序メモ
古文には句読点がない。従って、本サイトでも句読点を用いない。句読点・句読法とは、文を基本単位とする文書構成法であり、主語述語であれ修飾関係であれ、文をまたいだつながりを許さない。文の作成・読解の規範に過ぎないが、身になじむあまりに、この思考の枠組みを捨て去ることができなくなっている。確かに、源氏物語の長ったらしい文章に、句読点を付せば、確かに読みやすくはなるが、代償は大きい。語句の関連は寸断され、もはや古文とも現代文ともつかぬ何物かに変じてしまうのだ。
句読法を捨てる代わりに、古文特有の文章構成法に目を向ける。文章の構造を正しく分析することを第一の目標とする。意味の取り方は人によって振れ幅があるが、構造分析はある程度同意を得やすい。つまり、共同作業ができる上に、成果を蓄積することも可能なのだ。
本サイトは準備篇と実践篇に分かれる。準備篇は適当な短さの文章を徹底的に考えて読むが、その箇所だけで文意は完結しないので、前後の文章も随時検討する必要が出て来る。実践篇ではまとまった文書を味わう。なるべくならきちんと読む姿勢を身につけてもらいたいと思い、細かい議論も行ったが、大まかにでも構造を理解することが大切である。煩瑣な部分は、どんどん飛ばしていただきたい。桐壺を読み終える頃には、どんな文章でも攻め所が見えて来よう。それでも、雨夜の品定めは、語り手ひとつとっても問題は山積であろう。そこを乗り越え、物語を愉しむことに専念していただきたい。時間が許す限り、よりよいサイトにしてゆきたいと願っています。
現代文と古文の最大の違いは句読法の有無にある。句読法とは、文を基本単位とする文章構成法である。具体的には、主語述語関係や修飾語関係を一文内に納めるという単純な規則である。ただ、あまりに身になじんでしまっているため、これが〈近現代の〉〈書き言葉にのみ見られる〉「思考・読解パターン」であることを忘れてしまう。普段の何気ない会話や、物事を考えている最中などは、句読法の束縛を受けない。それでも、これらを文章化する際には句読法という枠組みに依存してしまう。そうしないと読解もままならなくなるからだ。ことほど左様に、現代人にとって、句読法と文章読解とは切り離せない関係にあるが、これを古文に押し付けるには無理がある。
殊に源氏物語は句読法から遠い。語りという話し言葉がベースにある。語り手が作中人物の意識に入り込む。地の文と草子地との境目があいまいである。会話や思惟は現代にあっても句読法となじまないことは上で見た通りだ。源氏物語は数ある古文の中でも、現代人の読解パターンの極北に位置しているのだ。源氏物語の延々と続く文章に、句読点を付せば、読みやすくはなるであろう。しかし、代償は大きい。句読法は古文特有の文章構成や語句の関連を引き裂き、古文を現代文化した何物かに変えてしまう。最早、そこに古文の息吹はない。
次にテキストに臨む態度について。ここでは最初に文章構造を考える。最初に意味ありきという態度は取らない。古文は理解できないことを前提にする。理解できないものをどうにか理解しようとする手段として、先ず、文章構造を考える、文脈を考える、語句の本義に戻って考えるなどなど、テキストを行きつ戻りつした上で、意味が浮かび上がるのを待つ。これが理想。本サイトを「正しく読む」とした理由は、文意にあるのではない。構造理解が正しければ、正しく読めているだろうというに過ぎない。なるべくきちんと読む姿勢を身につけてもらうために、細かい議論も行ったが、大筋の構造を理解することが一番大切である。煩瑣な部分は、必要に応じて飛ばし読みしていただきたい。
では、サイトの紹介。本サイトは準備篇と実践篇に分かれる。準備篇は適当な短さの文章を、徹底的に考えて読む。ただし、それだけで文意は完結しないので、前後の文章を読み込むことになる。実践篇ではまとまった文書を読む。
現代文と古文の一番の違いは、句読法に準じるか否かにある。句読法とは、文を単位に文章を書くこと。現代の文章は文を単位とするため、修飾語は一文内で処理され、文をまたぐことがない。しかし、音声としての会話や、物を考えている時の意識の流れなどは、句読法になじまない。無理に句読点をつけると、語句の関係性はズタズタになり、元の姿をとどめない。古文も同じだ。この点の認識を欠くため、古典文法でさえ文を基本単位に据えてはばからない。無理な句読法で読もうとするから、解釈をゆがめてしまう。
殊に源氏物語は、語りがベースにある。語り手が作中人物の意識に入り込む。地の文と草子地との境目があいまいである。これらは、もし作者が現代語で小説を書いたとしても、句読法で律し切れない範疇であろう。テキストを重視するのであれば、先ずは句読点を外さなければならない。
次にテキストに臨む態度について。ここでは最初に文章構造を考える。最初に意味ありきという態度は取らない。古文は理解できないことを前提にする。理解できないものをどうにか理解しようとする手段として、先ず、文章構造を考える、文脈を考える、語句の本義に戻って考えるなどなど、テキストを行きつ戻りつした上で、意味が浮かび上がるのを待つ。これが理想。本サイトを「正しく読む」とした理由は、文意にあるのではない。構造理解が正しければ、正しく読めているだろうというに過ぎない。なるべくきちんと読む姿勢を身につけてもらうために、細かい議論も行ったが、大筋の構造を理解することが一番大切である。煩瑣な部分は、必要に応じて飛ばし読みしていただきたい。
では、サイトの紹介。本サイトは準備篇と実践篇に分かれる。準備篇は適当な短さの文章を、徹底的に考えて読む。ただし、それだけで文意は完結しないので、前後の文章を読み込むことになる。実践篇ではまとまった文書を読む。
本文について
現代人は、文章を読んだり書いたりする際に、一文内で主述関係を完結し、修飾語と被修飾語を離さないよう訓練を受ける。一方、本来、古文には句読点がない。一文内で文を終わらせるという意識が希薄なのだろう、終止形は発達せず、言い切る代わりに連用形でうねうねと続いて行く。数ある古典の中でも、語り主導の源氏物語はその程度が甚だしい。加えて、話者の感想や背景説明がそこかしこに挟まれる。その結果、文をいくつか飛び越えて修飾関係が成り立つことも希ではない。句読点にさえぎられると、その関係が絶たれてしまう。多くの読みの可能性を失うのだ。
(例えば、古来難読の代表格である「はひ隠れぬるをり/帚木02065」の「をり」。どのテキストもここで句点を打ち、本動詞と説明するが、意味が通らない。これは「身を隠してしまった折りに」の意味で、長い挿入文をはさんみ、数文後ろの「尼になりぬかし/02068」にかければ、文意はつながる)
現代人とて、人と話をしたり頭の中でものごとを考える際には、文単位などに縛られない。意識の上でつながる限り、ひとまとまりと考えるもの。馴れてしまえば、句読点こそ煩わしくなろう。初めて源氏物語に接する人も、長く馴染んできた人も、原文を句読点から解放し、虚心坦懐、その語るところに耳を傾けてみてはどうか。
方法論
英語の場合、日本語に堪能なネイティブと話し合いをもつことで、原文と訳文の差を埋められるが、古文ではそれができない。いくら訳文を研いたところで、畢竟、ひとりよがりをまぬがれない。意味だけでは、正しさの判断はつかないのだ。ここに、文の構造を解析する必要が生まれる。英文解釈と同様、古文においても、文の構造を正しく捉えることが重要である。
実のところ、古文の構造は単純で、係り受け(主語述語をふくむ)を押さえるだけでよい。係り受けは正否の判断もつきやすく、手直しも容易。結果を蓄積し、共有できることも大きなメリットだ。ただし、上で見たように、語り手の意識に迫らなければ、修飾関係を見誤る危険性がある。文構造の決定因子は助詞だから、助詞に注意を払いながら、前後の文章を繰り返し唱え、係り受けを決めてゆく。武器はこれ切り。読み進めれば、使い方はおのずと身につこう。いざいざ、物語の世界に分け入ろう。