/と/ありか/せ/たまふ
「夜中に、何として出歩きなさる」


《とさかしがりて 外ざまへ来》076
と/さかしがり/て とざま/へ/く
と、老女が要らぬ世話を焼いて、外の方へやってくる。


《いと憎くて あらず ここもとへ出づるぞとて 君を押し出でたてまつるに》077
いと/にくく/て あら/ず ここ/もと/へ/いづる/ぞ/とて きみ/を/おし/いで/たてまつる/に
本当に憎らしくて、「何でもない。戸口へ出るだけだ」と答え、君を外へ押し出し申し上げると、


《暁近き月隈なくさし出でて ふと人の影見えければ またおはするは 誰そと問ふ》077
あかつき/ちかき/つき/くまなく/さし-いで/て ふと/ひと/の/かげ/みエ/けれ/ば また/おはする/は たそ/と/とふ
暁近い月が四方をくまなく照らしだしており、ふと人の影が見えたので、老女は、「もひとりおいでだが、どなたじゃ」と問う。


《民部のおもとなめり けしうはあらぬおもとの丈だちかなと言ふ》078
みんぶ-の-おもと/な/めり おもと/の/たけだち/かな/と/いふ
「民部のおもとらしいわい。なかなか立派なおまえ様の背丈じゃこと」と、みずから答えを出す。


《丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり》079
たけ/たかき/ひと/の/つね/に/わらは/るる/を/いふ/なり/けり
背の高い人がいつも笑われているのを言うのであった。


《老人 これを連ねて歩きけると思ひて》080
おイ-びと これ/を/つらね/て/ありき/ける/と/おもひ/て
老女はこの女を連れて歩いていたのだと今になって気づき、


《今 ただ今立ちならびたまひなむ》080
いま ただいま/たちならび/たまひ/な/む
「今に、すぐにも背丈が並びましょう」


《と言ふ言ふ 我もこの戸より出でて来》080
と/いふ/いふ われ/も/この/と/より/いで/て/く
と言ひながら、自分もこの戸より出てくる。


《わびしければ えはた押し返さで 渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば》081
わびしけれ/ば え/はた/おしかへさ/で わたどの/の/くち/に/かい-そひ/て/かくれ/たち/たまへ/れ/ば
小君は困ってしまい、それでも老女を押し返すわけにもゆかずにいると、渡殿の戸口にぴたと身を寄せて君が隠れていらっしゃるところへ、


《このおもとさし寄りて》081
この/おもと/さし-より/て
この老女が迫って行って、


《おもとは 今宵は 上にやさぶらひたまひつる》081
おもと/は こよひ/は うへ/に/や/さぶらひ/たまひ/つる
「そなたは、今夜は上でお仕えなされたか。


《一昨日より腹を病みて いとわりなければ 下にはべりつるを》081
をととひ/より/はら/を/やみ/て いと/わりなけれ/ば しも/に/はべり/つる/を
おとといより腹を下して、なんともしようがのうて下にさがっておりましたに、


《人少ななりとて召ししかば 昨夜参う上りしかど》081
ひとずくな/なり/とて/めし/しか/ば よべ/まうのぼり/しか/ど
人少なだからとお召しで、昨夜はあがりましたが、


《なほえ堪ふまじくなむと憂ふ》081
なほ/え/たふ/まじく/なむ/と/うれふ
やはりがまんできそうになくて」とこぼす。


《答へも聞かで あな 腹々 今聞こえむ とて過ぎぬるに》082
いらへ/も/きか/で あな はら/はら いま/きこエ/むとて/すぎ/ぬる/に
答えも聞かずに「ああ、腹が腹が。また話そう」とて行ってしまったのにおよび、


《からうして出でたまふ》082
からうして/いで/たまふ
どうにか無事に君は館を後になさる。


《なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと いよいよ思し懲りぬべし》083
なほ/かかる/ありき/は/かろがろしく/あやしかり/けり/と いよいよ/おぼし/こり/ぬ/べし
やはりこのような忍び歩きは軽はずみで危ういことだと、いよいよお懲こりになったに相違ない。


《小君 御車の後にて 二条院におはしましぬ》084
こぎみ みくるま/の/しり/にて にでう-の-ゐん/に/おはしまし/ぬ
小君をお車の後ろに従えて、君はご自邸である二条院にお帰りになった。


《ありさまのたまひて 幼かりけり とあはめたまひて》085
ありさま/のたまひ/て をさなかり/けり と/あはめ/たまひ/て
ことの仔細をおっしゃって、「稚拙だ」と小君の計画を非難なされ、


《かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ》085
かの/ひと/の/こころ/を/つまはじき/を/し/つつ/うらみ/たまふ
あの女のねじけた性根を爪弾きしてお恨みになる。


《いとほしうて ものもえ聞こえず》086
いとほしう/て もの/も/え/きこエ/ず
小君は申し訳なくて何も申し上げることができない。


《いと深う憎みたまふべかめれば 身も憂く思ひ果てぬ》087
いと/ふかう/にくみ/たまふ/べか/めれ/ば み/も/うく/おもひ/はて/ぬ
「とてもひどくお憎みようだから、この身も嫌でたまらなくなってしまった。


《などか よそにても なつかしき答へばかりはしたまふまじき》087
などか よそ/にて/も なつかしき/いらへ/ばかり/は/し/たまふ/まじき
どうして、直接逢わないにしても、慕わしく思わせる返事くらいなさってはいけなかろう。


《伊予介に劣りける身こそ》087
いよ-の-すけ/に/おとり/ける/み/こそ
伊予介に劣った身だからだめなのか」


《など 心づきなしと思ひてのたまふ》087
など こころづきなし/と/おもひ/て/のたまふ
などと、気にいらぬ女だと思っておっしゃる。


《ありつる小袿を さすがに 御衣の下に引き入れて 大殿籠もれり》088
ありつる/こうちき/を さすがに おほむ-ぞ/の/した/に/ひき-いれ/て おほとのごもれ/り
それでもさすがに先刻の小袿を、お召物の中へ引き入れて、お休みになられた。


《小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ》089
こぎみ/を/おまへ/に/ふせ/て よろづ/に/うらみ かつ/は かたらひ/たまふ
小君をお側に寝かせて、これまでの計略のすべてにわたり恨んでは、またかわいがりなる。


《あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ》090
あこ/は らうたけれ/ど つらき/ゆかり/に/こそ え/おもひ/はつ/まじけれ
「そちはかわいいが、情の薄い人のゆかりゆえ、愛しつづけはできなかろうね」


《とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり》090
と/まめやか/に/のたまふ/を いと/わびし/と/おもひ/たり
と、真顔みたいにおっしゃるのを、とてもつらいと思った。


《しばしうち休みたまへど 寝られたまはず》091
しばし/うち-やすみ/たまへ/ど ね/られ/たまは/ず
しばらく臥せておられたが、お休みになれない。


《御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで》092
おほむ-すずり/いそぎ/めし/て さしはへ/たる/おほむ-ふみ/に/は/あら/で
御硯を急いでお召しになって、表だった用向きのお手紙ではなくて、


《畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ》092
たたうがみ/に/てならひ/の/やう/に/かきすさび/たまふ
懐紙に手習いのように気慰みにお書きになる。


《空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな》093
うつせみ/の/み/を/かへ/て/ける/こ/の/もと/に/なほ/ひとがら/の/なつかしき/かな
うつせみが羽化したように姿を変えて去って行った木の下で なお残された殻である記憶の中の人柄が慕われることだな


《と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり》093
と/かき/たまへ/る/を ふところ/に/ひき-いれ/て/も/たり
とお書きになったのを、小君は懐に引き入れて持っておいた。


《かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど》094
かの/ひと/も/いかに/おもふ/らむ/と いとほしけれ/ど
あの人もどう思っているだろうかと、その後便りを出さない軒端荻に対して申し訳なく思いながら、


《かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし》094
かたがた/おもほし/かへし/て おほむ-ことつけ/も/なし
あれこれ考え直した挙句、人を介した伝言もなさらない。


《かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり》095
かの/うすごろも/は こうちき/の/いと/なつかしき/ひとが/に/しめ/る/を み/ちかく/ならし/て/み/ゐ/たまへ/り
例の薄衣は、小袿としてとても慕わしい人の香りが染付いているのを、肌身に離さず側においていつもご覧になっておいでである。


《小君 かしこに行きたれば 姉君待ちつけて いみじくのたまふ》096
こぎみ かしこ/に/いき/たれ/ば あね-ぎみ/まちつけ/て いみじく/のたまふ
小君があちらに行ってみると、姉君が待ちかまえて、ひどいことをするとおっしゃる。


《あさましかりしに とかう紛らはしても》097
あさましかり/し/に とかう/まぎらはし/て/も
「あまりにひどいと思いながらも、表立たぬようどうにか誤魔化しはしたものの、


《人の思ひけむことさりどころなきに いとなむわりなき》097
ひと/の/おもひ/けむ/こと/さりどころ/なき/に いと/なむ/わりなき
女房たちが想像したであろう内容は避ける余地がなくて、なんとも困ったことだ。


《いとかう心幼きを かつはいかに思ほすらむ》097
いと/かう/こころをさなき/を かつ/は/いかに/おもほす/らむ
それにしても、まったくこうも心やりの未熟さを、どう思っておいでなのだろうか」


《とて 恥づかしめたまふ》097
とて はづかしめ/たまふ
と、相手にいたたまれない思いをおさせになる。


《左右に苦しう思へど かの御手習取り出でたり》098
ひだり/みぎ/に/くるしう/おもへ/ど かの/おほむ-てならひ/とりいで/たり
双方に対してつらいと思ったが、例の御手習いをとり出した。


《さすがに 取りて見たまふ》099
さすが/に とり/て/み/たまふ
避けてはいるもののさすがに、手紙を手にとってご覧になる。


《かのもぬけを いかに 伊勢をの海人のしほなれてや》100
かの/もぬけ/を いかに いせを/の/あま/の/しほ/なれ/て/や
あのもぬけの殻みたいに残しておいた薄衣をどうお感じだろう。伊勢の海人のように臭いが染みいていようか、


《など思ふもただならず いとよろづに乱れて》100
など/おもふ/も/ただ/なら/ず いと/よろづ/に/みだれ/て
などと想像するさえ平然としておられず、心は千々に乱れて。


《西の君も もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり》101
にし-の-きみ/も もの-はづかしき/ここち/し/て/わたり/たまひ/に/けり
西の対の君も、ひどく恥ずかしい気がして、自室へと戻ってゆかれた。


《また知る人もなきことなれば 人知れずうちながめてゐたり》102
また/しる/ひと/も/なき/こと/なれ/ば ひと/しれ/ず/うち-ながめ/て/ゐ/たり
ほかに知る者もない一夜であったので、人知れずぼんやりとして過ごしている。


《小君の渡り歩くにつけても 胸のみ塞がれど 御消息もなし》103
こぎみ/の/わたり/ありく/に/つけ/て/も むね/のみ/ふたがれ/ど おほむ-せうそこ/も/なし
小君が渡り歩くのをみかけるにつけても、胸がふさがるばかりだが、君からのお便りはない。


《あさましと思ひ得る方もなくて されたる心に ものあはれなるべし》104
あさまし/と/おもひ/うる/かた/も/なく/て され/たる/こころ/に もの/あはれ/なる/べし
一夜のあそびだったとはひど過ぎると思う分別もなく、男馴れした心にはひどく情念がたぎるであろう。


《つれなき人も さこそしづむれ》105
つれなき/ひと/も さ/こそ/しづむれ
すげない人もそのように心を抑えてはいるが、


《いとあさはかにもあらぬ御気色を ありしながらのわが身ならばと 取り返すものならねど》105
いと/あさはか/に/も/あら/ぬ/みけしき/を ありし/ながら/の/わが/み/なら/ば/と とりかへす/もの/なら/ね/ど
まったく浮ついたものではないご愛情に対して、昔ながらの身であればと、とり返すせるものではないが、


《忍びがたければ この御畳紙の片つ方に》105
しのび/がたけれ/ば この/おほむ-たたうがみ/の/かたつかた/に
そう願いつつ、忍びがたく思われて、君の御懐紙の端の方に、


《空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな》105
うつせみ/の/は/に/おく/つゆ/の/こがくれ/て/しのび/しのび/に/ぬるる/そで/かな
空蝉の羽におかれた露のように木陰に隠れ、人目をしのびで、涙に濡れる袖かな

空蝉 注釈 03-063/03-105

あさましき 03-063

意想外な事態に対しての反感。

あきれたる 03-063

呆然自失の態。

何の心深くいとほしき用意もなし 03-063

「何の心深き用意」と「何のいとほしき用意」との両方がないこと。「心深し」は深い考えで、これは襲いかかる光から身を守る工夫。「いとほし」は悪いことをしたと相手に申し訳なく思う気もちで、光が自から悪いことをしていることを悟って手を引くようにしむける手立てのこと。そうした「用意」は気遣い、心配り。それらが軒端荻には欠けていることをいう。

世の中をまだ思ひ知らぬ 03-064

男性経験のないおぼこ。

よりは 03-064

比較。「~にしては」との意味ではない。

さればみ 03-064

良い意味では垢抜け・気が利きいている。悪い意味では手馴れた、世間ずれしたとの意味。

あえかにも 03-064

触れれば消えてしまいそうな様子。そんな風に取り乱すということはない。

我とも知らせじと……言ひなしたまふ 03-065

かなり込み入っているので、やや言葉を補ってわかりやすく説明しよう。男馴れしている軒端荻に対しては関係を結んだことに責めは感じない。だから、名も名乗らないつもりでいる(ということは、行きずりの関係ですまし、今後女を庇護することはしない。)し、後で自分であることを知ったところで、自分の名誉を守る手段はいくらもあるからへっちゃらだということ。それに比し、自分との関係が世間にばれはしないかと、苦にしつづける空蝉には、申し訳なく思うので、軒端荻との関係を公にすれば、世間沙汰になる心配をしている空蝉の気持ちもやわらぐだろうと思って、方違えのたびに思いを寄せていたとうそをつくのである。

後に思ひめぐらさむもわがためには事にもあらねど 03-065

諸注は思いめぐらすこと自体自分には大した事はないと訳す、思い巡らした結果光であるとわかっても大した事ではないの意味である。だから軒端荻に自分であると名乗る必要はない、と光は考えているのである。

つらき 03-065

薄情。冷たい女ほど、小癪ながら、気になるというのが男心。

名をつつむ 03-065

世間を気にして光との関係をひた隠しにすること。

いとほしければ 03-065

空蝉に対する心の責め。軒端荻は世間ずれしているから、ほっといていいが、空蝉はこのままではほってはおけない。

ことつけたまひしさま 03-065

「ことつけ」は、かこつける・口実にするの意味で解釈されている。しかし、ことつけには、ことづけるの意味がある。「し」は過去の「き」であり、自分がこでまで、たびたびの方違えに会いたい旨をことづけてきたその様子を、みごとにいいきかせになったと取らねば、過去の「き」が意味をなさない。「さま」は、その時の様子。

たどらむ 03-066

筋道を立てて考えること。

さこそ 03-066

光が襲いかかった時の反応の具合から読み取った男馴れした感じ。

さし過ぎたる 03-066

年の割にもののわかった様子。

御心とまる 03-067

愛情がわく。

うれたき 03-067

癪に障る。

いみじく思す 03-067

ひどい女だと思うと解釈されている。思すの内容が「いみじ」(ひどい女)と解釈するのだが、ここは「思す」の程度が「いみじ」(甚だしい)の意味でないと、軒端荻には愛情は感じないが、「なほ」(やはりの意味)につづかない。

かたくなし 03-068

空蝉の光への非難で、かたくなであること。状況も相手の立場も無視して女を得たい一心しかないしつこい男だとの責め。

執拗き人 03-068

光の空蝉への非難で、人の情を欠く分からずや。これほど男が惚れたならその気持ちにほだされてもよかろうにとの思いが前提としてある。たぶんにエゴイスティックな考えではある。

あやにくに 03-068

感動詞「あや」に「にくし」の語幹がくっついたもので、何とも皮肉なことにくらいの意味。

紛れがたう 03-068

他のことで、すなわち、美人の軒端荻を抱いても、紛れることがないということ。的である。

られたまふ 03-068

「られ」は自発。

なま心 03-069

剥き出しの色情。性の快楽を知った女が性欲を剥き出しにすること。軒端荻は若く、性的に未熟であって、床の中で積極的に男を欲しがることがないということ。「なま」は自然のままの、加工されない状態。

も 03-069

「ねたし」のウ音便。自分の噂を耳にしている光の心内語。

契り 03-069

肉体関係を結ぶこと。諸注は将来の約束をしたと解釈するが、それでは、光の発言に対して、ここでは「情け情けしく」(愛情こまやかに)と言い、後では「なほなほしく」(通り一遍に)と言い、矛盾する。セックスは愛情こまやかにしたが、その後の発言は通り一遍だったと考えるしかない。

人知りたること 03-070

人に知られた関係。公に見とめられた結婚。

あひ思ひ 03-070

相思だが、後で私からは手紙を出せないという軒端荻の発言からすると、私のことを思えとは、具体的には、私のことを思って手紙をよこせとの意味となる。単に、頭の中で思っていてくれたらよいというのではない。詞の連用形+「思ふ」。

つつむこと 03-070

憚ること。

身ながら 03-070

自分のことでありながら。

さるべき人々 03-070

立派な後見人たち。軒端荻の父や兄など。

かねて 03-070

実際にはまだ許されるか許されないかわからない。しかし、許されないと思うだけで今から、ということ。

なほなほしく 03-070

通り一遍で、平凡な様子。気持ちがこもっていないという話者の非難である。そもそも光はもう通ってくる気がないので、予防線を張っているのだ。

え聞こえさすまじき 03-071

手紙が出せないという意味。 「聞こゆ」は 「言ふ」の謙譲語。 「さす」は 使役ないしは尊敬。貴人に対しては人を介して伝えることから、仲介者に対しては使役であり、貴人に対しては尊敬になる。

うらもなく 03-071

「うら」は裏腹の裏。疑うことなく。

気色なく 03-072

「気色」は何か有りげな様子。すなわち、貴人である光とひそかに男女の関係にあること。それを素振りに出さないように行動しろというお達し。

すべし 03-072

すべらせる。

薄衣 03-072

空蝉が残していった夏の衣。蝉の抜け殻という空蝉の名のイメージに一致する。アレゴリー(寓意)である。

うしろめたう 03-073

心配である。

戸 03-074

東の廂の妻戸。

やをら 03-074

そっと。

御達 03-074

女房たち。

おどろおどろしく 03-074

相手を威圧するような仰々しい様子。ここはきびしく尋問する調子。

わづらはしくて 03-075

ここでは人に見つかり面倒だと思う気持ち。

外歩かせたまふ 03-076

出歩く。戸口から出ようとしていたので、こんな夜中にどうして出歩くのかと聞いた。

さかしがり 03-076

「さかし」が立派なふるまいであるのに対して、「さかしがり」は小君の立場から余計なお世話であるという意識が働く。

あらず 03-077

怪しいものではないという返事。

ここもと 03-077

妻戸の出たあたり。妻戸の前で今まさに出ようというところに老女に問われたのである。そこで先ず光を外に押し出す。すると、月の明るい夜更けだったので、老女は光の影を見つけて誰何する。なお、「暁」は暗闇から薄明かりに変化しだす頃。「あか」(明るい)+「つき」(し始める)。夜を明かした男女が別れる時刻である。しかし、老女は目が悪いので、相手が光だとは思わず、影の大きさからいつも長身で笑われている民部のおもとと勘違いする。

おもと 03-078

女房を親しんで呼ぶ敬称。また女房同士が、おまえ・あなたのように二人称としても使う。

けしう 03-078

後ろに「まゐりたる」などの省略。空蝉の発言「中将の君はいづくにぞ/02-247」を受ける。

連ねて歩きける 03-080

「ける」は過去ではなく、いわゆる気づきのけりと言われる用法。何だ、民部のおもとと一緒だったのかと、気づくのである。自問自答した時点では、小君と民部のおもとは、老女の頭の中では一人一人ばらばらの存在であったが、今あらためて、二人で歩いていることに老女は気づくのである。寝ぼけていた頭が次第に覚醒してきたのだろう。

わびしけれ 03-081

困った状況になったこと。

ば 03-081

文法的には順接であるが、これを受ける「押しかへさで」のかかってゆく先がなく、中途半端に浮いた状態になっている。すなわち、「押しかへさで」という説明のまま小君はストップモーションがかかった状態にあり、あとは老女がまた自問自答し、光が戻って行ってしまうのである。登場人物から観客の位置に移行すると言ってもよい。わたしたちは、この小君に位置から舞台を見るのでより臨場感をもって物語に入って行けることになる。なお、訳出上は「(押し返さないで)いると」くらいを補う必要があろう。

上 03-081

空蝉のそば。場所では母屋。

わりなけれ 03-081

どうしようもない。

下 03-081

自室。女房たちは渡殿などを細かく仕切り休み場所としていた。

憂ふ 03-081

愚痴をこぼす。

答へ 03-082

今夜は上でお仕えされたのかという質問に対する答え。

歩き 03-083

女のもとへの忍び歩き。

小君御車の後にて二条院におはしましぬ 03-084

主語は光であり、「小君、御車のしりにて」は英語でいう付帯状況。小君を牛車の後部に乗せた状態で。この日、来る時は小君の車であったが、帰る時は光の牛車に替わった。小君の車に乗ったのは小君の策略の一つであり、帰りに光の牛車になったのは、これが通常の乗り物だからである。「二条院」は光の自邸。左大臣家のものではない。

幼かりけり 03-085

小君の策略に対して。

あはめ 03-085

難する。

かの人の心 03-085

空蝉の心根。性格の悪さを爪弾きする。

爪弾き 03-085

親指の腹に、人差し指か中指の爪先をかけて床を弾く動作で、不快感をあらわす。

いとほしうて 03-086

自分の策略の拙さに対して罪を感じること。気の毒といった第三者の立場の感情ではない。

身も憂く思ひ果てぬ 03-087

「今宵なむ初めて憂しと世を思ひ知りぬれば/03-001」が光の脳裏の底にあるのだろう、この世ばかりかこの身までが疎ましいものに成り果てた。

よそにても 03-087

直接逢わずに手紙や小君を介する伝言でも。

なつかしき答へ 03-087

光をなつかしむ答えとも、光が読んで相手をなつかしく思う答えとも読めるが、「ばかり」とあって、最低限の願望だから後者にとる方が文脈に添うであろう。「なつかしき」は懐旧の思いでなく、慕わしいの意味。すなわち愛情がこもる。

伊予介に劣りける身こそ 03-087

後には省略がある。省略が成り立つのは、省いても意味が補えるからである。省略のパターンは二つで、前の文章の繰り返しを省く場合と、決り文句めいていて誰でもわかる場合である。繰り返しの省略と考えると、慕わしく思わせる返事はしないのであろうとなり、当然の省略なら、あわれである、とでもなる。

心づきなし 03-087

愛情がわかない、気に入らない。

ありつる小袿 03-088

空蝉が脱ぎ捨てて逃げた薄衣でできた羽織。

語らひ 03-089

味方に引き入れるために言葉を弄すること。あるいは、男女間で性的行為を言う。ここはその両方の意味をかける。

まめやかに 03-090

「まめ」のように。「まめ」は誠実、まじめ。

さしはへたる… 03-092

要するに、ちゃんと出すつもりで書いた手紙でなく、慰みに書いた和歌であることを言う。 「さしはへたる」は目的のはっきりした。

畳紙 03-092

懐紙で、鼻紙にも使い、和歌を詠むにも使う。

空蝉 03-093

蝉の抜け殻の意味と蝉自身の意味とあり、ここは後者。はかないこの世の生の意としての現身のイメージもふくむ。

身をかへ 03-093

さなぎから成虫に変態する。

てけり 03-093

完了の「つ」と過去の「けり」。

引き入れて 03-093

「引き入れて」とあるのは、光が出すつもりもなく棄てる気でいた手習いの歌を、小君の判断で、空蝉に見せることにしたということが言外に語られている。

かの人も… 03-094

物語から外れた説明である(物語には出来事を時間を追って語るナレータ―部分(語り)と、物語の時間に縛られない説明の部分とに分かれる)。空蝉への思いを歌った和歌のあとに続けて、「かの人もいかに思ふらん」と光が思いやったのではない。もし続けて思いやったのであれば、空蝉には手紙を出すつもりでなく和歌を書いたのに(結果として空蝉に渡ったことと混乱してはならない)、軒端荻へは手紙を出そうかどうしようかと考えたことになり、主である空蝉と従である軒端荻との扱いが転倒してしまう。ここは語りの部分ではなく、説明の部分と考える。次の一文も説明である。

人香 03-095

空蝉が焚き染めて移り香としているお香のかおりと、空蝉自身の体臭がまざったもの。女性フェロモンとして働き、性的な興奮をもよおさせる。

かしこ 03-096

紀伊邸。

いみじくのたまふ 03-096

「いみじ」は連用形なので、程度の甚だしさと考えてしまうが、甚だしく言うでは意味をなさないので、「のたまふ」の内容が「いみじ」であると考えるよりない。直接話法ならば「いみじとのたまふ」と書くところ。後出の「左右に苦しく思へど」の「苦しく」も「思ふ」の内容である。このように連用形が動作内容となる場合がある。

あさましかりしにとかう紛らはしても人の思ひけむことさりどころなきに 03-097

なかなか難解である。ポイントは三つ。「あさましかりしに」の「に」は順接(~なので)か逆接(けれども)か。「紛らはし」は光の手を逃れたことをいうのか、ことが発覚しないようつくろったことをさすのか。「人の思ひけむこと」の内容は何か。不明な個所がふたつ以上ある場合は、確定できるものから順におさえてゆくのが常套手段。この場合、「紛らはし」は「ても」がつくことで、「避りどころなき」と対比関係にあることが知れる。従って、「紛らはし」は光の気を軒端荻の方にそらせることで、うまく切りぬけたことを指すのではなく、なんとかことが発覚しないように取り繕ったことを意味する。続いて「に」の用法であるが、「に」が順接であれば、「避りどころなき」にかかるしかない。あさましい出来事であったので人の想像を避けられないでは、原因と結果に齟齬がある。ひどいことだとショックを受けたのになんとか誤魔化したと考える方が自然である。「に」は逆接。女房たちが想像した内容について。軒端荻を身代わりに立てることで、誤魔化しおおせたと空蝉が想像しうるのは、恋仲は軒端荻と光との間であって、自分とは不倫関係にないということ。しかし、状況から考え、光が忍びこんだ先は空蝉であって、軒端荻でないことは知れる。すなわち、女房たちの想像は、二人はできていて、空蝉が光を呼び入れたのだという内容である。

かつは 03-097

二つの矛盾した事柄が同時に並存すること。「いとなむわりなき」と思う一方で、別の思いがある。

左右 03-098

光に対しても空蝉に対しても。

かのもぬけをいかに 03-100

光がどう思うかとの想像。「伊勢をの海人のしほたれて」は「鈴鹿山伊勢をの海人の捨て衣しほなれたりと人や見るらむ(鈴鹿山の伊勢の海人が脱ぎ捨てた衣は、着なれて臭いがついていると人が思うであろうか)」(後撰・恋三)を下に敷く。

ただならず 03-100

「乱れて」にかかる。

乱れて 03-100

やはりストップモーション(前回説明)であり、次の軒端荻に対する挿話をはさんで、空蝉の物語に戻る。

西の君も 03-101

「いとよろづに乱れて」を受けて、「ものあはれなるべし」(ひどく恋しく思うだろう)で帰結する。これはまた「つれなき人も」と呼応し、これも「忍びがたければ」にかかってゆく。後の「つれなき人も」と呼応する。

わたりたまひにけり 03-101

なぜ敬語がつくのか不審とされている。敬語がつくことで、貴人らしく楚々として戻ってゆく姿はイメージされるが、「もの恥づかしき心地して」とあるので、実際には貴人らしく戻っていったわけではない。従って、貴人らしい態度をとっていることへの話者の揶揄という説は疑問である。光と交わることで話者よりも相対的に目上になったとの説は考慮に値するが、空蝉のように敬語が使われつづけることがない点に疑問が残る。一夜だけの関係の場合、最初だけ敬語を使うという暗黙のルールでもあるのだろうか。「渡る」という往来発着にかかわる動詞は敬語を呼びこみやすいのかなどと想像してみるが、不明である。

胸のみ塞がれ 03-103

先に小君に手紙をたくすようなことを光が行ったからである。

あさまし 03-104

そのように判断したのは、 光が本気でないと見ぬいたからである。

されたる心 03-104

世慣れた心。

ものあはれ 03-104

とても恋しい。

つれなき人もさこそしづむれ 03-105

「さこそしづむれ」は「忍びがたけれ」にかかる(こそ+已然形が後のフレーズと逆接でつながる)。「あらぬ気色を」は「忍びがたけれ」にかかる(動詞の補語)。「ありしながらの……ならねど」は挿入句。「つれなき」の意味は素っ気無い。冷淡。

しづむ 03-105

感情を静めた状態。

あさはか 03-105

浮気。

畳紙 03-105

懐紙。光が手習いとして書いた和歌の紙。

片つ方 03-105

端の方。

空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな 03-105

「の」の繰り返しと、「木がくれて」内の「K」音のひびきが美しい歌である。「空蝉」も「露」もはかなさの象徴。この歌がなければ、妻の身で好きな人がいても身をひいてしまうという、ひどく現実的な小説世界の話になってしまうが、この和歌があるおかげで、一帖全体が、象徴詩風の味わいとして残る。

2020-10-11

Posted by 管理者