いかまほしきはいのちなりけり いかまほしきは命なりけり 行かまほしきは命なりけり 01-031
諸注ともに上の句に対しては、さしたる違いはない。「限り」は寿命。「別るる道」は内裏をあとにすることではなく、死に別れる道。生死の分岐点に立っているとの認識である。「に」は下の句との関係だから、そちらを決定しないと解釈はできない。問題は下の句である。
「いかまほしきは命なりけり」について。「AはBなりけり」は和歌の定型句(源氏物語の歌の使用例十首)で、ああAとはBのことだったのかと、認識を新たにする時の表現である。
Aは既知情報、Bが今再認識した新情報。もちろん感動の核はBにある。この文構造を無視した解釈は間違いであるが、ほとんどの解釈はAを歌の核にしている。
「いかまほしき」について。この言葉は、帝の言葉「うち捨ててはえ行きやらじ」との訴えに対する桐壺の答えであることは自明であろう。「いかまほしき」を「生きたいのです」とほとんどの注釈が受け取るが、和歌の技法として「行く」に「生く」を掛けた例はない。第一、「私を置いて行ったりしないでしょ」との訴えに、「生きたいのです」と答えたのでは支離滅裂である。「いかまほしき」は「行きたいのは」「行きたいと願うのは」と素直に読む以外ないのだ。であれば、この歌の眼目は、「命なりけり」をどう解釈するかの一点に尽きることになる。
言葉を補って、訳してみよう。
「今生ではこれが限りなのですから、あなたと死に別れる道に立つわたしは、あなたにまけないくらい悲しいのです、遅れ先立たないと口にした約束は忘れるものですか、ですが、死出の道を歩みたがっているのはこの命なんです。わたくしだってかなうことなら、そばを離れたくありません」
この歌の魅力については、「魂のありか」を参照。
限りとて 別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり いとかく思ひたまへましかばと
生不生は運命が決するもの、別れる道に来た今こうもわたしは悲しいのに、死出の旅を目指すのはこのはかない命なのです。お約束通りいつまでも一緒にいたいと心からそう願うことができましたならと。