03空蝉02 人違い

2020-05-24

空蝉 原文 03-037/03-062

037見たまふかぎりの人は うちとけたる世なく ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ かくうちとけたる人のありさまかいま見などは まだしたまはざりつることなれば 何心もなうさやかなるはいとほしながら 久しう見たまはまほしきに 小君出で来る心地すれば やをら出でたまひぬ 038渡殿の戸口に寄りゐたまへり 039いとかたじけなしと思ひて 例ならぬ人はべりて え近うも寄りはべらず 040さて 今宵もや帰してむとする いとあさましう からうこそあべけれとのたまへば 041などてか あなたに帰りはべりなば たばかりはべりなむと聞こゆ 042さもなびかしつべき気色にこそはあらめ 童なれど ものの心ばへ 人の気色見つべくしづまれるをと 思すなりけり 043碁打ち果てつるにやあらむ うちそよめく心地して 人びとあかるるけはひなどすなり 044若君はいづくにおはしますならむ この御格子は鎖してむとて 鳴らすなり 045静まりぬなり 入りて さらば たばかれとのたまふ 046この子も いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば 言ひあはせむ方なくて 人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり 047紀伊守の妹もこなたにあるか 我にかいま見せさせよ とのたまへど いかでか さははべらむ 格子には几帳添へてはべりと聞こゆ 048さかし されどもをかしく思せど 見つとは知らせじ いとほし と思して 夜更くることの心もとなさをのたまふ 049こたみは妻戸を叩きて入る 皆人びと静まり寝にけり 050この障子口に まろは寝たらむ 風吹きとほせとて 畳広げて臥す 051御達 東の廂にいとあまた寝たるべし 052戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば とばかり空寝して 灯明かき方に屏風を広げて 影ほのかなるに やをら入れたてまつる 053いかにぞ をこがましきこともこそと思すに いとつつましけれど 導くままに 母屋の几帳の帷子引き上げて いとやをら入りたまふとすれど 皆静まれる夜の 御衣のけはひやはらかなるしも いとしるかりけり 054女は さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど あやしく夢のやうなることを 心に離るる折なきころにて 心とけたる寝だに寝られずなむ 昼はながめ 夜は寝覚めがちなれば 春ならぬ木の芽も いとなく嘆かしきに 碁打ちつる君 今宵は こなたにと 今めかしくうち語らひて 寝にけり 055若き人は 何心なくいとようまどろみたるべし 056かかるけはひの いと香ばしくうち匂ふに 顔をもたげたるに 単衣うち掛けたる几帳の隙間に 暗けれど うち身じろき寄るけはひ いとしるし 057あさましくおぼえて ともかくも思ひ分かれず やをら起き出でて 生絹なる単衣を一つ着て すべり出でにけり 058君は入りたまひて ただひとり臥したるを心やすく思す 059床の下に二人ばかりぞ臥したる 060衣を押しやりて寄りたまへるに ありしけはひよりは ものものしくおぼゆれど 思ほしうも寄らずかし 061いぎたなきさまなどぞ あやしく変はりて やうやう見あらはしたまひて あさましく心やましけれど 人違へとたどりて見えむも をこがましく あやしと思ふべし 本意の人を尋ね寄らむも かばかり逃るる心あめれば かひなう をこにこそ思はめと思す 062かのをかしかりつる灯影ならば いかがはせむに思しなるも 悪ろき御心浅さなめりかし

空蝉 原文かな 03-037/03-062

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

みたまふかぎりのひとは うちとけたるよなく ひきつくろひそばめたるうはべをのみこそみたまへ かくうちとけたるひとのありさまかいまみなどは まだしたまはざりつることなれば なにごころもなうさやかなるはいとほしながら ひさしうみたまはまほしきに こぎみいでくるここちすれば やをらいでたまひぬ わたどののとぐちによりゐたまへり いとかたじけなしとおもひて れいならぬひとはべりて えちかうもよりはべらず さて こよひもやかへしてむとする いとあさましう からうこそあべけれとのたまへば などてか あなたにかへりはべりなば たばかりはべりなむ ときこゆ さもなびかしつべきけしきにこそはあらめ わらはなれど もののこころばへ ひとのけしきみつべくしづまれるをと おぼすなりけり ごうちはてつるにやあらむ うち-そよめくここちして ひとびとあかるるけはひなどすなり わか-ぎみはいづくにおはしますならむ このみかうしはさしてむ とて ならすなり しづまりぬなり いりて さらば たばかれ とのたまふ このこも いもうとのみこころはたわむところなくまめだちたれば いひあはせむかたなくて ひとずくなならむをりにいれたてまつらむとおもふなりけり き-の-かみのいもうともこなたにあるか われにかいまみせさせよ とのたまへど いかでか さははべらむ かうしにはきちやうそへてはべり ときこゆ さかし されどもをかしくおぼせど みつとはしらせじ いとほしとおぼして よふくることのこころもとなさをのたまふ こたみはつまどをたたきている みなひとびとしづまりねにけり このさうじ-ぐちに まろはねたらむ かぜふきとほせ とて たたみひろげてふす ごたち ひむがしのひさしにいとあまたねたるべし とはなちつるわらはべもそなたにいりてふしぬれば とばかりそらねして ひあかきかたにびやうぶをひろげて かげほのかなるに やをらいれたてまつる いかにぞ をこがましきこともこそ とおぼすに いとつつましけれど みちびくままに もやのきちやうのかたびらひきあげて いとやをらいりたまふとすれど みなしづまれるよの おほむ-ぞのけはひやわらかなるしも いとしるかりけり をむなは さこそわすれたまふをうれしきにおもひなせど あやしくゆめのやうなることを こころにはなるるをりなきころにて こころとけたるいだにねられずなむ ひるはながめ よるはねざめ-がちなれば はるならぬこのめも いとなくなげかしきに ごうちつるきみ こよひは こなたにと いまめかしくうち-かたらひて ねにけり わかきひとは なにごころなくいとようまどろみたるべし かかるけはひの いとかうばしくうち-にほふに かほをもたげたるに ひとへうち-かけたるきちやうのすきまに くらけれど うち-みじろきよるけはひ いとしるし あさましくおぼエて ともかくもおもひわかれず やをらおきいでて すずしなるひとへをひとつきて すべりいでにけり きみはいりたまひて ただひとりふしたるをこころやすくおぼす ゆかのしもに ふたりばかりぞふしたる きぬをおしやりてよりたまへるに ありしけはひよりは ものものしくおぼゆれど おもほしうもよらずかし いぎたなきさまなどぞ あやしくかはりて やうやうみあらはしたまひて あさましくこころやましけれど ひとたがへとたどりてみエむも をこがましく あやしとおもふべし ほいのひとをたづねよらむも かばかりのがるるこころあめれば かひなう をこにこそおもはめ とおぼす かのをかしかりつるほかげならば いかがはせむにおぼしなるも わろきみこころあささなめりかし

空蝉 現代語訳 03-037/03-062

君がお付き合いなさっている女性はみな、打ち解けて過ごす時がなく、つくろい立てた、よそ行きの横顔ばかりご覧になっておいでだが、このように打ち解けた女の様を覗き見することなどはこれまでなされたためしのないことなので、何の用心もなく丸見えになのは心苦しいことながら、いつまでも見ていたいとお望みのところ、小君が出てくる感じがしたので、そっとその場をお立ちになった。
君は渡殿の戸口に寄りかかっておられる。小君はまことに畏れ多いと思いながら、
「いつもいない人がおられて、近寄ることもできません」
「じゃあ、今夜もまた追いかえするつもりなの。あまりにひどい、酷なしうちだ」とおっしゃると、
「どうしてそのようにいたしましょう。その人が向こうへ戻られたら、何とかはかってみましょう」と申し上げる。
いかにもたやすくこちらの意に添わせられるという顔をしているが、どうだろう。幼いながら事のなりゆきを見極め人の表情を読み取る、冷静さはあるのだがと、御憂慮はつづくのであった。
碁を打ち終わったのであろうか、さらさらと衣ずれの音がふとしたかと思うと、人々が散って行く気配がするようだ。
「若君はどちらにおいででしょうか。この御格子を閉じますよ」と言って、ガタガタ格子を下ろす音がする。
「寝静まったようだな。入っていって、言っていた通り、ことをはかれ」とおっしゃる。
この子にしても、姉の御心はなびく気配がなく見るからにお堅い感じなので、話し合いの余地がなくて、結局、人少なになった折りに君をお入れ申そうと思うのであった。
「紀伊守の妹もこちらにいるのか。わたしに覗かせとくれ」とおっしゃるが、
「どうしてそのようにいたせましょう。格子のすぐ後ろに几帳が添えてあるのですから」とお答えする。
そうであろうな、けれどすでに見たのだからと軒端荻への興味をつのらせになるが、見たとは知らせまい、ほかの女に興味を移したことを、空蝉へ申し訳なくお感じになり、夜更けにはどういうことになっていようかとご心配を口にされる。
小君は今度は妻戸を叩いて中へ入る。女房たちはみな静かに寝ていたようだ。
「この襖の入り口のとこで寝とこう。風が通るように戸を開けててよ」と、しとねをひろげて横になる。女房たちは東の廂に大勢で寝ているらしい。妻戸を開けておいてくれた女童(メノワラワ)も、そちらへ行って寝てしまったので、しばらく寝たふりをした後、灯の明るい方に屏風を広げ、火影がほのかになったところに、そっと君を招じ入れてさしあげた。
中の様子はどんなだろう。見つかってはみっともないことになると、ご心配なさるにつけ、とても用心なさるが、小君の導くままに、母屋の几帳の帷子を巻き上げて、そっと静かに中へ入ろうとなさるが、皆寝静まっておいでの夜のこと、君の召し物は当たりのやわらかい高貴な香りを発しており、それだけでも、闖入者は明らかであったのだ。
女は、あのように消息もないままお忘れなのをうれしいことと努めて思おうとしているが、理解を超えた夢のような逢瀬を、つかの間も心に離れる時のない頃であったので、心やすらかな眠りさえ訪れず、昼は思いにふけり、夜は目覚めがちなため、春の木の芽ならぬこの目も休みなく嘆かわしい日々なのに、碁を戦わせた女君は、今夜はこちらでと、陽気におしゃべりをして寝てしまった。
若い方は何の心配もなく、とてもぐっすりと眠っているようだ。あの、誰とすぐにわかる高貴な香りが、ふととてもかぐわしく匂いかかるので、頭をもちあげたところ、ひとへの帷子をうちかけた几帳の隙間より、暗いながら、つかつかと人がにじり寄って来る気配が感じられ、女には誰れとすぐに知れる。あまりのことに、何ともかとも思い分からず、そっと起き直り、生絹(スズシ)の単衣を身にひとつ着て、すべるように母屋を抜け出した。
君はお入りになって、女がただひとり臥している様子にほっとなさる。北廂にも二人ばかり女房が寝ている。上にかけている衾(フスマ)を押しのけて、寄り添われると、以前の感じより柄が大きいような気になられるが、別人であるとは思いよられることもないのですね。眠りこけている様子などなぜかしらおも変わりして、しだいに正体がお分かりになって、なんて女だと空蝉に対して忌々しく苛立たれるが、人違いであったと勘付いて、軒端荻からそう見られるのはみっともなく、人格を疑うであろうし、もともとの狙いである意中の人を尋ね当てようにも、こうまで逃れる気が強ければ、探し甲斐もなく、間抜けな男と思うであろうとお考えになる。これがあの火影の下で見た美しい女であれば、どうしようか、抱くよりほかにしようがないではないかというお気持ちになられるのも、よくない浅慮でしょうね。

空蝉 注釈 03-037/03-062

見たまふかぎりの人 03-037

肉体関係にあるすべての女性。具体的には葵の上、藤壺、六条御息所などの上流貴族。

世 03-037

時間。

側めたる 03-037

横向きの姿勢。男女の関係にあっても上流階級の女性は、相手の男に正面から顔を見せない。

かいま見 03-037

覗き見。男が女を見初めるもっともダイレクトな手立て。

何心もなう 03-037

見られている方になんの用心もなく。

いとほし 03-037

相手に対して悪いことをした・しているという心の咎め。

やをら 03-037

そっと。

渡殿の戸口 03-038

光が最初にいた妻戸は、簀子をはさみ、渡殿を通って隣の建物である対の屋につづく。その渡殿の入り口は板戸になっている。

かたじけなし 03-039

はかりごとがうまくいかないことへの恐縮した気持ち。

例ならぬ人 03-039

軒端荻。

帰してむ 03-040

主体も小君でなく空蝉。

いとあさましうからう 03-040

はかりごとに失敗した小君に対してではなく、空蝉に対してである。

などてか 03-041

どうしてという反語。どうして姉があなたを追い返すようなことを私がさせましょうかとの意味である。私が返したりいたしましょうか、ではない。

あなたに 03-041

軒端荻の住処である西の対に。

たばかり 03-041

通例達成しがたいことをやりとげるために、いろいろと手立てを考えること。

さも 03-042

言葉通り容易に。いかにもたやすく。下に否定がつづく譲歩構文に多く用いられる。「こそ……已然形」も下に逆接的につづく構文で用いられる。それが組み合わされているのだが、下の文章が省略されている点がみそ。諸注はこれを無視し、小君を信頼してまかせたと考えるが、空蝉には何度も手痛い目に合わされた光である。小君が工夫すると口でいったところで、どれだけ当てになろう。たしかに判断力はあるのだが、と憂慮がやまないのがその次の文。

ものの心ばへ 03-042

恋の手引き役であっても。「心」は中心。「ばへ」は、傾向・動き。事態がどういう変化するか。

見つべく 03-042

見極め読み取る能力がある。

しづまれる 03-042

落ち着きがある。冷静沈着である。

を 03-042

諸注のように、~なのでと理由ととらず、~なのだがという逆接の接続詞と考える。

思す 03-042

案じる。

なりけり 03-042

話者が感情移入した際に用いられる。

そよめく 03-043

そよそよと物と物が軽く触れ合うこと。ここは女性が立ちあがる際に起こる衣擦れの音である。

あかるる 03-043

人々が散らばる。

すなり 03-043

「なり」は聴覚判断。

若君 03-044

小君。格子を下ろせば、中に入れなくなる。いっしょに寝るなら、早くおいでなさいということで、小君を呼んでいるのである。

鎖してむ 03-044

掛金をかける。

鳴らすなり 03-044

格子を下ろし、掛金をかける時の音。「なり」は聴覚判断。

さらば 03-045

「さらば」は「あなたに帰りはべりなばたばかりはべりなむ/03-041」と言った発言を受ける。そう言うなら、そう言うことなら。

いもうと 03-046

姉をも妹をも指す。空蝉は年上なので姉。

たわむ 03-046

貞操をゆるめる。

まめだち 03-046

いかにももの堅い感じ。

言ひあはせむ 03-046

話し合って折りあいをみつける。

紀伊守の妹 03-047

軒端荻。紀伊守より年下とされており、妹にあたる。

いかでか 03-047

反語。

さははべらむ 03-047

かいま見をしていただけましょう。

添へて 03-047

すぐ側に並べる。

さかし 03-048

几帳でのぞけられないだろうとの小君の発言を受ける。そうであろうな、との自問。

されども 03-048

小君はできないと言うが、すでに見てしまったと頭の中ではつづける。

をかしく 03-048

小君が知らないことに対して面白く感じるのではない。「をかし」は源氏物語では女性への興味に用いられるのが基本。ここでは、のぞきみしたことが思い起こされ、軒端荻へ興味を持つことを意味する。しかし、見たとは言えない。

いとほし 03-048

申し訳なさを底に据えた愛情、空蝉に対するもの。これは、軒端荻に興味を移したことからくる。直接的には、覗き見をしたことを指すのか、小君に覗き見をさせてくれと頼んだことを指すのか、覗き見したことから今軒端荻に気持ちを移したこと、すなわち「をかしく」感じたことを指すのかは不明である。最後のものを主軸にそれらが全体が作用して、申し訳なく感じたのであろう。

夜更くること 03-048

これは夜がふけること自体を指すのではなく、夜がふけて起こる事件、すなわち、空蝉への夜這いがどうなるかが気がかりなのである。中古文の「こと」は現代語の形式名詞としての「こと」(「~すること」という時の「こと」)ではなく、出来事・事件など具体的な事柄を意味すると考えてよい。

こたみ 03-049

今回。前回は、光を妻戸に立たせ、南の隅の格子を叩いて、中に入ったのであった。

障子口 03-049

母屋と廂を隔てる襖障子の入り口。

風吹きとほせ 03-050

光が入れるように、暑さにかこつけ、妻戸を閉めず、開けっぱなしにしておけということ。最初、妻戸には鍵がかかっており、小君はそれをノックして鍵を開けてもらい、中に入った。妻戸を開けてくれたのは、後に出る「童」で、それが戸を閉めようとしたので、小君が制止したのであろう。「障子」の方は自分で開けておいただろうと思われる。「風吹くと人には言ひて戸はささじあはむと君にいひてしものを(風を入れたいからとの理由で、戸はそのまま開け放しておこう、逢いたいとあなたに言ったはずなのにまだ来ないから)」(古今六帖・二)を下に敷く。

御達 03-051

女房たち。

寝たるべし 03-051

小君の立場に立ち、小君からは直接見えないが、そのように感じられるという判断を示す。

童 03-052

女童。

そなた 03-052

東の廂。

とばかり 03-052

少しの間。

やをら 03-052

そっと。

いかにぞ 03-053

「いかにぞあらむ」の略。部屋の中はどういう具合かとの心配。

をこがましきこと 03-053

ばかな目にあう、すなわち、女に逃げられるとの説と、夜這いが見つかり、みっともない姿を人目にさらすこととの説とがある。「をこがまし」は自分が人の目からみて愚かに見られる、笑いものになることであり、自分が馬鹿な想いをすることではないので、ここは後者と考えるしかない。

つつましけれ 03-053

用心する。

帷子 03-053

几帳のカーテンの部分。

御衣のけはひ 03-053

諸注は「衣擦れの音」と考える。その方が、「みなしづまる」「やはらか」などこの文としてはよくマッチするが、すぐ後に「かかるけはひのいとかうばしくうち匂ふに」と、言いかえられていることを考えあわせると、この「けはひ」は音に関するものではなく、匂いに関するものである。なぜなら、「かかるけはひ」は「御衣のけはひ」を受けるのではなく、「いとしるかりける御衣のけはひ」を受ける。これは、「御衣のけはひ」のように文意が不特定ものではない。不特定であれば、音から匂いに意味を変えても文意を損ねないが、これはそうでなく、源氏とわかる気配と意味が特定されているので、音から匂いに意味を変えることは、考えない方が自然であろう。「やはらかなる」は鼻につんとこない、ふんわりとした匂い。まだ遠いので、匂いたつような香りではないが、遠くからでも匂ってくるような匂いであり、その点で、高貴な人である光源氏が来たことが知れるのである。なお、匂い、明るい時には、他の刺激に消されてわかりにくいものであるが、暗がりでは非常に感覚が鋭敏になるものである。そのあたりが、「夜の」に表現されていよう。

しるかりけり 03-053

香りの正体が明らかであったの意味。ここは、誰か(空蝉や女房たち)に知られたという、物語の具体的事柄ではなく、知ろうと思えば、光とすぐわかる匂いであるという、一般化された内容であって、まだ誰にも気づかれていないのである。空蝉が気づくのはこの後であり、時間があっちこっちに飛んでいるわけではない。

さこそ 03-054

この帖の冒頭部分「御消息も絶えてなし/03-006」を受ける。

思ひなせ 03-054

そうは思っていないが思おうと努力すること。

あやしく 03-054

解釈できない恐れ・不安・すごさなど、理解を超えているものに使われる。「あやし」は理解できない不安はあるが、かならずしも否定要素とは限らない。現代の心理学風に解釈すれば、空蝉の本心は光を求めているが、理性が歯止めをかけるので、それがコンプレックスとなって、自分の気持ちが理解できないのである。

夢のやうなること 03-054

夢のように過ぎ去った逢瀬。これも自分ではうまく把握できないながら、肯定すべき要素として働いている。

心とけたる寝だに寝られず 03-054

「君恋ふる涙の凍る冬の夜は心とけたるいやは寝らるる(君が来なくて恋しく泣きはらす涙も凍ってしまうこの冬の夜は、どうしてぐすっりと寝られようか)」(拾遺・恋二)を下に敷く。

ながめ 03-054

ぼんやりともの思いをしてすごす。折口信夫氏によれば、性的な欲求不満だそうである。

春ならぬ木の芽も 03-054

「夜はさめ昼はながめに暮らされて春はこのめもいとなかりける(夜は目がさめ、昼はぼんやりと時がたち、恋の季節である春は、木の芽がのびるのに休む暇がないように、私のこの目も休む暇がない)」(一条摂政御集)を下に敷く。

いとなく 03-054

いとまなしの略。

こなたに 03-054

軒端荻の住まいである西の対に戻らず、今夜は空蝉といっしょに、この母屋で過ごすということ。

今めかしく 03-054

現代的で陽気でからっとした感じ。空蝉のむっつりと閉じこもった湿潤な感じと対比される。

何心なく 03-055

単に無邪気にとの意味ではなく、空蝉のような眠られないような要因はなくと、やはり文脈上対比されている。

かかるけはひ 03-056

「い」は「き」の音便変化。「おぼめく」はわからない振りをしてはぐらかす。「人違へにこそはべるめれ/02-254」と言った空蝉の言葉を受けた表現。

単衣 03-056

几帳のカーテン部分である帷子(カタビラ)。

身じろき寄る 03-056

にじり寄る。

いとしるし 03-056

人が近寄ってくるのがはっきりとわかったということではない。なぜなら、次の「あさまし」は、相手の思ってもみない行動に驚きあきれて非難する気持ちを言うのであり、もし夜中に誰だかわからない人が入ってきたら、恐怖を覚えるのであって、相手を非難したりしない。相手が誰かわかった場合、その非常識な行動に対して非難するのである。従って、「いとしるし」は相手が光だとはっきりとわかったということ。それは「うちみじろき寄る」という動作から判断したのではなく、この文に出てくる二つの「けはひ」からである。前の「けはひ」は明らかに匂いである。後の「けはひ」は、匂いや衣擦れの音やらいろいろな要素が総合されていよう。

やをら 03-057

そっと。

生絹 03-057

夏の衣服。

床 03-059

板敷きの場所。ここは母屋の外にある廂をさすと考えられている。

下 03-059

下手の意味で、特定できないが、『帚木』でもそうであったように、北と考えてよいであろう。

衣 03-060

今のかけ布団にあたる、衾。

ありしけはひ 03-060

最初の出会いの夜。

ものものしく 03-060

大柄。

思ほしうも寄らずかし 03-060

相手が空蝉でないことを思いもよらない。

かし 03-060

聞き手への確認。

いぎたなきさま 03-061

陶然と眠りこけている様子。

やうやう 03-061

次第に。

見あらはし 03-061

不明であったことを発見する、つまり、相手が空蝉でないことに気づく。

あさましく心やましけれ 03-061

ともに空蝉に対する感情。「あさまし」は相手をひどいと思う感情で、「心やまし」は出しぬかれて忌々しく思う気持ち。

たどりて見えむ 03-061

軒端荻が人違いだと勘付くこと、光が気づくのではない。光がそう見られること。敬語がないのは、光の心中語であるから。

をこがましく 03-061

物笑いになること。

あやしと思ふべし 03-061

具体的には、夜這いをかけられ肉体関係まで結んだあとに、人違いであったと知れば、ただの女好きであると光の人格を疑うであろうということ。

本意 03-061

もともとの願い。

をこに 03-061

人々が散らばる。

をかしかりつる火影 03-062

「灯近うともしたり/03-018」とあり、その灯下で「をかしげなる人と見えたり/03-025」とあった。

いかがはせむ 03-062

どうしようか、どうしようもないという他に方法がない時に、捨て鉢に決心する時の言葉。ここで何を決心したかは書かれていないが、もちろん、この女と契ろうという決心。ただし、この場合は契らねばならない必然性はないので、多分に自分への言い訳めいている。

悪ろき御心浅さ 03-062

心浅さに形容詞わろしがついたもの。心浅さは浅慮。

2020-05-24

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