のわきたちて のわきだちて 野分立ちて 野分立つ 野分だつ 01-050
「野分たつ」と「野分だつ」の二説がある。清音なら野分が吹いての意味。過去の助動詞が使われていないからといって、現在吹いている必要はない。夕暮になる前に吹けば、今朝でもよく数日前でもかまわない。現在形がおおう範囲は広い。これに対して、濁音なら、野分のような風が吹いて、吹き始めたのが「にはかに肌寒き」の直前になる。「たつ」は今目の前で立ったという変化と、すでに立って終わったあとの状態の両方を意味するが、「だつ」は今目の前で起こった変化の感覚が強い。もうひとつは、清音は野分そのもの、濁音は野分に似たものとの違いがある。ここのみで、野分だったのか、野分風であったのか論じても意味がない。しかし、後に「野分にいとど荒れたる心地」とあって、いつとは判明しないが、最近野分が吹いたことは明白に述べられている。それとは別に、今また野分ふうの風を想定する理由はないと思う。
野分は劇的な変化を呼び込む仕掛けとして、源氏物語でよく用いられる。亡き桐壺の更衣を思い、桐壺の末期の歌に返歌を詠む場面がクライマックスで、そのプレリュードとして命婦が使いに出る。長恨歌の道士に見立てられた命婦が、月は美しく地は野分に荒れた幻想的な風景こそが場面に相応しい。この帝の歌により、物語が劇的に変化することは歌の解釈で述べる。
野分立ちてにはかに肌寒き夕暮のほど 常よりも思し出づること多くて 靫負命婦といふを遣はす
野分が吹きにわかに肌寒さを感じる夕暮れ時、いつにもましてあのお方のことを思い出されることが多くて、帝は靫負命婦という女房をお遣わしになる。