01 桐壺・帚木・空蝉・夕顔

2020-03-21

01桐壺・初回(001-006)

01-001 いづれの御時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ ありけり
01-002 はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々 めざましきものにおとしめ嫉みたまふ
01-003 同じほど それより下臈の更衣たちは ましてやすからず
01-004 朝夕の宮仕へにつけても 人の心をのみ動かし 恨みを負ふ積もりにやありけむ いと篤しくなりゆき もの心細げに里がちなるを いよいよあかずあはれなるものに思ほして 人のそしりをもえ憚らせたまはず 世のためしにもなりぬべき御もてなしなり
01-005 上達部・上人などもあいなく目を側めつつ いとまばゆき人の御おぼえなり 唐土にも かかる事の起こりにこそ 世も乱れ 悪しかりけれ と やうやう天の下にもあぢきなう 人のもてなやみぐさになりて 楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに いとはしたなきこと多かれど かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ
01-006 父の大納言は亡くなりて 母北の方なむいにしへの人のよしあるにて 親うち具し さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず なにごとの儀式をももてなしたまひけれど とりたててはかばかしき後見しなければ 事ある時は なほ拠り所なく心細げなり


01桐壺・第二回(007-020)

01-007 先の世にも御契りや深かりけむ 世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ
01-008 いつしかと心もとながらせたまひて 急ぎ参らせて御覧ずるに めづらかなる稚児の御容貌なり
01-009 一の皇子は 右大臣の女御の御腹にて 寄せ重く疑ひなき儲の君と 世にもてかしづききこゆれど この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ おほかたのやむごとなき御思ひにて この君をば 私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし
01-010 初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき
01-011 おぼえいとやむごとなく 上衆めかしけれど わりなくまつはさせたまふあまりに さるべき御遊びの折々 何事にもゆゑある事のふしぶしには まづ参う上らせたまふ ある時には大殿籠もり過ぐして やがてさぶらはせたまひなど あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに おのづから軽き方にも見えしを
01-012 この御子生まれたまひて後は いと心ことに思ほしおきてたれば 坊にも ようせずは この御子の居たまふべきなめり と 一の皇子の女御は思し疑へり
01-013 人より先に参りたまひて やむごとなき御思ひなべてならず 皇女たちなどもおはしませば この御方の御諌めをのみぞ なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける
01-014 かしこき御蔭をば頼みきこえながら 落としめ疵を求めたまふ人は多く わが身はか弱くものはかなきありさまにて なかなかなるもの思ひをぞしたまふ
01-015 御局は桐壺なり
01-016 あまたの御方がたを過ぎさせたまひて ひまなき御前渡りに 人の御心を尽くしたまふも げにことわりと見えたり
01-017 参う上りたまふにも あまりうちしきる折々は 打橋 渡殿のここかしこの道に あやしきわざをしつつ 御送り迎への人の衣の裾 堪へがたく まさなきこともあり
01-018 またある時には え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ こなたかなた心を合はせて はしたなめわづらはせたまふ時も多かり
01-019 事にふれて数知らず苦しきことのみまされば いといたう思ひわびたるを いとどあはれと御覧じて 後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて 上局に賜はす
01-020 その恨みましてやらむ方なし


01桐壺・第三回(021-035)

01-021 この御子三つになりたまふ年 御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず 内蔵寮 納殿の物を尽くして いみじうせさせたまふ
01-022 それにつけても 世の誹りのみ多かれど この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを え嫉みあへたまはず
01-023 ものの心知りたまふ人は かかる人も世に出でおはするものなりけり と あさましきまで目をおどろかしたまふ
01-024 その年の夏 御息所 はかなき心地にわづらひて まかでなむとしたまふを 暇さらに許させたまはず
01-025 年ごろ 常の篤しさになりたまへれば 御目馴れて なほしばしこころみよ とのみのたまはするに 日々に重りたまひて ただ五六日のほどにいと弱うなれば 母君泣く泣く奏して まかでさせたてまつりたまふ
01-026 かかる折にも あるまじき恥もこそと心づかひして 御子をば留めたてまつりて 忍びてぞ出でたまふ
01-027 限りあれば さのみもえ留めさせたまはず 御覧じだに送らぬおぼつかなさを 言ふ方なく思ほさる
01-028 いとにほひやかにうつくしげなる人の いたう面痩せて いとあはれと ものを思ひしみながら 言に出でても聞こえやらず あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに 来し方行く末思し召されず よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど 御いらへもえ聞こえたまはず まみなどもいとたゆげにて いとどなよなよと 我かの気色にて臥したれば いかさまにと思し召しまどはる
01-029 輦車の宣旨などのたまはせても また入らせたまひて さらにえ許させたまはず
01-030 限りあらむ道にも 後れ先立たじと 契らせたまひけるを さりとも うち捨てては え行きやらじ とのたまはするを 女もいといみじと見たてまつりて
01-031 限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく思ひたまへましかば と
01-032 息も絶えつつ 聞こえまほしげなることはありげなれど いと苦しげにたゆげなれば かくながら ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに 今日始むべき祈りども さるべき人びとうけたまはれる 今宵より と 聞こえ急がせば わりなく思ほしながらまかでさせたまふ
01-033 御胸つとふたがりて つゆまどろまれず 明かしかねさせたまふ
01-034 御使の行き交ふほどもなきに なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを 夜半うち過ぐるほどになむ 絶えはてたまひぬる とて泣き騒げば 御使もいとあへなくて帰り参りぬ
01-035 聞こし召す御心まどひ 何ごとも思し召しわかれず 籠もりおはします


01桐壺・第四回(036-049)

01-036 御子は かくてもいと御覧ぜまほしけれど かかるほどにさぶらひたまふ例なきことなれば まかでたまひなむとす
01-037 何事かあらむとも思したらず さぶらふ人びとの泣きまどひ 主上も御涙のひまなく流れおはしますを あやしと見たてまつりたまへるを よろしきことにだに かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを ましてあはれに言ふかひなし
01-038 限りあれば 例の作法にをさめたてまつるを 母北の方 同じ煙にのぼりなむと 泣きこがれたまひて 御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて 愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに おはし着きたる心地 いかばかりかはありけむ
01-039 むなしき御骸を見る見る なほおはするものと思ふが いとかひなければ 灰になりたまはむを見たてまつりて 今は亡き人と ひたぶるに思ひなりなむ と さかしうのたまひつれど 車よりも落ちぬべうまろびたまへば さは思ひつかしと 人びともてわづらひきこゆ
01-040 内裏より御使あり 『三位の位贈りたまふ』よし 勅使来てその宣命読むなむ 悲しきことなりける
01-041 女御とだに言はせずなりぬるが あかず口惜しう思さるれば いま一階の位をだにと 贈らせたまふなりけり
01-042 これにつけても憎みたまふ人びと多かり
01-043 もの思ひ知りたまふは 様容貌などのめでたかりしこと 心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど 今ぞ思し出づる
01-044 さま悪しき御もてなしゆゑこそ すげなう嫉みたまひしか 人柄のあはれに 情けありし御心を 主上の女房なども恋ひしのびあへり
01-045 なくてぞとは かかる折にやと見えたり
01-046 はかなく日ごろ過ぎて 後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ
01-047 ほど経るままにせむ方なう悲しう思さるるに 御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば 見たてまつる人さへ露けき秋なり
01-048 亡きあとまで 人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな とぞ 弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける
01-049 一の宮を見たてまつらせたまふにも 若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ 親しき女房 御乳母などを遣はしつつ ありさまを聞こし召す


01桐壺・第五回(050-064)

01-050 野分立ちて にはかに肌寒き夕暮のほど 常よりも思し出づること多くて 靫負命婦といふを遣はす
01-051 夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて やがて眺めおはします
01-052 かうやうの折は 御遊びなどせさせたまひしに 心ことなる物の音を掻き鳴らし はかなく聞こえ出づる言の葉も 人よりはことなりしけはひ容貌の 面影につと添ひて思さるるにも 闇の現にはなほ劣りけり
01-053 命婦 かしこに参で着きて 門引き入るるより けはひあはれなり
01-054 やもめ住みなれど 人一人の御かしづきに とかくつくろひ立てて めやすきほどにて過ぐしたまひつる 闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに 草も高くなり 野分にいとど荒れたる心地して 月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる
01-055 南面に下ろして 母君もとみにえものものたまはず
01-056 今までとまりはべるがいと憂きを かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても いと恥づかしうなむ とて げにえ堪ふまじく泣いたまふ
01-057 参りては いとど心苦しう 心肝も尽くるやうになむと 典侍の奏したまひしを もの思うたまへ知らぬ心地にも げにこそいと忍びがたうはべりけれ とて ややためらひて 仰せ言伝へきこゆ
01-058 しばしは夢かとのみたどられしを やうやう思ひ静まるにしも 覚むべき方なく堪へがたきは いかにすべきわざにかとも 問ひあはすべき人だになきを 忍びては参りたまひなむや
01-059 若宮のいとおぼつかなく 露けき中に過ぐしたまふも 心苦しう 思さるるを とく参りたまへ など はかばかしうものたまはせやらず むせかへらせたまひつつ かつは人も心弱く見たてまつるらむと 思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに 承り果てぬやうにてなむ まかではべりぬる とて 御文奉る
01-060 目も見えはべらぬに かくかしこき仰せ言を光にてなむ とて 見たまふ
01-061 ほど経ばすこしうち紛るることもやと 待ち過ぐす月日に添へて いと忍びがたきはわりなきわざになむ いはけなき人をいかにと思ひやりつつ もろともに育まぬおぼつかなさを 今は なほ昔のかたみになずらへて ものしたまへ など こまやかに書かせたまへり
01-062 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ とあれど え見たまひ果てず
01-063 命長さの いとつらう思うたまへ知らるるに 松の思はむことだに 恥づかしう思うたまへはべれば 百敷に行きかひはべらむことは ましていと憚り多くなむ かしこき仰せ言をたびたび承りながら みづからはえなむ思ひたまへたつまじき
01-064 若宮は いかに思ほし知るにか 参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど うちうちに思うたまふるさまを奏したまへ ゆゆしき身にはべれば かくておはしますも 忌ま忌ましうかたじけなくなむ とのたまふ


01桐壺・第六回(065-080)

01-065 宮は大殿籠もりにけり
01-066 見たてまつりて くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを 待ちおはしますらむに 夜更けはべりぬべし とて急ぐ
01-067 暮れまどふ心の闇も堪へがたき 片端をだにはるくばかりに聞こえまほしうはべるを 私にも心のどかにまかでたまへ
01-068 年ごろ うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを かかる御消息にて見たてまつる 返す返すつれなき命にもはべるかな
01-069 生まれし時より 思ふ心ありし人にて 故大納言 いまはとなるまで ただ この人の宮仕への本意 かならず遂げさせたてまつれ 我れ亡くなりぬとて 口惜しう思ひくづほるなと 返す返す諌めおかれはべりしかば
01-070 はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは なかなかなるべきことと思ひたまへながら ただかの遺言を違へじとばかりに 出だし立てはべりしを 身に余るまでの御心ざしのよろづにかたじけなきに 人げなき恥を隠しつつ 交じらひたまふめりつるを 人の嫉み深く積もり 安からぬこと多くなり添ひはべりつるに 横様なるやうにて つひにかくなりはべりぬれば かへりてはつらくなむ かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる
01-071 これもわりなき心の闇になむ と 言ひもやらずむせかへりたまふほどに 夜も更けぬ
01-072 主上もしかなむ
01-073 我が御心ながら あながちに人目おどろくばかり思されしも 長かるまじきなりけりと 今はつらかりける人の契りになむ 世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを ただこの人のゆゑにて あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては かううち捨てられて 心をさめむ方なきに いとど人悪ろうかたくなになり果つるも 前の世ゆかしうなむ とうち返しつつ 御しほたれがちにのみおはします と語りて尽きせず
01-074 泣く泣く 夜いたう更けぬれば 今宵過ぐさず 御返り奏せむ と急ぎ参る
01-075 月は入り方の 空清う澄みわたれるに 風いと涼しくなりて 草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも いと立ち離れにくき草のもとなり
01-076 鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな えも乗りやらず
01-077 いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ と言はせたまふ
01-078 をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば ただかの御形見にとて かかる用もやと残したまへりける御装束一領 御髪上げの調度めく物添へたまふ
01-079 若き人びと 悲しきことはさらにも言はず 内裏わたりを朝夕にならひて いとさうざうしく 主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど
01-080 かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも いと人聞き憂かるべし また 見たてまつらでしばしもあらむは いとうしろめたう 思ひきこえたまひて すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり


01桐壺・第七回(081-105)

01-081 命婦は まだ大殿籠もらせたまはざりける と あはれに見たてまつる
01-082 御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて 忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて 御物語せさせたまふなりけり
01-083 このごろ 明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵 亭子院の描かせたまひて 伊勢 貫之に詠ませたまへる 大和言の葉をも 唐土の詩をも ただその筋をぞ 枕言にせさせたまふ
01-084 いとこまやかにありさま問はせたまふ あはれなりつること忍びやかに奏す
01-085 御返り御覧ずれば いともかしこきは置き所もはべらず かかる仰せ言につけても かきくらす乱り心地になむ
01-086 荒き風ふせぎし蔭の枯れしより小萩がうへぞ静心なき などやうに乱りがはしきを 心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし
01-087 いとかうしも見えじと 思し静むれど さらにえ忍びあへさせたまはず 御覧じ初めし年月のことさへかき集め よろづに思し続けられて 時の間もおぼつかなかりしを かくても月日は経にけり と あさましう思し召さる
01-088 故大納言の遺言あやまたず 宮仕への本意深くものしたりしよろこびは かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ 言ふかひなしや とうちのたまはせて いとあはれに思しやる
01-089 かくても おのづから 若宮など生ひ出でたまはば さるべきついでもありなむ 命長くとこそ思ひ念ぜめ などのたまはす
01-090 かの贈り物御覧ぜさす 亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば と思ほすもいとかひなし
01-091 尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
01-092 絵に描ける楊貴妃の容貌は いみじき絵師といへども 筆限りありければいとにほひ少なし
01-093 大液芙蓉未央柳も げに通ひたりし容貌を 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなりしを思し出づるに 花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき
01-094 朝夕の言種に 翼をならべ 枝を交はさむ と契らせたまひしに かなはざりける命のほどぞ 尽きせず恨めしき
01-095 風の音 虫の音につけて もののみ悲しう思さるるに 弘徽殿には 久しく上の御局にも参う上りたまはず 月のおもしろきに 夜更くるまで遊びをぞしたまふなる
01-096 いとすさまじう ものしと聞こし召す このごろの御気色を見たてまつる上人 女房などは かたはらいたしと聞きけり
01-097 いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし
01-098 月も入りぬ 雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生の宿
01-099 思し召しやりつつ 灯火をかかげ尽くして起きおはします
01-100 右近の司の宿直奏の声聞こゆるは 丑になりぬるなるべし
01-101 人目を思して 夜の御殿に入らせたまひても まどろませたまふことかたし
01-102 朝に起きさせたまふとても 明くるも知らで と思し出づるにも なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり
01-103 ものなども聞こし召さず 朝餉のけしきばかり触れさせたまひて 大床子の御膳などは いと遥かに思し召したれば 陪膳にさぶらふ限りは 心苦しき御気色を見たてまつり嘆く
01-104 すべて 近うさぶらふ限りは 男女 いとわりなきわざかな と言ひ合はせつつ嘆く
01-105 さるべき契りこそはおはしましけめ そこらの人の誹り 恨みをも憚らせたまはず この御ことに触れたることをば 道理をも失はせたまひ 今はた かく世の中のことをも 思ほし捨てたるやうになりゆくは いとたいだいしきわざなり と 人の朝廷の例まで引き出で ささめき嘆きけり


01桐壺・第八回(106-126)

01-106 月日経て 若宮参りたまひぬ
01-107 いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば いとゆゆしう思したり
01-108 明くる年の春 坊定まりたまふにも いと引き越さまほしう思せど 御後見すべき人もなく また世のうけひくまじきことなりければ なかなか危く思し憚りて 色にも出ださせたまはずなりぬるを さばかり思したれど 限りこそありけれ と 世人も聞こえ 女御も御心落ちゐたまひぬ
01-109 かの御祖母北の方 慰む方なく思し沈みて おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや つひに亡せたまひぬれば またこれを悲しび思すこと限りなし
01-110 御子六つになりたまふ年なれば このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ
01-111 年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを 見たてまつり置く悲しびをなむ 返す返すのたまひける
01-112 今は内裏にのみさぶらひたまふ
01-113 七つになりたまへば 読書始めなどせさせたまひて 世に知らず聡う賢くおはすれば あまり恐ろしきまで御覧ず
01-114 今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ 母君なくてだにらうたうしたまへ とて 弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ
01-115 いみじき武士 仇敵なりとも 見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば えさし放ちたまはず
01-116 女皇女たち二ところ この御腹におはしませど なずらひたまふべきだにぞなかりける
01-117 御方々も隠れたまはず 今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば いとをかしううちとけぬ遊び種に 誰れも誰れも思ひきこえたまへり
01-118 わざとの御学問はさるものにて 琴笛の音にも雲居を響かし すべて言ひ続けば ことごとしう うたてぞなりぬべき人の御さまなりける
01-119 そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
01-120 御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
01-121 国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
01-122 弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける
01-123 文など作り交はして 今日明日帰り去りなむとするに かくありがたき人に対面したるよろこび かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに 御子もいとあはれなる句を作りたまへるを 限りなうめでたてまつりて いみじき贈り物どもを捧げたてまつる
01-124 朝廷よりも多くの物賜はす おのづから事広ごりて 漏らさせたまはねど 春宮の祖父大臣など いかなることにかと思し疑ひてなむありける
01-125 帝 かしこき御心に 倭相を仰せて 思しよりにける筋なれば 今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを 相人はまことにかしこかりけり と思して 無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ わが御世もいと定めなきを ただ人にて朝廷の御後見をするなむ 行く先も頼もしげなめること と思し定めて いよいよ道々の才を習はさせたまふ
01-126 際ことに賢くて ただ人にはいとあたらしけれど 親王となりたまひなば 世の疑ひ負ひたまひぬべく ものしたまへば 宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも 同じさまに申せば 源氏になしたてまつるべく思しおきてたり


01桐壺・第九回(127-140)

01-127 年月に添へて 御息所の御ことを思し忘るる折なし
01-128 慰むや と さるべき人びと参らせたまへど なずらひに思さるるだにいとかたき世かな と 疎ましうのみよろづに思しなりぬるに 先帝の四の宮の 御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします 母后世になくかしづききこえたまふを 主上にさぶらふ典侍は 先帝の御時の人にて かの宮にも親しう参り馴れたりければ いはけなくおはしましし時より見たてまつり 今もほの見たてまつりて 亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を 三代の宮仕へに伝はりぬるに え見たてまつりつけぬを 后の宮の姫宮こそ いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ ありがたき御容貌人になむ と奏しけるに まことにや と 御心とまりて ねむごろに聞こえさせたまひけり
01-129 母后 あな恐ろしや 春宮の女御のいとさがなくて 桐壺の更衣の あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう と 思しつつみて すがすがしうも思し立たざりけるほどに 后も亡せたまひぬ
01-130 心細きさまにておはしますに ただ わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ と いとねむごろに聞こえさせたまふ
01-131 さぶらふ人びと 御後見たち 御兄の兵部卿の親王など かく心細くておはしまさむよりは 内裏住みせさせたまひて 御心も慰むべく など思しなりて 参らせたてまつりたまへり
01-132 藤壺と聞こゆ
01-133 げに 御容貌ありさま あやしきまでぞおぼえたまへる
01-134 これは 人の御際まさりて 思ひなしめでたく 人もえおとしめきこえたまはねば うけばりて飽かぬことなし かれは 人の許しきこえざりしに 御心ざしあやにくなりしぞかし
01-135 思し紛るとはなけれど おのづから御心移ろひて こよなう思し慰むやうなるも あはれなるわざなりけり
01-136 源氏の君は 御あたり去りたまはぬを ましてしげく渡らせたまふ御方は え恥ぢあへたまはず いづれの御方も われ人に劣らむと思いたるやはある とりどりにいとめでたけれど うち大人びたまへるに いと若ううつくしげにて 切に隠れたまへど おのづから漏り見たてまつる
01-137 母御息所も 影だにおぼえたまはぬを いとよう似たまへり と 典侍の聞こえけるを 若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて 常に参らまほしく なづさひ見たてまつらばや とおぼえたまふ
01-138 主上も限りなき御思ひどちにて な疎みたまひそ あやしくよそへきこえつべき心地なむする なめしと思さで らうたくしたまへ つらつき まみなどは いとよう似たりしゆゑ かよひて見えたまふも 似げなからずなむ など聞こえつけたまへれば 幼心地にも はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる
01-139 こよなう心寄せきこえたまへれば 弘徽殿の女御 またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ うち添へて もとよりの憎さも立ち出でて ものしと思したり
01-140 世にたぐひなしと見たてまつりたまひ 名高うおはする宮の御容貌にも なほ匂はしさはたとへむ方なく うつくしげなるを 世の人 光る君 と聞こゆ 藤壺ならびたまひて 御おぼえもとりどりなれば かかやく日の宮 と聞こゆ


01桐壺・最終回(141-183)

01-141 この君の御童姿 いと変へまうく思せど 十二にて御元服したまふ
01-142 居起ち思しいとなみて 限りある事に事を添へさせたまふ
01-143 一年の春宮の御元服 南殿にてありし儀式 よそほしかりし御響きに落とさせたまはず
01-144 所々の饗など 内蔵寮 穀倉院など 公事に仕うまつれる おろそかなることもぞと とりわき仰せ言ありて 清らを尽くして仕うまつれり
01-145 おはします殿の東の廂 東向きに椅子立てて 冠者の御座 引入の大臣の御座 御前にあり
01-146 申の時にて源氏参りたまふ
01-147 角髪結ひたまへるつらつき 顔のにほひ さま変へたまはむこと惜しげなり
01-148 大蔵卿 蔵人仕うまつる
01-149 いと清らなる御髪を削ぐほど 心苦しげなるを 主上は 御息所の見ましかば と 思し出づるに 堪へがたきを 心強く念じかへさせたまふ
01-150 かうぶりしたまひて 御休所にまかでたまひて 御衣奉り替へて 下りて拝したてまつりたまふさまに 皆人涙落としたまふ
01-151 帝はた ましてえ忍びあへたまはず 思し紛るる折もありつる昔のこと とりかへし悲しく思さる
01-152 いとかうきびはなるほどは あげ劣りやと疑はしく思されつるを あさましううつくしげさ添ひたまへり
01-153 引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女 春宮よりも御けしきあるを 思しわづらふことありける この君に奉らむの御心なりけり
01-154 内裏にも 御けしき賜はらせたまへりければ さらば この折の後見なかめるを 添ひ臥しにも ともよほさせたまひければ さ思したり
01-155 さぶらひにまかでたまひて 人びと大御酒など参るほど 親王たちの御座の末に源氏着きたまへり
01-156 大臣気色ばみきこえたまふことあれど もののつつましきほどにて ともかくもあへしらひきこえたまはず
01-157 御前より 内侍 宣旨うけたまはり伝へて 大臣参りたまふべき召しあれば 参りたまふ
01-158 御禄の物 主上の命婦取りて賜ふ 白き大袿に御衣一領 例のことなり
01-159 御盃のついでに
いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや 御心ばへありて おどろかさせたまふ
01-160 結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色し褪せずは と奏して 長橋より下りて舞踏したまふ
01-161 左馬寮の御馬 蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ
01-162 御階のもとに親王たち上達部つらねて 禄ども品々に賜はりたまふ
01-163 その日の御前の折櫃物 籠物など 右大弁なむ承りて仕うまつらせける
01-164 屯食 禄の唐櫃どもなど ところせきまで 春宮の御元服の折にも数まされり
01-165 なかなか限りもなくいかめしうなむ
01-166 その夜 大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ
01-167 作法世にめづらしきまで もてかしづききこえたまへり
01-168 いときびはにておはしたるを ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり
01-169 女君はすこし過ぐしたまへるほどに いと若うおはすれば 似げなく恥づかしと思いたり
01-170 この大臣の御おぼえいとやむごとなきに 母宮 内裏の一つ后腹になむおはしければ いづ方につけてもいとはなやかなるに この君さへかくおはし添ひぬれば 春宮の御祖父にて つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは ものにもあらず圧されたまへり
01-171 御子どもあまた腹々にものしたまふ
01-172 宮の御腹は 蔵人少将にていと若うをかしきを 右大臣の 御仲はいと好からねど え見過ぐしたまはで かしづきたまふ四の君にあはせたまへり 劣らずもてかしづきたるは あらまほしき御あはひどもになむ
01-173 源氏の君は 主上の常に召しまつはせば 心安く里住みもえしたまはず 心のうちには ただ藤壺の御ありさまを 類なしと思ひきこえて さやうならむ人をこそ見め 似る人なくもおはしけるかな 大殿の君 いとをかしげにかしづかれたる人 とは見ゆれど 心にもつかずおぼえたまひて 幼きほどの心 一つにかかりていと苦しきまでぞおはしける
01-174 大人になりたまひて後は ありしやうに御簾の内にも入れたまはず
01-175 御遊びの折々 琴笛の音に聞こえかよひ ほのかなる御声を慰めにて 内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ
01-176 五六日さぶらひたまひて 大殿に二三日など 絶え絶えにまかでたまへど ただ今は幼き御ほどに 罪なく思しなして いとなみかしづききこえたまふ
01-177 御方々の人びと 世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ
01-178 御心につくべき御遊びをし おほなおほな思しいたつく
01-179 内裏には もとの淑景舎を御曹司にて 母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせたまふ
01-180 里の殿は 修理職 内匠寮に宣旨下りて 二なう改め造らせたまふ
01-181 もとの木立 山のたたずまひ おもしろき所なりけるを 池の心広くしなして めでたく造りののしる
01-182 かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや とのみ 嘆かしう思しわたる
01-183 光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ 言ひ伝へたるとなむ


02帚木・初回(001-008)

02-001 光る源氏 名のみことことしう 言ひ消たれたまふ咎多かなるに いとど かかる好きごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむと 忍びたまひける隠ろへごとをさへ 語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ
02-002 さるは いといたく世を憚り まめだちたまひけるほど なよびかにをかしきことはなくて 交野少将には笑はれたまひけむかし
02-003 まだ中将などにものしたまひし時は 内裏にのみさぶらひようしたまひて 大殿には絶え絶えまかでたまふ
02-004 忍ぶの乱れやと 疑ひきこゆることもありしかど さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて まれには あながちに引き違へ心尽くしなることを 御心に思しとどむる癖なむ あやにくにて さるまじき御振る舞ひもうち混じりける
02-005 長雨晴れ間なきころ 内裏の御物忌さし続きて いとど長居さぶらひたまふを 大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ 御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ
02-006 宮腹の中将は なかに親しく馴れきこえたまひて 遊び戯れをも人よりは心安く なれなれしく振る舞ひたり
02-007 右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は この君もいともの憂くして 好きがましきあだ人なり
02-008 里にても わが方のしつらひまばゆくして 君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ 夜昼 学問をも遊びをももろともにして をさをさ立ちおくれず いづくにてもまつはれきこえたまふほどに おのづからかしこまりもえおかず 心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ 睦れきこえたまひける


02帚木・二回(009-031)

02-009 つれづれと降り暮らして しめやかなる宵の雨に 殿上にもをさをさ人少なに 御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに 大殿油近くて書どもなど見たまふ
02-010 近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて 中将わりなくゆかしがれば
02-011 さりぬべき すこしは見せむ かたはなるべきもこそ と 許したまはねば
02-012 そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ おしなべたるおほかたのは 数ならねど 程々につけて 書き交はしつつも見はべりなむ おのがじし 恨めしき折々 待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ 見所はあらめ と怨ずれば
02-013 やむごとなくせちに隠したまふべきなどは かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず 深くとり置きたまふべかめれば 二の町の心安きなるべし
02-014 片端づつ見るに かくさまざまなる物どもこそはべりけれ とて 心あてに それか かれか など問ふなかに 言ひ当つるもあり もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも をかしと思せど 言少なにてとかく紛らはしつつ とり隠したまひつ
02-015 そこにこそ多く集へたまふらめ すこし見ばや さてなむ この厨子も心よく開くべき とのたまへば
02-016 御覧じ所あらむこそ 難くはべらめ など聞こえたまふついでに
02-017 女の これはしもと難つくまじきは 難くもあるかなと やうやうなむ見たまへ知る
02-018 ただうはべばかりの情けに 手走り書き をりふしの答へ心得て うちしなどばかりは 随分によろしきも多かりと見たまふれど そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは いと難しや
02-019 わが心得たることばかりを おのがじし心をやりて 人をば落としめなど かたはらいたきこと多かり
02-020 親など立ち添ひもてあがめて 生ひ先籠れる窓の内なるほどは ただ片かどを聞き伝へて 心を動かすこともあめり
02-021 容貌をかしくうちおほどき 若やかにて紛るることなきほど はかなきすさびをも 人まねに心を入るることもあるに おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり
02-022 見る人 後れたる方をば言ひ隠し さてありぬべき方をばつくろひて まねび出だすに それ しかあらじと そらにいかがは推し量り思ひくたさむ まことかと見もてゆくに 見劣りせぬやうは なくなむあるべき と うめきたる気色も恥づかしげなれば
02-023 いとなべてはあらねど われ思し合はすることやあらむ うちほほ笑みて その 片かどもなき人は あらむや とのたまへば
02-024 いと さばかりならむあたりには 誰れかはすかされ寄りはべらむ
02-025 取るかたなく口惜しき際と 優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは 数等しくこそはべらめ
02-026 人の品高く生まれぬれば 人にもてかしづかれて 隠るること多く 自然にそのけはひこよなかるべし
02-027 中の品になむ 人の心々 おのがじしの立てたるおもむきも見えて 分かるべきことかたがた多かるべき
02-028 下のきざみといふ際になれば ことに耳たたずかし とて いと隈なげなる気色なるも ゆかしくて
02-029 その品々や いかに いづれを三つの品に置きてか分くべき 元の品高く生まれながら 身は沈み 位みじかくて人げなき また直人の上達部などまでなり上り 我は顔にて家の内を飾り 人に劣らじと思へる そのけぢめをば いかが分くべき と問ひたまふほどに 左馬頭 藤式部丞 御物忌に籠もらむとて参れり
02-030 世の好き者にて物よく言ひとほれるを 中将待ちとりて この品々をわきまへ定め争ふ
02-031 いと聞きにくきこと多かり


02帚木・三回(032-046)

02-032 なり上れども もとよりさるべき筋ならぬは 世人の思へることも さは言へど なほことなり
02-033 また 元はやむごとなき筋なれど 世に経るたづき少なく 時世に移ろひて おぼえ衰へぬれば 心は心としてこと足らず 悪ろびたることども出でくるわざなめれば とりどりにことわりて 中の品にぞ置くべき
02-034 受領と言ひて 人の国のことにかかづらひ営みて 品定まりたる中にも またきざみきざみありて 中の品のけしうはあらぬ 選り出でつべきころほひなり
02-035 なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの 世のおぼえ口惜しからず もとの根ざし卑しからぬ やすらかに身をもてなしふるまひたる いとかはらかなりや 家の内に足らぬことなど はたなかめるままに 省かずまばゆきまでもてかしづける女などの おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし
02-036 宮仕へに出で立ちて 思ひかけぬ幸ひとり出づる例ども多かりかし など言へば
02-037 すべて にぎははしきによるべきななり とて 笑ひたまふを 異人の言はむやうに 心得ず仰せらる と 中将憎む
02-038 元の品 時世のおぼえうち合ひ やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは さらにも言はず 何をしてかく生ひ出でけむと 言ふかひなくおぼゆべし
02-039 うち合ひてすぐれたらむもことわり これこそはさるべきこととおぼえて めづらかなることと心も驚くまじ
02-040 なにがしが及ぶべきほどならねば 上が上はうちおきはべりぬ
02-041 さて 世にありと人に知られず さびしくあばれたらむ葎の門に 思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ 限りなくめづらしくはおぼえめ
02-042 いかで はたかかりけむと 思ふより違へることなむ あやしく心とまるわざなる
02-043 父の年老い ものむつかしげに太りすぎ 兄の顔憎げに 思ひやりことなることなき閨の内に いといたく思ひあがり はかなくし出でたることわざも ゆゑなからず見えたらむ片かどにても いかが思ひの外にをかしからざらむ
02-044 すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ さる方にて捨てがたきものをは とて 式部を見やれば わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや とや心得らむ ものも言はず
02-045 いでや 上の品と思ふにだに難げなる世を と 君は思すべし
02-046 白き御衣どものなよらかなるに 直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて 紐などもうち捨てて 添ひ臥したまへる御火影 いとめでたく 女にて見たてまつらまほし この御ためには上が上を選り出でても なほ飽くまじく見えたまふ


02帚木・四回(047-061)

02-047 さまざまの人の上どもを語り合はせつつ
02-048 おほかたの世につけて見るには咎なきも わがものとうち頼むべきを選らむに 多かる中にも えなむ思ひ定むまじかりける
02-049 男の朝廷に仕うまつり はかばかしき世のかためとなるべきも まことの器ものとなるべきを取り出ださむには かたかるべしかし
02-050 されど賢しとても 一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば 上は下に輔けられ 下は上になびきて こと広きにゆつらふらむ
02-051 狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに 足らはで悪しかるべき大事どもなむかたがた多かる
02-052 とあればかかりあふさきるさにて なのめにさてもありぬべき人の少なきを 好き好きしき心のすさびにて 人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに 同じくはわが力入りをし直しひきつくろふべき所なく 心にかなふやうにもやと 選りそめつる人の定まりがたきなるべし
02-053 かならずしもわが思ふにかなはねど 見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人は ものまめやかなりと見え さて 保たるる女のためも 心にくく推し量らるるなり
02-054 されど何か 世のありさまを見たまへ集むるままに 心に及ばずいとゆかしきこともなしや 君達の上なき御選びには ましていかばかりの人かは足らひたまはむ
02-055 容貌きたなげなく若やかなるほどの おのがじしは塵もつかじと身をもてなし 文を書けどおほどかに言選りをし 墨つきほのかに心もとなく思はせつつ またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど 息の下にひき入れ言少ななるが いとよくもて隠すなりけり
02-056 なよびかに女しと見れば あまり情けにひきこめられて とりなせばあだめく これをはじめの難とすべし
02-057 事が中に なのめなるまじき人の後見の方は もののあはれ知り過ぐし はかなきついでの情けあり をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに
02-058 また まめまめしき筋を立てて 耳はさみがちに 美さうなき家刀自の ひとへにうちとけたる後見ばかりをして 朝夕の出で入りにつけても 公私の人のたたずまひ 善き悪しきことの目にも耳にもとまるありさまを 疎き人にわざとうちまねばむやは 近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと うちも笑まれ涙もさしぐみ もしはあやなきおほやけ腹立たしく心ひとつに思ひあまることなど多かるを 何にかは聞かせむと思へば うちそむかれて人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ あはれともうち独りごたるるに 何ごとぞなどあはつかにさし仰ぎゐたらむは いかがは口惜しからぬ
02-059 ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ 心もとなくとも直し所ある心地すべし
02-060 げにさし向ひて見むほどは さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを 立ち離れてさるべきことをも言ひやり をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは いと口惜しく頼もしげなき咎や なほ苦しからむ
02-061 常はすこしそばそばしく心づきなき人の をりふしにつけて出でばえするやうもありかしなど 隈なきもの言ひも 定めかねていたくうち嘆く


02帚木・五回(062-082)

02-062 今はただ 品にもよらじ 容貌をばさらにも言はじ
02-063 いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは ただひとへにものまめやかに静かなる心のおもむきならむよるべをぞ つひの頼み所には思ひおくべかりける
02-064 あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをばよろこびに思ひ すこし後れたる方あらむをもあながちに求め加へじ うしろやすくのどけき所だに強くは うはべの情けはおのづからもてつけつべきわざをや
02-065 艶にもの恥ぢして 恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて 上はつれなくみさをづくり 心一つに思ひあまる時は 言はむかたなくすごき言の葉あはれなる歌を詠みおき しのばるべき形見をとどめて 深き山里世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり
02-066 童にはべりし時 女房などの物語読みしを聞きて いとあはれに悲しく心深きことかなと涙をさへなむ落としはべりし 今思ふには いと軽々しくことさらびたることなり
02-067 心ざし深からむ男をおきて 見る目の前につらきことありとも 人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて 人をまどはし心を見むとするほどに 長き世のもの思ひになる いとあぢきなきことなり
02-068 心深しやなどほめたてられて あはれ進みぬればやがて尼になりぬかし
02-069 思ひ立つほどはいと心澄めるやうにて 世に返り見すべくも思へらず
02-070 いであな悲し かくはた思しなりにけるよなどやうに あひ知れる人来とぶらひ ひたすらに憂しとも 思ひ離れぬ男聞きつけて 涙落とせば 使ふ人古御達など 君の御心はあはれなりけるものを あたら御身をなど言ふ
02-071 みづから額髪をかきさぐりて あへなく心細ければ うちひそみぬかし
02-072 忍ぶれど涙こぼれそめぬれば 折々ごとにえ念じえず 悔しきこと多かめるに 仏もなかなか心ぎたなし と見たまひつべし
02-073 濁りにしめるほどよりも なま浮かびにては かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる
02-074 絶えぬ宿世浅からで 尼にもなさで尋ね取りたらむも やがてあひ添ひて とあらむ折もかからむきざみをも 見過ぐしたらむ仲こそ契り深くあはれならめ 我も人もうしろめたく心おかれじやは
02-075 また なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて 気色ばみ背かむ はたをこがましかりなむ 心は移ろふ方ありとも 見そめし心ざしいとほしく思はば さる方のよすがに思ひてもありぬべきに さやうならむたぢろきに 絶えぬべきわざなり
02-076 すべて よろづのことなだらかに 怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし 恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば それにつけて あはれもまさりぬべし
02-077 多くは わが心も見る人からをさまりもすべし
02-078 あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも 心安くらうたきやうなれど おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし
02-079 繋がぬ舟の浮きたる例もげにあやなし さははべらぬかと言へば 中将うなづく
02-080 さしあたりて をかしともあはれとも心に入らむ人の 頼もしげなき疑ひあらむこそ 大事なるべけれ
02-081 わが心あやまちなくて見過ぐさば さし直してもなどか見ざらむとおぼえたれど それさしもあらじ
02-082 ともかくも 違ふべきふしあらむを のどやかに見忍ばむよりほかに ますことあるまじかりけり と言ひて わが妹の姫君は この定めにかなひたまへりと思へば 君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを さうざうしく心やましと思ふ


02帚木・六回(083-093)

02-083 馬頭物定めの博士になりて ひひらきゐたり
02-084 中将は このことわり聞き果てむと 心入れて あへしらひゐたまへり
02-085 よろづのことによそへて思せ
02-086 木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも 臨時のもてあそび物の その物と跡も定まらぬは そばつきさればみたるも げにかうもしつべかりけりと 時につけつつさまを変へて 今めかしきに目移りてをかしきもあり 大事として まことにうるはしき人の調度の飾りとする 定まれるやうある物を難なくし出づることなむ なほまことの物の上手は さまことに見え分かれはべる
02-087 また絵所に上手多かれど 墨がきに選ばれて 次々にさらに劣りまさるけぢめ ふとしも見え分かれず
02-088 かかれど 人の見及ばぬ蓬莱の山 荒海の怒れる魚の姿 唐国のはげしき獣の形 目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたる物は 心にまかせてひときは目驚かして 実には似ざらめどさてありぬべし 世の常の山のたたずまひ 水の流れ 目に近き人の家居ありさま げにと見え なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて すくよかならぬ山の景色 木深く世離れて畳みなし け近き籬の内をば その心しらひおきてなどをなむ 上手はいと勢ひことに 悪ろ者は及ばぬ所多かめる
02-089 手を書きたるにも 深きことはなくて ここかしこの点長に走り書き そこはかとなく気色ばめるは うち見るにかどかどしく気色だちたれど なほまことの筋をこまやかに書き得たるは うはべの筆消えて見ゆれど 今ひとたびとり並べて見れば なほ実になむよりける
02-090 はかなきことだにかくこそはべれ まして人の心の時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば え頼むまじく思うたまへ得てはべる
02-091 そのはじめのこと 好き好きしくとも申しはべらむとて近くゐ寄れば 君も目覚ましたまふ
02-092 中将いみじく信じて 頬杖をつきて向かひゐたまへり
02-093 法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するもかつはをかしけれど かかるついではおのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける


02帚木・七回(094-116)

はやう まだいと下臈にはべりし時 あはれと思ふ人はべりき 聞こえさせつるやうに 容貌などいとまほにもはべらざりしかば 若きほどの好き心には この人をとまりにとも思ひとどめはべらず よるべとは思ひながら さうざうしくて とかく紛れはべりしを もの怨じをいたくしはべりしかば 心づきなく いとかからでおいらかならましかばと思ひつつ あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて かく数ならぬ身を見も放たで などかくしも思ふらむと 心苦しき折々もはべりて 自然に心をさめらるるやうになむはべりし この女のあるやう もとより思ひいたらざりけることにも いかでこの人のためにはと なき手を出だし 後れたる筋の心をも なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ とにかくにつけて ものまめやかに後見 つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに 進める方と思ひしかど とかくになびきてなよびゆき 醜き容貌をも この人に見や疎まれむと わりなく思ひつくろひ 疎き人に見えば 面伏せにや思はむと 憚り恥ぢて みさをにもてつけて見馴るるままに 心もけしうはあらずはべりしかど ただこの憎き方一つなむ 心をさめずはべりし そのかみ思ひはべりしやう かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり いかで懲るばかりのわざして おどして この方もすこしよろしくもなり さがなさもやめむと思ひて まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て ことさらに情けなくつれなきさまを見せて 例の腹立ち怨ずるに かくおぞましくは いみじき契り深くとも 絶えてまた見じ 限りと思はば かくわりなきもの疑ひはせよ 行く先長く見えむと思はば つらきことありとも 念じてなのめに思ひなりて かかる心だに失せなば いとあはれとなむ思ふべき 人並々にもなり すこしおとなびむに添へて また並ぶ人なくあるべきやうなど かしこく教へたつるかなと思ひたまへて われたけく言ひそしはべるに すこしうち笑ひて よろづに見立てなく ものげなきほどを見過ぐして 人数なる世もやと待つ方は いとのどかに思ひなされて 心やましくもあらず つらき心を忍びて 思ひ直らむ折を見つけむと 年月を重ねむあいな頼みは いと苦しくなむあるべければ かたみに背きぬべききざみになむある とねたげに言ふに 腹立たしくなりて 憎げなることどもを言ひはげましはべるに 女もえをさめぬ筋にて 指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを おどろおどろしくかこちて かかる疵さへつきぬれば いよいよ交じらひをすべきにもあらず 辱めたまふめる官位 いとどしく何につけてかは人めかむ 世を背きぬべき身なめりなど言ひ脅して さらば 今日こそは限りなめれと この指をかがめてまかでぬ
手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし えうらみじなど言ひはべれば さすがにうち泣きて
憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべきをり など言ひしろひはべりしかど まことには変るべきこととも思ひたまへずながら 日ごろ経るまで消息も遣はさず あくがれまかり歩くに 臨時の祭の調楽に 夜更けていみじう霙降る夜 これかれまかりあかるる所にて 思ひめぐらせば なほ家路と思はむ方はまたなかりけり 内裏わたりの旅寝すさまじかるべく 気色ばめるあたりはそぞろ寒くや と思ひたまへられしかば いかが思へると 気色も見がてら 雪をうち払ひつつ なま人悪ろく爪喰はるれど さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ と思うたまへしに 火ほのかに壁に背け 萎えたる衣どもの厚肥えたる 大いなる籠にうち掛けて 引き上ぐべきものの帷子などうち上げて 今宵ばかりやと 待ちけるさまなり さればよと心おごりするに 正身はなし さるべき女房どもばかりとまりて 親の家に この夜さりなむ渡りぬると答へはべり 艶なる歌も詠まず 気色ばめる消息もせで いとひたや籠もりに情けなかりしかば あへなき心地して さがなく許しなかりしも 我を疎みねと思ふ方の心やありけむと さしも見たまへざりしことなれど 心やましきままに思ひはべりしに 着るべき物 常よりも心とどめたる色あひ しざまいとあらまほしくて さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ 思ひやり後見たりし さりとも 絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて とかく言ひはべりしを 背きもせずと 尋ねまどはさむとも隠れ忍びず かかやかしからず答へつつ ただ ありしながらは えなむ見過ぐすまじき あらためてのどかに思ひならばなむ あひ見るべきなど言ひしを さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば しばし懲らさむの心にて しかあらためむとも言はず いたく綱引きて見せしあひだに いといたく思ひ嘆きて はかなくなりはべりにしかば 戯れにくくなむおぼえはべりし ひとへにうち頼みたらむ方は さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる はかなきあだ事をもまことの大事をも 言ひあはせたるにかひなからず 龍田姫と言はむにもつきなからず 織女の手にも劣るまじく その方も具して うるさくなむはべりし とて いとあはれと思ひ出でたり 中将 その織女の裁ち縫ふ方をのどめて 長き契りにぞあえまし げに その龍田姫の錦には またしくものあらじ はかなき花紅葉といふも をりふしの色あひつきなく はかばかしからぬは 露のはえなく消えぬるわざなり さあるにより 難き世とは 定めかねたるぞや と言ひはやしたまふ


02帚木・八回(117-134)

さて また同じころ まかり通ひし所は 人も立ちまさり 心ばせまことにゆゑありと見えぬべく うち詠み 走り書き 掻い弾く爪音 手つき口つき みなたどたどしからず見聞きわたりはべりき 見る目もこともなくはべりしかば このさがな者をうちとけたる方にて 時々隠ろへ見はべりしほどは こよなく心とまりはべりき この人亡せて後 いかがはせむ あはれながらも過ぎぬるはかひなくて しばしばまかり馴るるには すこしまばゆく 艶に好ましきことは目につかぬ所あるに うち頼むべくは見えず かれがれにのみ見せはべるほどに 忍びて心交はせる人ぞありけらし 神無月のころほひ 月おもしろかりし夜 内裏よりまかではべるに ある上人来あひてこの車にあひ乗りてはべれば 大納言の家にまかり泊まらむとするに この人言ふやう 今宵人待つらむ宿なむ あやしく心苦しきとて この女の家はた 避きぬ道なりければ 荒れたる崩れより池の水かげ見えて 月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて 下りはべりぬかし もとよりさる心を交はせるにやありけむ この男いたくすずろきて 門近き廊の簀子だつものに尻かけて とばかり月を見る 菊いとおもしろく移ろひわたり 風に競へる紅葉の乱れなど あはれと げに見えたり 懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし 蔭もよしなどつづしり謡ふほどに よく鳴る和琴を 調べととのへたりける うるはしく掻き合はせたりしほど けしうはあらずかし 律の調べは 女のものやはらかに掻き鳴らして 簾の内より聞こえたるも 今めきたる物の声なれば 清く澄める月に折つきなからず 男いたくめでて 簾のもとに歩み来て 庭の紅葉こそ 踏み分けたる跡もなけれなどねたます 菊を折りて
琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける 悪ろかめりなど言ひて 今ひと声 聞きはやすべき人のある時 手な残いたまひそなど いたくあざれかかれば女いたう声つくろひて
木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべき言の葉ぞなき となまめき交はすに 憎くなるをも知らで また 箏の琴を盤渉調に調べて 今めかしく掻い弾きたる爪音 かどなきにはあらねど まばゆき心地なむしはべりし ただ時々うち語らふ宮仕へ人などのあくまでさればみ好きたるは さても見る限りはをかしくもありぬべし 時々にても さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには 頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて その夜のことにことつけてこそ まかり絶えにしか この二つのことを思うたまへあはするに 若き時の心にだに なほさやうにもて出でたることは いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき 今より後はましてさのみなむ思ひたまへらるべき 御心のままに 折らば落ちぬべき萩の露 拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの 艶にあえかなる好き好きしさのみこそ をかしく思さるらめ 今さりとも 七年あまりがほどに思し知りはべなむ なにがしがいやしき諌めにて 好きたわめらむ女に心おかせたまへ 過ちして 見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり と戒む 中将 例のうなづく 君すこしかた笑みて さることとは思すべかめり いづ方につけても 人悪ろくはしたなかりける身物語かな とて うち笑ひおはさうず


02帚木・九回(135-157)

中将 なにがしは痴者の物語をせむ とて いと忍びて見そめたりし人のさても見つべかりしけはひなりしかば ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど 馴れゆくままにあはれとおぼえしかば 絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを さばかりになれば うち頼めるけしきも見えき 頼むにつけては 恨めしと思ふこともあらむと 心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを 見知らぬやうにて 久しきとだえをも かうたまさかなる人とも思ひたらず ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて心苦しかりしかば 頼めわたることなどもありきかし 親もなくいと心細げにて さらばこの人こそはと 事にふれて思へるさまもらうたげなりき さる憂きことやあらむとも知らず 心には忘れずながら 消息などもせで久しくはべりしに むげに思ひしをれて心細かりければ 幼き者などもありしに思ひわづらひて 撫子の花を折りておこせたりし とて涙ぐみたり さて その文の言葉は と問ひたまへば いさや ことなることもなかりきや
山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露 思ひ出でしままにまかりたりしかば 例のうらもなきものから いと物思ひ顔にて 荒れたる家の露しげきを眺めて 虫の音に競へるけしき 昔物語めきておぼえはべりし
咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき
大和撫子をばさしおきて まづ塵をだになど 親の心をとる
うち払ふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり とはかなげに言ひなして まめまめしく恨みたるさまも見えず 涙をもらし落としても いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して つらきをも思ひ知りけりと見えむは わりなく苦しきものと思ひたりしかば 心やすくて またとだえ置きはべりしほどに 跡もなくこそかき消ちて失せにしか まだ世にあらば はかなき世にぞさすらふらむ あはれと思ひしほどに わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば かくもあくがらさざらまし こよなきとだえおかず さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし かの撫子のらうたくはべりしかば いかで尋ねむと思ひたまふるを 今もえこそ聞きつけはべらね これこそのたまへるはかなき例なめれ つれなくてつらしと思ひけるも知らで あはれ絶えざりしも 益なき片思ひなりけり 今やうやう忘れゆく際に かれはたえしも思ひ離れず 折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり これなむ え保つまじく頼もしげなき方なりける されば かのさがな者も 思ひ出である方に忘れがたけれど さしあたりて見むにはわづらはしく よくせずは 飽きたきこともありなむや 琴の音すすめけむかどかどしさも 好きたる罪重かるべし この心もとなきも 疑ひ添ふべければ いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ 世の中や ただかくこそ とりどりに比べ苦しかるべき このさまざまのよき限りをとり具し 難ずべきくさはひまぜぬ人は いづこにかはあらむ 吉祥天女を思ひかけむとすれば 法気づきくすしからむこそ また わびしかりぬべけれ とて 皆笑ひぬ


02帚木・十回(158-176)

式部がところにぞ けしきあることはあらむ すこしづつ語り申せ と責めらる 下が下の中には なでふことか 聞こし召しどころはべらむ と言へど 頭の君 まめやかに 遅し と責めたまへば 何事をとり申さむと思ひめぐらすに まだ文章生にはべりし時 かしこき女の例をなむ見たまへし かの 馬頭の申したまへるやうに 公事をも言ひあはせ 私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く 才の際なまなまの博士恥づかしく すべて口あかすべくなむはべらざりし それは ある博士のもとに学問などしはべるとて まかり通ひしほどに 主人のむすめども多かりと聞きたまへて はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを 親聞きつけて 盃持て出でて わが両つの途歌ふを聴けとなむ 聞こえごちはべりしかど をさをさうちとけてもまからず かの親の心を憚りて さすがにかかづらひはべりしほどに いとあはれに思ひ後見 寝覚の語らひにも 身の才つき 朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず むべむべしく言ひまはしはべるに おのづからえまかり絶えで その者を師としてなむ わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば 今にその恩は忘れはべらねど なつかしき妻子とうち頼まむには 無才の人 なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに 恥づかしくなむ見えはべりし まいて君達の御ため はかばかしくしたたかなる御後見は 何にかせさせたまはむ はかなし 口惜し とかつ見つつも ただわが心につき 宿世の引く方はべるめれば 男しもなむ 仔細なきものははべめる と申せば 残りを言はせむとて さてさてをかしかりける女かな とすかいたまふを 心は得ながら 鼻のわたりをこづきて語りなす さて いと久しくまからざりしに もののたよりに立ち寄りてはべれば 常のうちとけゐたる方にははべらで 心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる ふすぶるにやと をこがましくも また よきふしなりとも思ひたまふるに このさかし人はた 軽々しきもの怨じすべきにもあらず 世の道理を思ひとりて恨みざりけり 声もはやりかにて言ふやう 月ごろ 風病重きに堪へかねて 極熱の草薬を服して いと臭きによりなむ え対面賜はらぬ 目のあたりならずとも さるべからむ雑事らは承らむ と いとあはれにむべむべしく言ひはべり 答へに何とかは ただ承りぬとて 立ち出ではべるに さうざうしくやおぼえけむ この香失せなむ時に立ち寄りたまへ と高やかに言ふを 聞き過ぐさむもいとほし しばしやすらふべきに はたはべらねば げにそのにほひさへ はなやかにたち添へるも術なくて 逃げ目をつかひて
ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせといふがあやなさ いかなることつけぞやと 言ひも果てず走り出ではべりぬるに 追ひて
逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひる間も何かまばゆからまし さすがに口疾くなどははべりき と しづしづと申せば 君達あさましと思ひて 嘘言 とて笑ひたまふ いづこのさる女かあるべき おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ むくつけきこと と爪弾きをして 言はむ方なし と 式部をあはめ憎みて すこしよろしからむことを申せ と責めたまへど これよりめづらしきことはさぶらひなむや とて をり


02帚木・十一回(177-186)

すべて男も女も悪ろ者は わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ いとほしけれ 三史五経 道々しき方を 明らかに悟り明かさむこそ 愛敬なからめ などかは 女といはむからに 世にあることの公私につけて むげに知らずいたらずしもあらむ わざと習ひまねばねど すこしもかどあらむ人の 耳にも目にもとまること 自然に多かるべし さるままには 真名を走り書きて さるまじきどちの女文に なかば過ぎて書きすすめたる あなうたて この人のたをやかならましかばと見えたり 心地にはさしも思はざらめど おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ ことさらびたり 上臈の中にも 多かることぞかし 歌詠むと思へる人の やがて歌にまつはれ をかしき古言をも初めより取り込みつつ すさまじき折々 詠みかけたるこそ ものしきことなれ 返しせねば情けなし えせざらむ人ははしたなからむ さるべき節会など 五月の節に急ぎ参る朝 何のあやめも思ひしづめられぬに えならぬ根を引きかけ 九日の宴に まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に 菊の露をかこち寄せなどやうの つきなき営みにあはせ さならでもおのづから げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの その折につきなく 目にとまらぬなどを 推し量らず詠み出でたる なかなか心後れて見ゆ よろづのことに などかは さても とおぼゆる折から 時々 思ひわかぬばかりの心にては よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき すべて 心に知れらむことをも 知らず顔にもてなし 言はまほしからむことをも 一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける と言ふにも 君は 人一人の御ありさまを 心の中に思ひつづけたまふ これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな と ありがたきにも いとど胸ふたがる いづ方により果つともなく 果て果てはあやしきことどもになりて 明かしたまひつ


02帚木・十二回(187-236)

からうして今日は日のけしきも直れり かくのみ籠もりさぶらひたまふも 大殿の御心いとほしければ まかでたまへり おほかたの気色 人のけはひも けざやかにけ高く 乱れたるところまじらず なほ これこそは かの 人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ と思すものから あまりうるはしき御ありさまの とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて 中納言の君 中務などやうの おしなべたらぬ若人どもに 戯れ言などのたまひつつ 暑さに乱れたまへる御ありさまを 見るかひありと思ひきこえたり 大臣も渡りたまひて うちとけたまへれば 御几帳隔てておはしまして 御物語聞こえたまふを 暑きに とにがみたまへば 人びと笑ふ あなかま とて 脇息に寄りおはす いとやすらかなる御振る舞ひなりや 暗くなるほどに 今宵 中神 内裏よりは塞がりてはべりけり と聞こゆ さかし 例は忌みたまふ方なりけり 二条の院にも同じ筋にて いづくにか違へむ いと悩ましきに とて大殿籠もれり いと悪しきことなり と これかれ聞こゆ 紀伊守にて親しく仕うまつる人の 中川のわたりなる家なむ このころ水せき入れて 涼しき蔭にはべる と聞こゆ いとよかなり 悩ましきに 牛ながら引き入れつべからむ所を とのたまふ 忍び忍びの御方違へ所は あまたありぬべけれど 久しくほど経て渡りたまへるに 方塞げて ひき違へ他ざまへと思さむは いとほしきなるべし 紀伊守に仰せ言賜へば 承りながら 退きて 伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて 女房なむまかり移れるころにて 狭き所にはべれば なめげなることやはべらむ と 下に嘆くを 聞きたまひて その人近からむなむ うれしかるべき 女遠き旅寝は もの恐ろしき心地すべきを ただその几帳のうしろに とのたまへば げに よろしき御座所にも とて 人走らせやる いと忍びて ことさらにことことしからぬ所をと 急ぎ出でたまへば 大臣にも聞こえたまはず 御供にも睦ましき限りしておはしましぬ にはかに とわぶれど 人も聞き入れず 寝殿の東面払ひあけさせて かりそめの御しつらひしたり 水の心ばへなど さる方にをかしくしなしたり 田舎家だつ柴垣して 前栽など心とめて植ゑたり 風涼しくて そこはかとなき虫の声々聞こえ 蛍しげく飛びまがひて をかしきほどなり 人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む 主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに この西面にぞ人のけはひする 衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり 格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば 火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに この近き母屋に集ひゐたるなるべし うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも 思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ ことなることなければ 聞きさしたまひつ 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す 守出で来て 灯籠掛け添へ 灯明くかかげなどして 御くだものばかり参れり とばり帳も いかにぞは さる方の心もとなくては めざましき饗応ならむ とのたまへば 何よけむとも えうけたまはらず と かしこまりてさぶらふ 主人の子ども をかしげにてあり 童なる 殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり 伊予介の子もあり これは 故衛門督の末の子にて いとかなしくしはべりけるを 幼きほどに後れはべりて 姉なる人のよすがに かくてはべるなり 才などもつきはべりぬべく けしうははべらぬを 殿上なども思ひたまへかけながら すがすがしうはえ交じらひはべらざめる と申す あはれのことや この姉君や まうとの後の親 さなむはべる と申すに 似げなき親をも まうけたりけるかな 主上にも聞こし召しおきて 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし いかになりにけむと いつぞやのたまはせし 世こそ定めなきものなれ と いとおよすけのたまふ 不意に かくてものしはべるなり 世の中といふもの さのみこそ 今も昔も 定まりたることはべらね 中についても 女の宿世は浮かびたるなむ あはれにはべる など聞こえさす 伊予介は かしづくや 君と思ふらむな いかがは 私の主とこそは思ひてはべるめるを 好き好きしきことと なにがしよりはじめて うけひきはべらずなむ と申す さりとも まうとたちのつきづきしく今めきたらむに おろしたてむやは かの介は いとよしありて気色ばめるをや など 物語したまひて 酔ひすすみて 皆人びと簀子に臥しつつ 静まりぬ


02帚木・十三回(237-276)

君はとけても寝られたまはず いたづら臥しと思さるるに御目覚めて この北の障子のあなたに人のけはひするを こなたや かくいふ人の隠れたる方ならむ あはれやと御心とどめて やをら起きて立ち聞きたまへば ありつる子の声にて ものけたまはる いづくにおはしますぞ とかれたる声のをかしきにて言へば ここにぞ臥したる 客人は寝たまひぬるか いかに近からむと思ひつるを されどけ遠かりけりと言ふ 寝たりける声のしどけなき いとよく似通ひたれば いもうとと聞きたまひつ 廂にぞ大殿籠もりぬる 音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる げにこそめでたかりけれとみそかに言ふ 昼ならましかば 覗きて見たてまつりてまし とねぶたげに言ひて 顔ひき入れつる声す ねたう 心とどめても問ひ聞けかし とあぢきなく思す まろは端に寝はべらむ あなくるし とて灯かかげなどすべし 女君は ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき 中将の君はいづくにぞ 人げ遠き心地してもの恐ろしと言ふなれば 長押の下に人びと臥して答へすなり 下に湯におりて ただ今参らむとはべると言ふ 皆静まりたるけはひなれば 掛金を試みに引きあけたまへれば あなたよりは鎖さざりけり 几帳を障子口には立てて 灯はほの暗きに 見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば 乱りがはしき中を 分け入りたまへれば ただ一人いとささやかにて臥したり なまわづらはしけれど 上なる衣押しやるまで求めつる人と思へり 中将召しつればなむ 人知れぬ思ひのしるしある心地してとのたまふを ともかくも思ひ分かれず 物に襲はるる心地して やとおびゆれど 顔に衣のさはりて音にも立てず うちつけに 深からぬ心のほどと見たまふらむ ことわりなれど 年ごろ思ひわたる心のうちも 聞こえ知らせむとてなむ かかるをりを待ち出でたるも さらに浅くはあらじと思ひなしたまへと いとやはらかにのたまひて 鬼神も荒だつまじきけはひなれば はしたなく ここに人ともえののしらず 心地はた わびしくあるまじきことと思へば あさましく 人違へにこそはべるめれと言ふも息の下なり 消えまどへる気色 いと心苦しくらうたげなれば をかしと見たまひて 違ふべくもあらぬ心のしるべを 思はずにもおぼめいたまふかな 好きがましきさまには よに見えたてまつらじ 思ふことすこし聞こゆべきぞとて いと小さやかなれば かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ 求めつる中将だつ人来あひたる ややとのたまふに あやしくて探り寄りたるにぞ いみじく匂ひみちて 顔にもくゆりかかる心地するに 思ひ寄りぬ あさましう こはいかなることぞと思ひまどはるれど 聞こえむ方なし 並々の人ならばこそ荒らかにも引きかなぐらめ それだに人のあまた知らむはいかがあらむ 心も騷ぎて慕ひ来たれど動もなくて 奥なる御座に入りたまひぬ 障子をひきたてて 暁に御迎へにものせよとのたまへば 女は この人の思ふらむことさへ死ぬばかりわりなきに 流るるまで汗になりて いと悩ましげなる いとほしけれど 例の いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ あはれ知らるばかり 情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど なほいとあさましきに 現ともおぼえずこそ 数ならぬ身ながらも 思しくたしける御心ばへのほども いかが浅くは思うたまへざらむ いとかやうなる際は際とこそはべなれとて かくおし立ちたまへるを 深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも げにいとほしく 心恥づかしきけはひなれば その際々をまだ知らぬ初事ぞや なかなか おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける おのづから聞きたまふやうもあらむ あながちなる好き心はさらにならはぬを さるべきにや げに かくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを みづからもあやしきまでなむ などまめだちてよろづにのたまへど いとたぐひなき御ありさまの いよいようちとけきこえむことわびしければ すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむ と思ひてつれなくのみもてなしたり 人柄のたをやぎたるに 強き心をしひて加へたれば なよ竹の心地して さすがに折るべくもあらず まことに心やましくて あながちなる御心ばへを 言ふ方なしと思ひて泣くさまなど いとあはれなり 心苦しくはあれど 見ざらましかば口惜しからましと思す 慰めがたく憂しと思へれば などかく疎ましきものにしも思すべき おぼえなきさまなるしもこそ 契りあるとは思ひたまはめ むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなむ いとつらきと恨みられて いとかく憂き身のほどの定まらぬ ありしながらの身にて かかる御心ばへを見ましかば あるまじき我が頼みにて見直したまふ後瀬をも 思ひたまへ慰めましを いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに たぐひなく思うたまへ惑はるるなり よし 今は見きとなかけそ とて思へるさま げにいとことわりなり おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし


02帚木・十四回(277-294)

鳥も鳴きぬ 人びと起き出でて いといぎたなかりける夜かな 御車ひき出でよなど言ふなり 守も出で来て 女などの御方違へこそ 夜深く急がせたまふべきかはなど言ふもあり 君は またかやうのついであらむこともいとかたく さしはへてはいかでか 御文なども通はむことのいとわりなきを思すに いと胸いたし 奥の中将も出でて いと苦しがれば 許したまひても また引きとどめたまひつつ いかでか聞こゆべき 世に知らぬ御心のつらさもあはれも 浅からぬ世の思ひ出では さまざまめづらかなるべき例かなとて うち泣きたまふ気色 いとなまめきたり 鶏もしばしば鳴くに 心あわたたしくて つれなきを恨みも果てぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ 女 身のありさまを思ふに いとつきなくまばゆき心地して めでたき御もてなしも何ともおぼえず 常はいとすくすくしく心づきなしと 思ひあなづる伊予の方の思ひやられて 夢にや見ゆらむと そら恐ろしくつつまし 身の憂さを嘆くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音もなかれける ことと明くなれば 障子口まで送りたまふ 内も外も人騒がしければ 引き立てて 別れたまふほど 心細く 隔つる関と見えたり 御直衣など着たまひて 南の高欄にしばしうち眺めたまふ 西面の格子そそき上げて 人びと覗くべかめる 簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを 身にしむばかり思へる好き心どもあめり 月は有明にて 光をさまれるものから かげけざやかに見えて なかなかをかしき曙なり 何心なき空のけしきも ただ見る人から 艶にもすごくも見ゆるなりけり 人知れぬ御心には いと胸いたく 言伝てやらむよすがだになきをと かへりみがちにて出でたまひぬ 殿に帰りたまひても とみにもまどろまれたまはず またあひ見るべき方なきを まして かの人の思ふらむ心の中 いかならむと 心苦しく思ひやりたまふ すぐれたることはなけれど めやすくもてつけてもありつる中の品かな 隈なく見集めたる人の言ひしことは げにと思し合はせられけり


02帚木・十五回(295-331)

このほどは大殿にのみおはします なほいとかき絶えて 思ふらむことのいとほしく御心にかかりて 苦しく思しわびて 紀伊守を召したり かの ありし中納言の子は 得させてむや らうたげに見えしを 身近く使ふ人にせむ 主上にも我奉らむとのたまへば いとかしこき仰せ言にはべるなり 姉なる人にのたまひみむと申すも 胸つぶれて思せど その姉君は 朝臣の弟や持たる さもはべらず この二年ばかりぞ かくてものしはべれど 親のおきてに違へりと思ひ嘆きて 心ゆかぬやうになむ 聞きたまふる あはれのことや よろしく聞こえし人ぞかし まことによしやとのたまへば けしうははべらざるべし もて離れてうとうとしくはべれば 世のたとひにて 睦びはべらずと申す さて 五六日ありて この子率て参れり こまやかにをかしとはなけれど なまめきたるさまして あて人と見えたり 召し入れて いとなつかしく語らひたまふ 童心地に いとめでたくうれしと思ふ いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ さるべきことは答へ聞こえなどして 恥づかしげにしづまりたれば うち出でにくし されどいとよく言ひ知らせたまふ かかることこそはと ほの心得るも 思ひの外なれど 幼な心地に深くしもたどらず 御文を持て来たれば 女 あさましきに涙も出で来ぬ この子の思ふらむこともはしたなくて さすがに 御文を面隠しに広げたり いと多くて 見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに目さへあはでぞころも経にける 寝る夜なければなど 目も及ばぬ御書きざまも 霧り塞がりて 心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり またの日 小君召したれば 参るとて御返り乞ふ かかる御文見るべき人もなし と聞こえよとのたまへば うち笑みて 違ふべくものたまはざりしものを いかがさは申さむと言ふに 心やましく 残りなくのたまはせ 知らせてけると思ふに つらきこと限りなし いで およすけたることは言はぬぞよき さは な参りたまひそとむつかられて 召すには いかでかとて 参りぬ 紀伊守 好き心にこの継母のありさまをあたらしきものに思ひて 追従しありけば この子をもてかしづきて 率てありく 君 召し寄せて 昨日待ち暮らししを なほあひ思ふまじきなめりと怨じたまへば 顔うち赤めてゐたり いづらとのたまふに しかしかと申すに 言ふかひなのことや あさましとて またも賜へり あこは知らじな その伊予の翁よりは 先に見し人ぞ されど 頼もしげなく頚細しとて ふつつかなる後見まうけて かく侮りたまふなめり さりとも あこはわが子にてをあれよ この頼もし人は 行く先短かりなむとのたまへば さもやありけむ いみじかりけることかなと思へる をかしと思す この子をまつはしたまひて 内裏にも率て参りなどしたまふ わが御匣殿にのたまひて 装束などもせさせ まことに親めきてあつかひたまふ 御文は常にあり されど この子もいと幼し 心よりほかに散りもせば 軽々しき名さへとり添へむ 身のおぼえをいとつきなかるべく思へば めでたきこともわが身からこそと思ひて うちとけたる御答へも聞こえず ほのかなりし御けはひありさまは げに なべてにやはと 思ひ出できこえぬにはあらねど をかしきさまを見えたてまつりても 何にかはなるべきなど 思ひ返すなりけり 君は思しおこたる時の間もなく 心苦しくも恋しくも思し出づ 思へりし気色などのいとほしさも 晴るけむ方なく思しわたる 軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも 人目しげからむ所に 便なき振る舞ひやあらはれむと 人のためもいとほしくと思しわづらふ


02帚木・十六回(332-356)

例の 内裏に日数経たまふころ さるべき方の忌み待ち出でたまふ にはかにまかでたまふまねして 道のほどよりおはしましたり 紀伊守おどろきて 遣水の面目とかしこまり喜ぶ 小君には 昼より かくなむ思ひよれるとのたまひ契れり 明け暮れまつはし馴らしたまひければ 今宵もまづ召し出でたり 女も さる御消息ありけるに 思したばかりつらむほどは 浅くしも思ひなされねど さりとてうちとけ 人げなきありさまを見えたてまつりてもあぢきなく 夢のやうにて過ぎにし嘆きを またや加へむと思ひ乱れて なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ 小君が出でて往ぬるほどに いとけ近ければ かたはらいたし なやましければ 忍びてうち叩かせなどせむに ほど離れてをとて 渡殿に 中将といひしが局したる隠れに 移ろひぬ さる心して 人とく静めて 御消息あれど 小君は尋ねあはず よろづの所求め歩きて 渡殿に分け入りて からうしてたどり来たり いとあさましくつらし と思ひて いかにかひなしと思さむと 泣きぬばかり言へば かく けしからぬ心ばへは つかふものか 幼き人のかかること言ひ伝ふるは いみじく忌むなるものをと言ひおどして 心地悩ましければ 人びと避けずおさへさせてなむと聞こえさせよ あやしと誰も誰も見るらむと言ひ放ちて 心の中には いと かく品定まりぬる身のおぼえならで 過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら たまさかにも待ちつけたてまつらば をかしうもやあらまし しひて思ひ知らぬ顔に見消つも いかにほど知らぬやうに思すらむと 心ながらも 胸いたく さすがに思ひ乱る とてもかくても 今は言ふかひなき宿世なりければ 無心に心づきなくて止みなむと思ひ果てたり 君は いかにたばかりなさむと まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに 不用なるよしを聞こゆれば あさましくめづらかなりける心のほどを 身もいと恥づかしくこそなりぬれと いといとほしき御気色なり とばかりものものたまはず いたくうめきて 憂しと思したり 帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな 聞こえむ方こそなけれとのたまへり 女も さすがにまどろまざりければ 数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木 と聞こえたり 小君 いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを 人あやしと見るらむとわびたまふ 例の 人びとはいぎたなきに 一所すずろにすさまじく思し続けらるれど 人に似ぬ心ざまの なほ消えず立ち上れりけるとねたく かかるにつけてこそ心もとまれと かつは思しながら めざましくつらければ さばれと思せども さも思し果つまじく 隠れたらむ所に なほ率て行けとのたまへど いとむつかしげにさし籠められて 人あまたはべるめれば かしこげにと聞こゆ いとほしと思へり よし あこだにな捨てそとのたまひて 御かたはらに臥せたまへり 若くなつかしき御ありさまを うれしくめでたしと思ひたれば つれなき人よりは なかなかあはれに思さるとぞ


03空蝉・初回(001-036)

寝られたまはぬままには 我はかく人に憎まれてもならはぬを 今宵なむ初めて 憂しと世を思ひ知りぬれば 恥づかしくて ながらふまじうこそ思ひなりぬれなどのたまへば 涙をさへこぼして臥したり いとらうたしと思す 手さぐりの 細く小さきほど 髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも 思ひなしにやあはれなり あながちにかかづらひたどり寄らむも 人悪ろかるべく まめやかにめざましと思し明かしつつ 例のやうにものたまひまつはさず 夜深う出でたまへば この子は いといとほしく さうざうしと思ふ 女も 並々ならずかたはらいたしと思ふに 御消息も絶えてなし 思し懲りにけると思ふにも やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし よきほどに かくて閉ぢめてむと思ふものから ただならず ながめがちなり 君は 心づきなしと思しながら かくてはえ止むまじう御心にかかり 人悪ろく思ほしわびて 小君に いとつらうも うれたうもおぼゆるに しひて思ひ返せど 心にしも従はず苦しきを さりぬべきをり見て 対面すべくたばかれとのたまひわたれば わづらはしけれど かかる方にても のたまひまつはすは うれしうおぼえけり 幼き心地に いかならむ折と待ちわたるに 紀伊守国に下りなどして 女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに わが車にて率てたてまつる この子も幼きを いかならむと思せど さのみもえ思しのどむまじければ さりげなき姿にて 門など鎖さぬ先にと 急ぎおはす 人見ぬ方より引き入れて 降ろしたてまつる 童なれば 宿直人などもことに見入れ追従せず 心やすし 東の妻戸に 立てたてまつりて 我は南の隅の間より 格子叩きののしりて入りぬ 御達 あらはなりと言ふなり なぞ かう暑きに この格子は下ろされたると問へば 昼より 西の御方の渡らせたまひて 碁打たせたまふと言ふ さて向かひゐたらむを見ばや と思ひて やをら歩み出でて 簾のはさまに入りたまひぬ この入りつる格子はまだ鎖さねば 隙見ゆるに 寄りて西ざまに見通したまへば この際に立てたる屏風 端の方おし畳まれたるに 紛るべき几帳なども 暑ければにや うち掛けて いとよく見入れらる 火近う灯したり 母屋の中柱に側める人やわが心かくると まづ目とどめたまへば 濃き綾の単衣襲なめり 何にかあらむ上に着て 頭つき細やかに小さき人の ものげなき姿ぞしたる 顔などは 差し向かひたらむ人などにも わざと見ゆまじうもてなしたり 手つき痩せ痩せにて いたうひき隠しためり いま一人は 東向きにて 残るところなく見ゆ 白き羅の単衣襲 二藍の小袿だつもの ないがしろに着なして 紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに ばうぞくなるもてなしなり いと白うをかしげに つぶつぶと肥えて そぞろかなる人の 頭つき額つきものあざやかに まみ口つき いと愛敬づき はなやかなる容貌なり 髪はいとふさやかにて 長くはあらねど 下り端 肩のほどきよげに すべていとねぢけたるところなく をかしげなる人と見えたり むべこそ親の世になくは思ふらめと をかしく見たまふ 心地ぞ なほ静かなる気を添へばやと ふと見ゆる かどなきにはあるまじ 碁打ち果てて 結さすわたり 心とげに見えて きはぎはとさうどけば 奥の人はいと静かにのどめて 待ちたまへや そこは持にこそあらめ このわたりの劫をこそなど言へど いで このたびは負けにけり 隅のところ いでいでと指をかがめて 十 二十 三十 四十などかぞふるさま 伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ すこし品おくれたり たとしへなく口おほひて さやかにも見せねど 目をしつけたまへれば おのづから側目も見ゆ 目すこし腫れたる心地して 鼻などもあざやかなるところなうねびれて にほはしきところも見えず 言ひ立つれば 悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて このまされる人よりは心あらむと 目とどめつべきさましたり にぎははしう愛敬づきをかしげなるを いよいよほこりかにうちとけて 笑ひなどそぼるれば にほひ多く見えて さる方にいとをかしき人ざまなり あはつけしとは思しながら まめならぬ御心は これもえ思し放つまじかりけり


03空蝉・二回(037-062)

見たまふかぎりの人は うちとけたる世なく ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ かくうちとけたる人のありさまかいま見などは まだしたまはざりつることなれば 何心もなうさやかなるはいとほしながら 久しう見たまはまほしきに 小君出で来る心地すれば やをら出でたまひぬ 渡殿の戸口に寄りゐたまへり いとかたじけなしと思ひて 例ならぬ人はべりて え近うも寄りはべらず さて 今宵もや帰してむとする いとあさましう からうこそあべけれとのたまへば などてか あなたに帰りはべりなば たばかりはべりなむと聞こゆ さもなびかしつべき気色にこそはあらめ 童なれど ものの心ばへ 人の気色見つべくしづまれるをと 思すなりけり 碁打ち果てつるにやあらむ うちそよめく心地して 人びとあかるるけはひなどすなり 若君はいづくにおはしますならむ この御格子は鎖してむとて 鳴らすなり 静まりぬなり 入りて さらば たばかれとのたまふ この子も いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば 言ひあはせむ方なくて 人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり 紀伊守の妹もこなたにあるか 我にかいま見せさせよ とのたまへど いかでか さははべらむ 格子には几帳添へてはべりと聞こゆ さかし されどもをかしく思せど 見つとは知らせじ いとほし と思して 夜更くることの心もとなさをのたまふ こたみは妻戸を叩きて入る 皆人びと静まり寝にけり この障子口に まろは寝たらむ 風吹きとほせとて 畳広げて臥す 御達 東の廂にいとあまた寝たるべし 戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば とばかり空寝して 灯明かき方に屏風を広げて 影ほのかなるに やをら入れたてまつる いかにぞ をこがましきこともこそと思すに いとつつましけれど 導くままに 母屋の几帳の帷子引き上げて いとやをら入りたまふとすれど 皆静まれる夜の 御衣のけはひやはらかなるしも いとしるかりけり 女は さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど あやしく夢のやうなることを 心に離るる折なきころにて 心とけたる寝だに寝られずなむ 昼はながめ 夜は寝覚めがちなれば 春ならぬ木の芽も いとなく嘆かしきに 碁打ちつる君 今宵は こなたにと 今めかしくうち語らひて 寝にけり 若き人は 何心なくいとようまどろみたるべし かかるけはひの いと香ばしくうち匂ふに 顔をもたげたるに 単衣うち掛けたる几帳の隙間に 暗けれど うち身じろき寄るけはひ いとしるし あさましくおぼえて ともかくも思ひ分かれず やをら起き出でて 生絹なる単衣を一つ着て すべり出でにけり 君は入りたまひて ただひとり臥したるを心やすく思す 床の下に二人ばかりぞ臥したる 衣を押しやりて寄りたまへるに ありしけはひよりは ものものしくおぼゆれど 思ほしうも寄らずかし いぎたなきさまなどぞ あやしく変はりて やうやう見あらはしたまひて あさましく心やましけれど 人違へとたどりて見えむも をこがましく あやしと思ふべし 本意の人を尋ね寄らむも かばかり逃るる心あめれば かひなう をこにこそ思はめと思す かのをかしかりつる灯影ならば いかがはせむに思しなるも 悪ろき御心浅さなめりかし


03空蝉・三回(063-105)

やうやう目覚めて いとおぼえずあさましきに あきれたる気色にて 何の心深くいとほしき用意もなし 世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは さればみたる方にて あえかにも思ひまどはず 我とも知らせじと思ほせど いかにしてかかることぞと 後に思ひめぐらさむも わがためには事にもあらねど あのつらき人の あながちに名をつつむも さすがにいとほしければ たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを いとよう言ひなしたまふ たどらむ人は心得つべけれど まだいと若き心地に さこそさし過ぎたるやうなれど えしも思ひ分かず 憎しとはなけれど 御心とまるべきゆゑもなき心地して なほかのうれたき人の心をいみじく思す いづくにはひ紛れて かたくなしと思ひゐたらむ かく執念き人はありがたきものを と思すしも あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ この人の なま心なく 若やかなるけはひもあはれなれば さすがに情け情けしく契りおかせたまふ 人知りたることよりも かやうなるは あはれも添ふこととなむ 昔人も言ひける あひ思ひたまへよ つつむことなきにしもあらねば 身ながら心にもえまかすまじくなむありける また さるべき人びとも許されじかしと かねて胸いたくなむ 忘れで待ちたまへよなど なほなほしく語らひたまふ 人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ え聞こえさすまじき とうらもなく言ふ なべて 人に知らせばこそあらめ この小さき上人に伝へて聞こえむ 気色なくもてなしたまへ など言ひおきて かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ 小君近う臥したるを起こしたまへば うしろめたう思ひつつ寝ければ ふとおどろきぬ 戸をやをら押し開くるに 老いたる御達の声にて あれは誰そ とおどろおどろしく問ふ わづらはしくて まろぞと答ふ 夜中に こは なぞ外歩かせたまふ とさかしがりて 外ざまへ来 いと憎くて あらず ここもとへ出づるぞとて 君を押し出でたてまつるに 暁近き月 隈なくさし出でて ふと人の影見えければ またおはするは 誰そと問ふ 民部のおもとなめり けしうはあらぬおもとの丈だちかなと言ふ 丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり 老人 これを連ねて歩きけると思ひて 今 ただ今立ちならびたまひなむ と言ふ言ふ 我もこの戸より出でて来 わびしければ えはた押し返さで 渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば このおもとさし寄りて おもとは 今宵は 上にやさぶらひたまひつる 一昨日より腹を病みて いとわりなければ 下にはべりつるを 人少ななりとて召ししかば 昨夜参う上りしかど なほえ堪ふまじくなむと 憂ふ 答へも聞かで あな 腹々 今聞こえむ とて過ぎぬるに からうして出でたまふ なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと いよいよ思し懲りぬべし 小君 御車の後にて 二条院におはしましぬ ありさまのたまひて 幼かりけり とあはめたまひて かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ いとほしうて ものもえ聞こえず いと深う憎みたまふべかめれば 身も憂く思ひ果てぬ などか よそにても なつかしき答へばかりはしたまふまじき 伊予介に劣りける身こそなど 心づきなしと思ひてのたまふ ありつる小袿を さすがに 御衣の下に引き入れて 大殿籠もれり 小君を御前に臥せて よろづに恨み かつは 語らひたまふ あこは らうたけれど つらきゆかりにこそ え思ひ果つまじけれ とまめやかにのたまふを いとわびしと思ひたり しばしうち休みたまへど 寝られたまはず 御硯急ぎ召して さしはへたる御文にはあらで 畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ 空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな と書きたまへるを 懐に引き入れて持たり かの人もいかに思ふらむと いとほしけれど かたがた思ほしかへして 御ことつけもなし かの薄衣は 小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり 小君 かしこに行きたれば 姉君待ちつけて いみじくのたまふ あさましかりしに とかう紛らはしても 人の思ひけむことさりどころなきに いとなむわりなき いとかう心幼きを かつはいかに思ほすらむとて 恥づかしめたまふ 左右に苦しう思へど かの御手習取り出でたり さすがに 取りて見たまふ かのもぬけを いかに 伊勢をの海人のしほなれてや など思ふもただならず いとよろづに乱れて 西の君も もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり また知る人もなきことなれば 人知れずうちながめてゐたり 小君の渡り歩くにつけても 胸のみ塞がれど 御消息もなし あさましと思ひ得る方もなくて されたる心に ものあはれなるべし つれなき人も さこそしづむれ いとあさはかにもあらぬ御気色を ありしながらのわが身ならばと 取り返すものならねど 忍びがたければ この御畳紙の片つ方に 空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな


04夕顔・初回(001-021)
六条わたりの御忍び歩きのころ 内裏よりまかでたまふ中宿に 大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける とぶらはむとて 五条なる家尋ねておはしたり 御車入るべき門は鎖したりければ 人して惟光召させて 待たせたまひけるほど むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに この家のかたはらに 桧垣といふもの新しうして 上は半蔀四五間ばかり上げわたして 簾などもいと白う涼しげなるに をかしき額つきの透影 あまた見えて覗く 立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに あながちに丈高き心地ぞする いかなる者の集へるならむと やうかはりて思さる 御車もいたくやつしたまへり 前駆も追はせたまはず 誰れとか知らむとうちとけたまひて すこしさし覗きたまへれば 門は蔀のやうなる 押し上げたる 見入れのほどなく ものはかなき住まひを あはれに 何処かさして と思ほしなせば 玉の台も同じことなり 切懸だつ物に いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに 白き花ぞ おのれひとり笑みの眉開けたる 遠方人にもの申す と独りごちたまふを 御隋身ついゐて かの白く咲けるをなむ 夕顔と申しはべる 花の名は人めきて かうあやしき垣根になむ咲きはべりけると申す げにいと小家がちに むつかしげなるわたりの このもかのも あやしくうちよろぼひて むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを 口惜しの花の契りや 一房折りて参れ とのたまへば この押し上げたる門に入りて折る さすがに されたる遣戸口に 黄なる生絹の単袴 長く着なしたる童の をかしげなる出で来て うち招く 白き扇のいたうこがしたるを これに置きて参らせよ 枝も情けなげなめる花を とて取らせたれば 門開けて惟光朝臣出で来たるして 奉らす 鍵を置きまどはしはべりて いと不便なるわざなりや もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど らうがはしき 大路に立ちおはしまして とかしこまり申す 引き入れて 下りたまふ 惟光が兄の阿闍梨 婿の三河守 娘など 渡り集ひたるほどに かくおはしましたる喜びを またなきことにかしこまる 尼君も起き上がりて 惜しげなき身なれど 捨てがたく思うたまへつることは ただ かく御前にさぶらひ 御覧ぜらるることの変りはべりなむことを口惜しく思ひたまへ たゆたひしかど 忌むことのしるしによみがへりてなむ かく渡りおはしますを 見たまへはべりぬれば 今なむ阿弥陀仏の御光も 心清く待たれはべるべき など聞こえて 弱げに泣く 日ごろ おこたりがたくものせらるるを 安からず嘆きわたりつるに かく 世を離るるさまにものしたまへば いとあはれに口惜しうなむ 命長くて なほ位高くなど見なしたまへ さてこそ 九品の上にも 障りなく生まれたまはめ この世にすこし恨み残るは 悪ろきわざとなむ聞くなど 涙ぐみてのたまふ かたほなるをだに 乳母やうの思ふべき人は あさましうまほに見なすものを まして いと面立たしう なづさひ仕うまつりけむ身も いたはしうかたじけなく思ほゆべかめれば すずろに涙がちなり 子どもは いと見苦しと思ひて 背きぬる世の去りがたきやうに みづからひそみ御覧ぜられたまふと つきしろひ目くはす 君は いとあはれと思ほして いはけなかりけるほどに 思ふべき人びとのうち捨ててものしたまひにけるなごり 育む人あまたあるやうなりしかど 親しく思ひ睦ぶる筋は またなくなむ思ほえし 人となりて後は 限りあれば 朝夕にしもえ見たてまつらず 心のままに訪らひ参づることはなけれど なほ久しう対面せぬ時は 心細くおぼゆるを さらぬ別れはなくもがな となむ こまやかに語らひたまひて おし拭ひたまへる袖のにほひも いと所狭きまで薫り満ちたるに げに よに思へば おしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと 尼君をもどかしと見つる子ども 皆うちしほたれけり


修法など またまた始むべきことなど掟てのたまはせて 出でたまふとて 惟光に紙燭召して ありつる扇御覧ずれば もて馴らしたる移り香 いと染み深うなつかしくて をかしうすさみ書きたり
〔夕顔〕 心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
そこはかとなく書き紛らはしたるも あてはかにゆゑづきたれば いと思ひのほかに をかしうおぼえたまふ 惟光に
〔源氏〕 この西なる家は何人の住むぞ 問ひ聞きたりや
とのたまへば 例のうるさき御心とは思へども えさは申さで
〔惟光〕 この五 六日ここにはべれど 病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに 隣のことはえ聞きはべらず
など はしたなやかに聞こゆれば
〔源氏〕 憎しとこそ思ひたれな されど この扇の 尋ぬべきゆゑありて見ゆるを なほ このわたりの心知れらむ者を召して問へ
とのたまへば 入りて この宿守なる男を呼びて問ひ聞く
〔惟光〕 揚名介(奥入01・自筆奥入14)なる人の家になむはべりける 男は田舎にまかりて(校訂03) 妻なむ若く事好みて はらからなど宮仕人にて来通ふ と申す 詳しきことは 下人のえ知りはべらぬにやあらむ と聞こゆ
〔源氏〕 さらば その宮仕人ななり したり顔にもの馴れて言へるかな と めざましかるべき際にやあらむ と思せど さして聞こえかかれる心の 憎からず過ぐしがたきぞ 例の この方には重からぬ御心なめるかし 御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて
〔源氏〕 寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
ありつる御随身して遣はす
まだ見ぬ御さまなりけれど いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで さしおどろかしけるを 答へたまはでほど経ければ なまはしたなきに かくわざとめかしければ あまえて いかに聞こえむ など言ひしろふべかめれど めざましと思ひて 随身は参りぬ
御前駆の松明ほのかにて いと忍びて出でたまふ 半蔀は下ろしてけり 隙々より見ゆる灯の光 蛍よりけにほのかにあはれなり
御心ざしの所には 木立 前栽など なべての所に似ず いとのどかに心にくく住みなしたまへり うちとけぬ御ありさまなどの 気色ことなるに ありつる垣根 思ほし出でらるべくもあらずかし
翌朝 すこし寝過ぐしたまひて 日さし出づるほどに出でたまふ 朝明の姿は げに人のめできこえむも ことわりなる御さまなりけり
今日もこの蔀の前渡りしたまふ 来し方も過ぎたまひけむわたりなれど ただはかなき一ふしに御心とまりて いかなる人の住み処ならむ とは 往き来に御目とまりたまひけり
[第二段 数日後 夕顔の宿の報告]
惟光 日頃ありて参れり
〔惟光〕 わづらひはべる人 なほ弱げにはべれば とかく見たまへ(校訂04)あつかひてなむ
など 聞こえて 近く参り寄りて聞こゆ
〔惟光〕 仰せられしのちなむ 隣のこと知りてはべる者 呼びて問はせはべりしかど はかばかしくも申しはべらず 『いと忍びて 五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど その人とは さらに家の内の人にだに知らせず』となむ申す
時々 中垣のかいま見しはべるに げに若き女どもの透影見えはべり 褶だつもの かこと(校訂05)ばかり引きかけて かしづく人はべるなめり
昨日 夕日のなごりなくさし入りてはべりしに 文書くとてゐてはべりし人の 顔こそいとよくはべりしか もの思へるけはひして ある人びとも忍びてうち泣くさまなどなむ しるく見えはべる
と聞こゆ 君うち笑みたまひて 知らばや と思ほしたり
おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど 御よはひのほど 人のなびきめできこえたるさまなど思ふには 好きたまはざらむも 情けなくさうざうしかるべしかし 人のうけひかぬほどにてだに なほ さりぬべきあたりのことは 好ましうおぼゆるものを と思ひをり
〔惟光〕 もし 見たまへ得ることもやはべると はかなきついで作り出でて 消息など遣はしたりき 書き馴れたる手して 口とく返り事などしはべりき いと口惜しうはあらぬ若人どもなむ はべるめる
と聞こゆれば
〔源氏〕 なほ言ひ寄れ 尋ね寄らでは さうざうしかりなむ とのたまふ
かの 下が下と 人の思ひ捨てし住まひなれど その中にも 思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらばと めづらしく思ほすなりけり

第二章 空蝉の物語
[第一段 空蝉の夫 伊予国から上京す]
さて かの空蝉の あさましくつれなきを この世の人には違ひて思すに おいらかならましかば 心苦しき過ちにてもやみぬべきを いとねたく 負けてやみなむを 心にかからぬ折なし かやうの並々までは 思ほしかからざりつるを ありし 雨夜の品定め の後 いぶかしく思ほしなる品々あるに いとど隈なくなりぬる御心なめりかし
うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を あはれと思さぬにしもあらねど つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ まづ こなたの心見果てて と思すほどに 伊予介上りぬ
まづ急ぎ参れり 舟路のしわざとて すこし黒みやつれたる旅姿 いとふつつかに心づきなし されど 人もいやしからぬ筋に 容貌などねびたれど きよげにて ただならず 気色よしづきてなどぞありける
国の物語など申すに 湯桁はいくつ と 問はまほしく思せど あいなくまばゆくて 御心のうちに思し出づることも さまざまなり
〔源氏〕 ものまめやかなる大人を かく思ふも げにをこがましく うしろめたきわざなりや げに これぞ なのめならぬ片はなべかり(校訂06)ける と 馬頭の諌め思し出でて いとほしきに つれなき心はねたけれど 人のためは あはれ と思しなさる
娘をばさるべき人に預けて 北の方をば率て下りぬべし と 聞きたまふに ひとかたならず心あわたたしくて 今一度は えあるまじきことにや と 小君を語らひたまへど 人の心を合せたらむことにてだに 軽らかにえしも紛れたまふまじきを まして 似げなきことに思ひて 今さらに見苦しかるべし と思ひ離れたり
さすがに 絶えて思ほし忘れなむことも いと言ふかひなく 憂かるべきことに思ひて さるべき折々の御答へなど なつかしく聞こえつつ なげの筆づかひにつけたる言の葉 あやしくらうたげに 目とまるべきふし加へなどして あはれと思しぬべき人のけはひなれば つれなくねたきものの 忘れがたきに思す
いま一方は 主強くなるとも 変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて とかく聞きたまへど 御心も動かずぞありける

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
[第一段 霧深き朝帰りの物語]
秋にもなりぬ 人やりならず 心づくしに思し乱るることどもありて 大殿には 絶え間置きつつ 恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり
六条わたりにも とけがたかりし御気色を おもむけ聞こえたまひて後 ひき返し なのめならむはいとほしかし されど よそなりし御心惑ひのやうに あながちなる事はなきも いかなることにかと見えたり
女は いとものをあまりなるまで 思ししめたる御心ざまにて 齢のほども似げなく 人の漏り聞かむに いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め 思ししをるること いとさまざまなり
霧のいと深き朝 いたくそそのかされたまひて ねぶたげなる気色に うち嘆きつつ出でたまふを 中将のおもと 御格子一間上げて 見たてまつり送りたまへ とおぼしく 御几帳引きやりたれば 御頭もたげて見出だしたまへり
前栽の色々乱れたるを 過ぎがてにやすらひたまへるさま げにたぐひなし 廊の方へおはするに 中将の君 御供に参る 紫苑色の折にあひたる 羅の裳 鮮やかに引き結ひたる腰つき たをやかになまめきたり
見返りたまひて 隅の間の高欄に しばし ひき据ゑたまへり うちとけたらぬもてなし 髪の下がりば めざましくも と見たまふ
〔源氏〕 咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
いかがすべき
とて 手をとらへたまへれば いと馴れて とく
〔中将君〕 朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて花に心を止めぬとぞ見る
と おほやけごとにぞ聞こえなす
をかしげなる侍童の 姿このましう ことさらめきたる 指貫 裾 露けげに 花の中に混りて 朝顔折りて参るほどなど 絵に描かまほしげなり
大方に うち見たてまつる人だに 心とめたてまつらぬはなし 物の情け知らぬ山がつも 花の蔭には なほやすらはまほしきにや この御光を見たてまつるあたりは ほどほどにつけて 我がかなしと思ふ女を 仕うまつらせばやと願ひ もしは 口惜しからずと思ふ妹など持たる人は 卑しきにても なほ この御あたりにさぶらはせむと 思ひ寄らぬはなかりけり
まして さりぬべきついでの御言の葉も なつかしき御気色を見たてまつる人の すこし物の心思ひ知るは いかがはおろかに思ひきこえむ 明け暮れうちとけてしもおはせぬを 心もとなきことに思ふべかめり

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
[第一段 源氏 夕顔の宿に忍び通う]
まことや かの惟光が預かりのかいま見は いとよく案内見とりて申す
〔惟光〕 その人とは さらにえ思ひえはべらず(校訂07) 人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ 見えはべるを つれづれなるままに 南の半蔀ある長屋に わたり来つつ 車の音すれば 若き者どもの覗きなどすべかめるに この主とおぼしきも はひわたる時はべかめる 容貌なむ ほのかなれど いとらうたげにはべる
一日 前駆追ひて渡る車のはべりしを 覗きて 童女の急ぎて 『右近の君こそ まづ物見たまへ 中将殿こそ これより渡りたまひぬれ』と言へば また よろしき大人出で来て 〔右近〕『あなかま』と 手かくものから 『いかでさは知るぞ いで 見む』とて はひ渡る 打橋だつものを道にてなむ 通ひはべる 急ぎ来るものは 衣の裾を物に引きかけて よろぼひ倒れて 橋よりも落ちぬべければ 『いで この葛城の神こそ さがしうしおきたれ』と むつかりて 物覗きの心も冷めぬめりき 〔童女〕『君は 御直衣姿にて 御随身どももありし なにがし くれがし』と数へしは 頭中将の随身 その小舎人童をなむ しるしに言ひはべりし など聞こゆれば
〔源氏〕 たしかにその車をぞ見まし
とのたまひて もし かのあはれに忘れざりし人にや と 思ほしよるも いと知らまほしげなる御気色を見て
〔惟光〕 私の懸想もいとよくしおきて 案内も残るところなく見たまへおきながら ただ 我れどちと知らせて 物など言ふ若きおもとのはべるを そらおぼれしてなむ 隠れまかり(校訂08)歩く いとよく隠したりと思ひて 小さき子どもなどのはべるが言誤りしつべきも 言ひ紛らはして また人なきさまを強ひてつくりはべる など 語りて笑ふ
〔源氏〕 尼君の訪ひにものせむついでに かいま見せさせよ とのたまひけり
かりにても 宿れる住ひのほどを思ふに これこそ かの人の定め あなづりし下の品ならめ その中に 思ひの外にをかしきこともあらば など 思すなりけり
惟光 いささかのことも御心に違はじと思ふに おのれも隈なき好き心にて いみじくたばかりまどひ歩きつつ しひておはしまさせ初めてけり このほどのこと くだくだしければ 例のもらしつ
女 さしてその人と尋ね出でたまはねば 我も名のりをしたまはで いとわりなくやつれたまひつつ 例ならず下り立ちありきたまふは おろかに思されぬなるべし と見れば 我が馬をばたてまつりて 御供に走りありく
〔惟光〕 懸想人のいとものげなき足もとを 見つけられてはべらむ時 からくもあるべきかな(校訂09) とわぶれど 人に知らせたまはぬままに かの夕顔のしるべせし随身ばかり さては 顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ 率ておはしける もし思ひよる気色もや とて 隣に中宿をだにしたまはず
女も いとあやしく心得ぬ心地のみして 御使に人を添へ 暁の道をうかがはせ 御在処見せむと尋ぬれど そこはかとなくまどはしつつ さすがに あはれに見ではえあるまじく この人の御心にかかりたれば 便なく軽々しきことと 思ほし返しわびつつ いとしばしばおはします
かかる筋は まめ人の乱るる折もあるを いとめやすくしづめたまひて 人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを あやしきまで 今朝のほど 昼間の隔ても おぼつかなくなど 思ひわづらはれたまへば かつは いともの狂ほしく さまで心とどむべきことのさまにもあらずと いみじく思ひさましたまふに 人のけはひ いとあさましくやはらかにおほどきて もの深く重き方はおくれて ひたぶるに若びたるものから 世をまだ知らぬにもあらず いとやむごとなきにはあるまじ いづくにいとかうしもとまる心ぞ と返す返す思す
いとことさらめきて 御装束をもやつれたる狩の御衣をたてまつり(校訂10) さまを変へ 顔をもほの見せたまはず 夜深きほどに 人をしづめて出で入りなどしたまへば 昔ありけむものの変化めきて うたて思ひ嘆かるれど 人の御けはひ(校訂11) はた 手さぐりもしるべきわざなりければ 誰ればかりにかはあらむ なほこの好き者のし出でつるわざなめり と 大夫を疑ひながら せめてつれなく知らず顔にて かけて思ひよらぬさまに たゆまずあざれありけば いかなることにかと心得がたく 女方も あやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける
[第二段 八月十五夜の逢瀬]
君も かくうらなくたゆめてはひ隠れなば いづこをはかりとか 我も尋ねむ かりそめの隠れ処と はた見ゆめれば いづ方にもいづ方にも 移ろひゆかむ日を いつとも知らじ と思すに 追ひまどはして なのめに思ひなしつべくは ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを さらにさて過ぐしてむ と思されず と 人目を思して 隔ておきたまふ夜な夜ななどは いと忍びがたく 苦しきまでおぼえたまへば なほ誰れとなくて 二条院に迎へてむ もし聞こえありて 便なかるべきことなりとも さるべきにこそは 我が心ながら いとかく人にしむことはなきを いかなる契りにかはありけむ など 思ほしよる
〔源氏〕 いざ いと心安き所にて のどかに聞こえむ
など 語らひたまへば
〔夕顔〕 なほ あやしう かくのたまへど 世づかぬ御もてなしなれば もの恐ろしくこそあれ
と いと若びて言へば げに と ほほ笑まれたまひて
〔源氏〕 げに いづれか狐なるらむな ただはかられたまへかし
と なつかしげにのたまへば 女もいみじくなびきて さもありぬべく思ひたり 世になく かたはなることなりとも ひたぶるに従ふ心は いとあはれげなる人 と見たまふに なほ かの頭中将の常夏疑はしく 語りし心ざま まづ思ひ出でられたまへど 忍ぶるやうこそは と あながちにも問ひ出でたまはず
気色ばみて ふと背き隠る(校訂12)べき心ざまなどはなければ かれがれにとだえ置かむ折こそは さやうに思ひ変ることもあらめ 心ながらも すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ とさへ 思しけり
八月十五夜 隈なき月影 隙多かる板屋 残りなく漏り来て 見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに 暁近くなりにけるなるべし 隣の家々 あやしき賤の男の声々 目覚まして
〔隣人〕 あはれ いと寒しや
〔隣人〕 今年こそ なりはひにも頼むところすくなく 田舎の通ひも思ひかけねば いと心細けれ 北殿こそ 聞きたまふや
など 言ひ交はすも聞こゆ
いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて そそめき騒ぐもほどなきを 女いと恥づかしく思ひたり
艶だち気色ばまむ人は 消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし されど のどかに つらきも憂きもかたはらいたきことも 思ひ入れたるさまならで 我がもてなしありさまは いとあてはかにこめかしくて またなくらうがはしき隣の用意なさを いかなる事とも聞き知りたるさまならねば なかなか 恥ぢかかやかむよりは 罪許されてぞ見えける
ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく 踏み轟かす唐臼の音も 枕上とおぼゆる あな 耳かしかまし と これにぞ思さるる 何の響きとも聞き入れたまはず いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ くだくだしきことのみ多かり
白妙の衣うつ砧の音も かすかにこなたかなた聞きわたされ 空飛ぶ雁の声 取り集めて 忍びがたきこと多かり 端近き御座所なりければ 遣戸を引き開けて もろともに見出だしたまふ ほどなき庭に されたる呉竹(校訂13) 前栽の露は なほかかる所も同じごときらめきたり 虫の声々乱りがはしく 壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に さし当てたるやうに鳴き乱るるを なかなかさまかへて思さるるも 御心ざし一つの浅からぬに よろづの罪許さるるなめりかし
白き袷 薄色のなよよかなるを重ねて はなやかならぬ姿 いとらうたげにあえかなる心地して そこと取り立ててすぐれたることもなけれど 細やかにたをたをとして ものうち言ひたるけはひ あな 心苦し と ただいとらうたく見ゆ 心ばみたる方をすこし添へたらば と見たまひながら なほうちとけて見まほしく思さるれば
〔源氏〕 いざ ただこのわたり近き所に 心安くて明かさむ かくてのみは いと苦しかりけり とのたまへば
〔夕顔〕 いかで にはかならむ
と いとおいらかに言ひてゐたり この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに うちとくる心ばへなど あやしくやう変はりて 世馴れたる人ともおぼえねば 人の思はむ所も え憚りたまはで 右近を召し出でて 随身を召させたまひて 御車引き入れさせたまふ このある人びとも かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば おぼめかしながら 頼みかけきこえたり
明け方も近うなりにけり 鶏の声などは聞こえで 御嶽精進にやあらむ ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる 起ち居のけはひ 堪へがたげに行ふ いとあはれに 朝の露に異ならぬ世を 何を貧る身の祈りにか と 聞きたまふ 南無当来導師 とぞ拝むなる
〔源氏〕 かれ 聞きたまへ この世とのみは思はざりけり と あはれがりたまひて
〔源氏〕 優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契り違ふな
長生殿の古き例(奥入02・自筆奥入05)はゆゆしくて 翼を交さむとは引きかへて 弥勒の世をかねたまふ 行く先の御頼め いとこちたし
〔夕顔〕 前の世の契り知らるる身の憂さに行く末かねて頼みがたさよ
かやうの筋なども さるは 心もとなかめり
[第三段 なにがしの院に移る]
いさよふ月に ゆくりなくあくがれむことを 女は思ひやすらひ とかくのたまふほど にはかに雲隠れて 明け行く空いとをかし はしたなきほどにならぬ先にと 例の急ぎ出でたまひて 軽らかにうち乗せたまへれば 右近ぞ乗りぬる
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて 預り召し出づるほど 荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる たとしへなく木暗し 霧も深く 露けきに 簾をさへ上げたまへれば 御袖もいたく濡れにけり
〔源氏〕 まだかやうなることを慣らはざりつるを 心尽くしなることにもありけるかな
いにしへもかくやは人の惑ひけむ我がまだ知らぬしののめの道
慣らひたまへりや
とのたまふ 女 恥ぢらひて
〔夕顔〕 山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ
心細く
とて もの恐ろしうすごげに思ひたれば かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ と をかしく思す
御車入れさせて 西の対に御座などよそふほど 高欄に御車ひきかけて立ちたまへり 右近 艶なる心地(校訂14)して 来し方のことなども 人知れず思ひ出でけり 預りいみじく経営しありく気色に この御ありさま知りはてぬ
ほのぼのと物見ゆるほどに 下りたまひぬめり かりそめなれど 清げにしつらひたり
〔下家司〕 御供に人もさぶらはざりけり 不便なるわざかな とて むつましき下家司にて 殿にも仕うまつる者なりければ 参りよりて さるべき人召すべきにや など 申さすれど
〔源氏〕 ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり(校訂15) さらに心よりほかに漏らすな と口がためさせたまふ
御粥など急ぎ参らせたれど 取り次ぐ御まかなひうち合はず まだ知らぬことなる御旅寝に 息長川(自筆奥入06) と契りたまふことよりほかのことなし
日たくるほどに起きたまひて 格子手づから上げたまふ いといたく荒れて 人目もなくはるばると見渡されて 木立いとうとましくものふりたり け近き草木などは ことに見所なく みな秋の野ら(校訂16)にて 池も水草に埋もれたれば いとけうとげに(校訂17)なりにける所かな 別納の方にぞ 曹司などして 人住むべかめれど こなたは離れたり
〔源氏〕 けうとくも(校訂18)なりにける所かな さりとも 鬼なども我をば見許してむ とのたまふ
顔はなほ隠したまへれど 女のいとつらしと思へれば げに かばかりにて隔てあらむも ことのさまに違ひたり と思して
〔源氏〕 夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えし縁にこそありけれ
露の光やいかに
とのたまへば 後目に見おこせて
〔夕顔〕 光ありと見し夕顔のうは露はたそかれ時のそら目なりけり
とほのかに言ふ をかしと思しなす げに うちとけたまへるさま 世になく 所から まいてゆゆしきまで見えたまふ
〔源氏〕 尽きせず隔てたまへるつらさに あらはさじと思ひつるものを 今だに名のりしたまへ いとむくつけし
とのたまへど 〔夕顔〕 海人の子なれば とて さすがにうちとけぬさま いとあいだれたり
〔源氏〕 よし これも『我から』なめり と 怨みかつは語らひ 暮らしたまふ
惟光 尋ねきこえて 御くだものなど参らす 右近が言はむこと さすがにいとほしければ 近くもえさぶらひ寄らず かくまでたどり歩きたまふ をかしう さもありぬべきありさまにこそは と推し量るにも 〔惟光〕 我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを 譲りきこえて 心ひろさよ など めざましう思ひをる
たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて 奥の方は暗うものむつかしと 女は思ひたれば 端の簾を上げて 添ひ臥したまへり 夕映えを見交はして 女も かかるありさまを 思ひのほかにあやしき心地はしながら よろづの嘆き忘れて すこしうちとけゆく気色 いとらうたし つと御かたはらに添ひ暮らして 物をいと恐ろしと思ひたるさま 若う心苦し 格子とく下ろしたまひて 大殿油参らせて 〔源氏〕 名残りなくなりにたる御ありさまにて なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき と 恨みたまふ
内裏に いかに求めさせたまふらむを いづこに尋ぬらむ と 思しやりて かつは あやしの心や 六条わたりにも いかに思ひ乱れたまふらむ 恨みられむに 苦しう ことわりなり と いとほしき筋は まづ思ひきこえたまふ 何心もなきさしむかひを あはれと思すままに あまり心深く 見る人も苦しき御ありさまを すこし取り捨てばや と 思ひ比べられたまひける
[第四段 夜半 もののけ現われる]
宵過ぐるほど すこし寝入りたまへるに 御枕上に いとをかしげなる女ゐて
〔もののけ〕 己がいとめでたしと見たてまつるをば 尋ね思ほさで かく ことなることなき人を率ておはして 時めかしたまふこそ いとめざましくつらけれ
とて この御かたはらの人をかき起こさむとす と見たまふ
物に襲はるる心地して おどろきたまへれば 火も消えにけり うたて思さるれば 太刀を引き抜きて うち置きたまひて 右近を起こしたまふ これも恐ろしと思ひたるさまにて 参り寄れり
〔源氏〕 渡殿なる宿直人起こして 『紙燭さして参れ』と言へ とのたまへば
〔右近〕 いかでかまからむ 暗うて と言へば
〔源氏〕 あな 若々し と うち笑ひたまひて 手をたたきたまへば 山彦の答ふる声 いとうとまし 人え聞きつけで(校訂19)参らぬに この女君 いみじくわななきまどひて いかさまにせむと思へり 汗もしとどになりて 我かの気色なり
〔右近〕 物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて いかに思さるるにか と 右近も聞こゆ いとか弱くて 昼も空をのみ見つるものを いとほし と思して
〔源氏〕 我 人を起こさむ 手たたけば 山彦の答ふる いとうるさし ここに しばし 近く
とて 右近を引き寄せたまひて 西の妻戸に出でて 戸を押し開けたまへれば 渡殿の火も消えにけり
風すこしうち吹きたるに 人は少なくて さぶらふ限りみな寝たり この院の預りの子 むつましく使ひたまふ若き男 また上童一人 例の随身ばかりぞありける 召せば 御答へして起きたれば
〔源氏〕 紙燭さして参れ 『随身も 弦打して 絶えず声づくれ』と仰せよ 人離れたる所に 心とけて寝ぬるものか 惟光朝臣の来たりつらむは と 問はせたまへば
〔管理人子〕 さぶらひつれど 仰せ言もなし 暁に御迎へに参るべきよし申してなむ まかではべりぬる と聞こゆ この かう申す者は 滝口なりければ 弓弦いとつきづきしくうち鳴らして 火あやふし と言ふ言ふ 預りが曹司(校訂20)の方に去ぬなり 内裏を思しやりて 名対面(自筆奥入13)は過ぎぬらむ 滝口の宿直奏し 今こそ と 推し量りたまふは まだ いたう更けぬにこそは
帰り入りて 探りたまへば 女君はさながら臥して 右近はかたはらにうつぶし臥したり
〔源氏〕 こはなぞ あな もの狂ほしの物怖ぢや 荒れたる所は 狐などやうのものの 人を脅やかさむとて け恐ろしう思はするならむ まろあれば さやうのものには脅されじ とて 引き起こしたまふ
〔右近〕 いとうたて 乱り心地の悪しうはべれば うつぶし臥してはべるや 御前にこそわりなく思さるらめ と言へば
〔源氏〕 そよ などかうは とて かい探りたまふに 息もせず 引き動かしたまへど なよなよとして 我にもあらぬさまなれば いといたく若びたる人にて 物にけどられぬるなめり と せむかたなき心地したまふ
紙燭持て参れり 右近も動くべきさまにもあらねば 近き御几帳を引き寄せて
〔源氏〕 なほ持て参れ
とのたまふ 例ならぬことにて 御前近くもえ参らぬ つつましさに 長押にもえ上らず
〔源氏〕 なほ持て来や 所に従ひてこそ
とて 召し寄せて見たまへば ただこの枕上に 夢に見えつる容貌したる女 面影に見えて ふと消え(校訂21)失せぬ
昔の物語などにこそ かかることは聞け と いとめづらかにむくつけけれど まづ この人いかになりぬるぞ と思ほす心騒ぎに 身の上も知られたまはず 添ひ臥して 〔源氏〕 やや と おどろかしたまへど ただ冷えに冷え入りて 息は疾く絶え果てにけり 言はむかたなし 頼もしく いかにと言ひ触れたまふべき人もなし 法師などをこそは かかる方の頼もしきものには思すべけれど さこそ強がりたまへど 若き御心にて いふかひなくなりぬるを見たまふに やるかたなくて つと抱きて
〔源氏〕 あが君 生き出でたまへ いといみじき目 な見せたまひそ
とのたまへど 冷え入りにたれば けはひものうとくなりゆく
右近は ただ あな むつかし と思ひける心地みな冷めて 泣き惑ふさま いといみじ
南殿の鬼の なにがしの大臣脅やかしけるたとひ(奥入04・自筆奥入09)を思し出でて 心強く
〔源氏〕 さりとも いたづらになり果てたまはじ 夜の声はおどろおどろし あなかま
と諌めたまひて いとあわたたしきに あきれたる心地したまふ
この男を召して
〔源氏〕 ここに いとあやしう 物に襲はれたる人のなやましげなるを ただ今 惟光朝臣の宿る所にまかりて 急ぎ参るべきよし言へ と仰せよ なにがし阿闍梨 そこにものするほどならば ここに来べきよし 忍びて言へ かの尼君などの聞かむに おどろおどろしく言ふな かかる歩き許さぬ人なり
など 物のたまふやうなれど 胸塞がりて この人を空しくしなしてむことの いみじく思さるるに添へて 大方のむくむくしさ たとへむ方なし
夜中も過ぎにけむかし 風のやや荒々しう吹きたるは まして 松の響き 木深く聞こえて 気色ある鳥のから声に鳴きたるも 梟 はこれにやとおぼゆ うち思ひめぐらすに こなたかなた けどほく疎ましきに 人声はせず などて かくはかなき宿りは取りつるぞ と 悔しさもやらむ方なし
右近は 物もおぼえず 君につと添ひたてまつりて わななき死ぬべし また これも いかならむ と 心そらにて捉へたまへり 我一人さかしき人にて 思しやる方ぞなきや
火はほのかにまたたきて 母屋の際に立てたる屏風の上 ここかしこの隈々しくおぼえたまふに 物の足音 ひしひしと踏み鳴らしつつ 後ろより寄り来る心地す 惟光 とく参らなむ と思す ありか定めぬ者にて ここかしこ尋ねけるほどに 夜の明くるほどの久しさは 千夜を過ぐさむ心地(奥入03・自筆奥入08)したまふ
からうして(校訂22) 鶏の声はるかに聞こゆるに 命をかけて 何の契りに かかる目を見るらむ 我が心ながら かかる筋に おほけなくあるまじき心の報いに かく 来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり 忍ぶとも 世にあること隠れなくて 内裏に聞こし召さむをはじめて 人の思ひ言はむこと よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり ありありて をこがましき名をとるべきかな と 思しめぐらす
[第五段 源氏 二条院に帰る]
からうして 惟光朝臣参れり 夜中 暁といはず 御心に従へる者の 今宵しもさぶらはで 召しにさへおこたりつるを 憎しと思すものから 召し入れて のたまひ出でむことのあへなきに ふとも物言はれたまはず 右近 大夫のけはひ聞くに 初めよりのこと うち思ひ出でられて泣くを 君もえ堪へたまはで 我一人さかしがり抱き持たまへりけるに この人に息をのべたまひてぞ 悲しきことも思されける とばかり いといたく えもとどめず泣きたまふ
ややためらひて ここに いとあやしきことのあるを あさましと言ふにもあまりてなむある(校訂23) かかるとみの事には 誦経などをこそはすなれとて その事どももせさせむ 願なども立てさせむとて 阿闍梨(校訂24)ものせよ と言ひつるは とのたまふに
〔惟光〕 昨日 山へまかり上りにけり まづ いとめづらかなることにもはべるかな かねて 例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ
〔源氏〕 さることもなかりつ とて 泣きたまふさま いとをかしげにらうたく 見たてまつる人もいと悲しくて おのれもよよと泣きぬ
さいへど 年うちねび 世の中のとあることと しほじみぬる人こそ もののをりふしは頼もしかりけれ いづれもいづれも若きどちにて 言はむ方もなけれど
〔惟光〕 この院守などに聞かせむことは いと便なかるべし この人一人こそ睦しくもあらめ おのづから物言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ まづ この院を出でおはしましね と言ふ
〔源氏〕 さて これより人少ななる所はいかでかあらむ とのたまふ
〔惟光〕 げに さぞはべらむ かの故里は 女房などの 悲しびに堪へず 泣き惑ひはべらむに 隣しげく とがむる里人多くはべらむに おのづから聞こえはべらむを 山寺こそ なほかやうのこと おのづから行きまじり 物紛るることはべらめ と 思ひまはして 〔惟光〕 昔 見たまへし女房の 尼にてはべる東山の辺に 移したてまつらむ 惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の みづはぐみて住みはべるなり 辺りは 人しげきやうにはべれど いとかごかにはべり
と聞こえて 明けはなるるほどの紛れに 御車寄す
この人をえ抱きたまふまじければ 上蓆におしくくみて 惟光乗せたてまつる いとささやかにて 疎ましげもなく らうたげなり したたかにしもえせねば 髪はこぼれ出でたるも 目くれ惑ひて あさましう悲し と思せば なり果てむさまを見むと思せど
〔惟光〕 はや 御馬にて 二条院へおはしまさむ 人騒がしくなりはべらぬほどに
とて 右近を添へて乗すれば 徒歩より 君に馬はたてまつりて くくり引き上げなどして かつは いとあやしく おぼえぬ送りなれど 御気色のいみじきを見たてまつれば 身を捨てて行くに 君は物もおぼえたまはず 我かのさまにて おはし着きたり
人びと いづこより おはしますにか なやましげに見えさせたまふ など言へど 御帳の内に入りたまひて 胸をおさへて思ふに いといみじければ などて 乗り添ひて行かざりつらむ 生き返りたらむ時 いかなる心地せむ 見捨てて行きあかれにけりと つらくや思はむ と 心惑ひのなかにも 思ほすに 御胸せきあぐる心地したまふ 御頭も痛く 身も熱き心地して いと苦しく 惑はれたまへば かくはかなくて 我もいたづらになりぬるなめり と思す
日高くなれど 起き上がりたまはねば 人びとあやしがりて 御粥などそそのかしきこゆれど 苦しくて いと心細く思さるるに 内裏より御使あり 昨日 え尋ね出でたてまつらざりしより おぼつかながらせたまふ 大殿の君達参りたまへど 頭中将ばかりを 立ちながら こなたに入りたまへ とのたまひて 御簾の内ながらのたまふ
〔源氏〕 乳母にてはべる者の この五月のころほひより 重くわづらひはべりしが 頭剃り忌むこと受けなどして そのしるしにや よみがへりたりしを このごろ またおこりて 弱くなむなりにたる 『今一度 とぶらひ見よ』と申したりしかば いときなきよりなづさひし者の 今はのきざみに つらしとや思はむ と思うたまへてまかれりしに その家なりける下人の 病しけるが にはかに出であへで亡くなりにけるを 怖ぢ憚りて 日を暮らしてなむ 取り出ではべりけるを 聞きつけはべりしかば 神事なるころ いと不便なること と思うたまへかしこまりて え参らぬなり この暁より しはぶき病みにやはべらむ 頭いと痛くて苦しくはべれば いと無礼にて聞こゆること
などのたまふ 中将
〔頭中将〕 さらば さるよしをこそ奏しはべらめ 昨夜も 御遊びに かしこく求めたてまつらせたまひて 御気色悪しくはべりき と聞こえたまひて 立ち返り いかなる行き触れにかからせたまふぞや 述べやらせたまふことこそ まことと思うたまへられね
と言ふに 胸つぶれたまひて
〔源氏〕 かく こまかにはあらで ただ おぼえぬ穢らひに触れたるよしを 奏したまへ いとこそ たいだいしくはべれ
と つれなくのたまへど 心のうちには 言ふかひなく悲しきことを思すに 御心地も悩ましければ 人に目も見合せたまはず 蔵人弁を召し寄せて まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ 大殿などにも かかることありて え参らぬ御消息など聞こえたまふ
[第六段 十七日夜 夕顔の葬送]
日暮れて 惟光参れり かかる穢らひありとのたまひて 参る人びとも 皆立ちながらまかづれば 人しげからず 召し寄せて
〔源氏〕 いかにぞ 今はと見果てつや
とのたまふままに 袖を御顔に押しあてて泣きたまふ 惟光も泣く泣く
〔惟光〕 今は限りにこそはものしたまふめれ 長々と籠もりはべらむも便なきを 明日なむ 日よろしくはべれば(校訂25) とかくの事 いと尊き老僧の あひ知りてはべるに 言ひ語らひつけはべりぬる と聞こゆ
〔源氏〕 添ひたりつる女は いかに とのたまへば
〔惟光〕 それなむ また え生くまじくはべるめる 我も後れじと惑ひはべりて 今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる 〔右近〕『かの故里人に告げやらむ』と申せど 〔惟光〕『しばし 思ひしづめよ と ことのさま思ひめぐらして』となむ こしらへおきはべりつる
と 語りきこゆるままに いといみじと思して
〔源氏〕 我も いと心地悩ましく いかなるべきにかとなむおぼゆる とのたまふ
〔惟光〕 何か さらに思ほしものせさせたまふ さるべきにこそ よろづのことはべらめ 人にも漏らさじと思うたまふれば 惟光おり立ちて よろづはものしはべる など申す
〔源氏〕 さかし さ 皆思ひなせど 浮かびたる心のすさびに 人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが いとからきなり 少将の命婦などにも聞かすな 尼君ましてかやうのことなど 諌めらるるを 心恥づかしくなむおぼゆべき と 口かためたまふ
〔惟光〕 さらぬ法師ばらなどにも 皆 言ひなすさま異にはべる
と聞こゆるにぞ かかりたまへる
ほの聞く女房など あやしく 何ごとならむ 穢らひのよしのたまひて 内裏にも参りたまはず また かくささめき嘆きたまふ と ほのぼのあやしがる
〔源氏〕 さらに事なくしなせ と そのほどの作法のたまへど
〔惟光〕 何か ことことしくすべきにもはべらず
とて立つが いと悲しく思さるれば
〔源氏〕 便なしと思ふべけれど 今一度 かの亡骸を見ざらむが いといぶせかるべきを 馬にて(校訂26)ものせむ
とのたまふを いとたいだいしきこととは思へど
〔惟光〕 さ思されむは いかがせむ はや おはしまして 夜更けぬ先に帰らせおはしませ
と申せば このごろの御やつれにまうけたまへる 狩の御装束着 替へなどして出でたまふ
御心地かきくらし いみじく堪へがたければ かくあやしき道に出で立ちても 危かりし物懲りに いかにせむと思しわづらへど なほ悲しさのやる方なく ただ今の骸を見では またいつの世にかありし容貌をも見む と 思し念じて 例の大夫 随身を具して出でたまふ
道遠くおぼゆ 十七日の月さし出でて 河原のほど 御前駆の火もほのかなるに 鳥辺野の方など見やりたるほどなど ものむつかしきも 何ともおぼえたまはず かき乱る心地したまひて おはし着きぬ
辺りさへすごきに 板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ いとあはれなり 御燈明の影 ほのかに透きて見ゆ その屋には 女一人泣く声のみして 外の方に 法師ばら二 三人物語しつつ わざとの声立てぬ念仏ぞする 寺々の初夜も みな行ひ果てて いとしめやかなり 清水の方ぞ 光多く見え 人のけはひもしげかりける この尼君の子なる大徳の声尊くて 経うち読みたるに 涙の残りなく思さる
入りたまへれば 灯取り背けて 右近は屏風隔てて臥したり いかにわびしからむと 見たまふ 恐ろしきけもおぼえず いとらうたげなるさまして まだいささか変りたるところなし 手をとらへて
〔源氏〕 我に 今一度 声をだに聞かせたまへ いかなる昔の契りにかありけむ しばしのほどに 心を尽くしてあはれに思ほえしを うち捨てて 惑はしたまふが いみじきこと
と 声も惜しまず 泣きたまふこと 限りなし
大徳たちも 誰とは知らぬに あやしと思ひて 皆 涙落としけり
右近を 〔源氏〕 いざ 二条へ とのたまへど
〔右近〕 年ごろ 幼くはべりしより 片時たち離れたてまつらず 馴れきこえつる人に にはかに別れたてまつりて いづこにか帰りはべらむ いかになりたまひにきとか 人にも言ひはべらむ 悲しきことをばさるものにて 人に言ひ騒がれはべらむが いみじきこと と言ひて 泣き惑ひて 煙にたぐひて 慕ひ参りなむ と言ふ
〔源氏〕 道理なれど さなむ世の中はある 別れと言ふもの 悲しからぬはなし とあるもかかるも 同じ命の限りあるものになむある 思ひ慰めて 我を頼め と のたまひこしらへて かく言ふ我が身こそは 生きとまるまじき心地すれ
とのたまふも 頼もしげなしや
惟光 夜は 明け方になりはべりぬらむ はや帰らせたまひなむ
と聞こゆれば 返りみのみせられて 胸もつと塞がりて出でたまふ
道いと露けきに いとどしき朝霧に いづこともなく惑ふ心地したまふ ありしながらうち臥したりつるさま うち交はしたまへりしが 我が御紅の御衣の着られたりつるなど いかなりけむ契りにかと 道すがら思さる 御馬にも はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば また 惟光添ひ助けておはしまさするに 堤のほどにて 御馬よりすべり下りて いみじく御心地惑ひければ

〔源氏〕 かかる道の空にて はふれぬべきにやあらむ さらに え行き着くまじき心地なむする
とのたまふに 惟光 心地惑ひて 我がはかばかしくは さのたまふとも かかる道に率て出でたてまつるべきかは と思ふに いと心あわたたしければ 川の水(校訂27)に手を洗ひて 清水の観音を念じたてまつりても すべなく思ひ惑ふ
君も しひて御心を起こして 心のうちに仏を念じたまひて また とかく助けられたまひてなむ 二条院へ帰りたまひける
あやしう夜深き御歩きを 人びと 見苦しきわざかな このごろ 例よりも静心なき御忍び歩きのしきるなかにも 昨日の御気色の いと悩ましう思したりしに いかでかく たどり歩きたまふらむ と 嘆きあへり
まことに 臥したまひぬるままに いといたく苦しがりたまひて 二 三日になりぬるに むげに弱るやうにしたまふ 内裏にも 聞こしめし 嘆くこと限りなし 御祈り 方々に隙なくののしる 祭 祓 修法など 言ひ尽くすべくもあらず 世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば 世に長くおはしますまじきにやと 天の下の人の騷ぎなり
苦しき御心地にも かの右近を召し寄せて 局など近くたまひて さぶらはせたまふ 惟光 心地も騒ぎ惑へど 思ひのどめて この人のたづきなしと思ひたるを もてなし助けつつさぶらはす
君は いささか隙ありて思さるる時は 召し出でて使ひなどすれば ほどなく交じらひつきたり 服 いと黒くして 容貌などよからねど かたはに見苦しからぬ若人なり
〔源氏〕 あやしう短かかりける御契りにひかされて 我も世にえあるまじきなめり(校訂28) 年ごろの頼み失ひて 心細く思ふらむ慰めにも もしながらへば よろづに育まむとこそ思ひしか ほどなく またたち添ひぬべきが 口惜しくもあるべきかな
と 忍びやかにのたまひて 弱げに泣きたまへば 言ふかひなきことをばおきて いみじく惜し と思ひきこゆ
殿のうちの人 足を空にて思ひ惑ふ 内裏より 御使 雨の脚よりもけにしげし 思し嘆きおはしますを聞きたまふに いとかたじけなくて せめて強く思しなる 大殿も経営したまひて 大臣 日々に渡りたまひつつ さまざまのことをせさせたまふ しるしにや 二十余日 いと重くわづらひたまひつれど ことなる名残のこらず おこたるさまに見えたまふ
穢らひ忌みたまひしも 一つに(校訂29)満ちぬる夜なれば おぼつかながらせたまふ御心 わりなくて 内裏の御宿直所に参りたまひなどす 大殿 我が御車にて迎へたてまつりたまひて 御物忌なにやと むつかしう慎ませたてまつりたまふ 我にもあらず あらぬ世によみがへりたるやうに しばしはおぼえたまふ
[第七段 忌み明ける]
九月二十日のほどにぞ おこたり果てたまひて いといたく面痩せたまへれど なかなか いみじく(校訂30)なまめかしくて ながめがちに ねをのみ泣きたまふ 見たてまつりとがむる人もありて 御物の怪なめり など言ふもあり
右近を召し出でて のどやかなる夕暮に 物語などしたまひて
〔源氏〕 なほ いとなむあやしき などてその人と知られじとは 隠いたまへりしぞ まことに海人の子なりとも さばかりに思ふを知らで 隔てたまひしかばなむ つらかりし とのたまへば
〔右近〕 などてか 深く隠しきこえたまふことははべらむ いつのほどにてかは 何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ 初めより あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば 『現ともおぼえずなむある』とのたまひて 『御名隠しも さばかりにこそは』と聞こえたまひながら 『なほざりにこそ 紛らはしたまふらめ』となむ 憂きことに思したりし と聞こゆれば
〔源氏〕 あいなかりける心比べどもかな 我は しか隔つる心もなかりき ただ かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ まだ慣らはぬことなる 内裏に諌めのたまはするをはじめ つつむこと多かる身(校訂正31)にて はかなく人にたはぶれごとを言ふも 所狭う 取りなしうるさき身のありさまになむあるを はかなかりし夕べより あやしう心にかかりて あながちに見たてまつりしも かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも あはれになむ またうち返し つらうおぼゆる かう長かるまじきにては など さしも心に染みて あはれとおぼえたまひけむ なほ詳しく語れ 今は 何ごとを隠すべきぞ 七日七日に仏描かせても 誰が為とか 心のうちにも思はむ とのたまへば
〔右近〕 何か 隔てきこえさせはべらむ 自ら 忍び過ぐしたまひしことを 亡き御うしろに 口さがなくやは と思うたまふばかりになむ
親たちは はや亡せたまひにき 三位中将となむ聞こえし いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど 我が身のほどの心もとなさを思すめりしに 命さへ堪へたまはずなりにしのち はかなきもののたよりにて 頭中将なむ まだ少将にものしたまひし時 見初めたてまつらせたまひて 三年ばかりは 志あるさまに通ひたまひしを 去年の秋ごろ かの右の大殿より いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に せむかたなく思し怖ぢて 西の京に 御乳母住みはべる所になむ はひ隠れたまへりし それもいと見苦しきに 住みわびたまひて 山里に移ろひなむと思したりしを 今年よりは塞がりける方にはべりければ 違ふとて あやしき所にものしたまひしを 見あらはされたてまつりぬることと 思し嘆くめりし 世の人に似ず ものづつみをしたまひて 人に物思ふ気色を見えむを 恥づかしきものにしたまひて つれなくのみもてなして 御覧ぜられたてまつりたまふめりしか
と 語り出づるに さればよ と 思しあはせて いよいよあはれまさりぬ
〔源氏〕 幼き人惑はしたりと 中将の愁へしは さる人や と問ひたまふ
〔右近〕 しか 一昨年の春ぞ ものしたまへりし 女にて いとらうたげになむ と語る
〔源氏〕 さて いづこにぞ 人にさとは知らせで 我に得させよ あとはかなく いみじと思ふ御形見に いとうれしかるべくなむ とのたまふ かの中将にも伝ふべけれど 言ふかひなきかこと負ひなむ とざまかうざまにつけて 育まむに咎あるまじきを そのあらむ乳母などにも ことざまに言ひなして ものせよかし など語らひたまふ
〔右近〕 さらば いとうれしくなむはべるべき かの西の京にて生ひ出でたまはむは 心苦しくなむ はかばかしく扱ふ人なしとて かしこに など聞こゆ
夕暮の静かなるに 空の気色いとあはれに 御前の前栽枯れ枯れに 虫の音も鳴きかれて 紅葉のやうやう色づくほど 絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして 心よりほかにをかしき交じらひかなと かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし 竹の中に家鳩といふ鳥の ふつつかに鳴くを聞きたまひて かのありし院にこの鳥の鳴きしを いと恐ろしと思ひたりしさまの 面影にらうたく思し出でらるれば
〔源氏〕 年はいくつにかものしたまひし あやしく世の人に似ず あえかに見えたまひしも かく長かるまじくてなりけり とのたまふ
〔右近〕 十九にやなりたまひけむ 右近は 亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ 三位の君のらうたがりたまひて かの御あたり去らず 生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば いかでか世にはべらむずらむ いとしも人に(自筆奥入07)と 悔しくなむ ものはかなげにものしたまひし人の御心を 頼もしき人にて 年ごろならひはべりけること と聞こゆ
〔源氏〕 はかなびたるこそは らうたけれ かしこく人になびかぬ いと心づきなきわざなり 自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに 女は ただやはらかに とりはづして人に欺かれぬべきが さすがにものづつみし 見む人の心には従はむなむ あはれにて 我が心のままにとり直して見むに なつかしくおぼゆべき などのたまへば
〔右近〕 この方の御好みには もて離れたまはざりけり と思ひたまふるにも 口惜しくはべるわざかな とて泣く
空のうち曇りて 風冷やかなるに いといたく眺めたまひて
〔源氏〕 見し人の煙を雲と眺むれば夕べの空もむつましきかな
独りごちたまへど えさし答へも聞こえず かやうにて おはせましかば と思ふにも 胸塞がりておぼゆ 耳かしかましかりし砧の音を 思し出づるさへ恋しくて 正に長き夜(自筆奥入10) とうち誦じて 臥したまへり

第五章 空蝉の物語(2)
[第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答]
かの 伊予の家の小君 参る折あれど ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば 憂しと思し果てにけるを いとほしと思ふに かくわづらひたまふを聞きて さすがにうち嘆きけり 遠く下りなどするを さすがに心細ければ 思し忘れぬるかと 試みに
〔空蝉〕 承り(校訂32) 悩むを 言に出でては えこそ
問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
『益田(自筆奥入11)』はまことになむ
と聞こえたり めづらしきに これもあはれ忘れたまはず
〔源氏〕 『生けるかひなき(自筆奥入11)』や 誰が言はましことにか
空蝉の世は憂きものと知りにしをまた(校訂33)言の葉にかかる命よ
はかなしや
と 御手もうちわななかるるに 乱れ書きたまへる いとどうつくしげなり なほ かのもぬけを忘れたまはぬを いとほしうもをかしうも思ひけり
かやうに憎からずは 聞こえ交はせど け近くとは思ひよらず さすがに 言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなむ と思ふなりけり
かの片つ方は 蔵人少将をなむ通はす と聞きたまふ あやしや いかに思ふらむ と 少将の心のうちもいとほしく また かの人の気色もゆかしければ 小君して 死に返り思ふ心は 知りたまへりや と言ひ遣はす
〔源氏〕 ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかことを何にかけまし
高やかなる荻に付けて 忍びて とのたまにつれど 取り過ちて 少将も見つけて 我なりけりと思ひあはせば さりとも 罪ゆるしてむ と思ふ 御心おごりぞ あいなかりける
少将のなき折に(校訂34)見すれば 心憂しと思へど かく思し出でたるも さすがにて 御返り 口ときばかりをかことにて取らす
〔軒端荻〕 ほのめかす風につけても下荻の半ばは霜にむすぼほれつつ
手は悪しげなるを 紛らはし さればみて書いたるさま 品なし 火影に見し顔 思し出でらる うちとけで向ひゐたる人は え疎み果つまじきさまもしたりしかな 何の心ばせありげもなく さうどき誇りたりしよ と思し出づるに 憎からず なほ こりずまに またもあだ名立ちぬべき(自筆奥入12) 御心のすさびなめり

 

第六章 夕顔の物語(3)
[第一段 四十九日忌の法要]
かの人の四十九日 忍びて比叡の法華堂にて 事そがず 装束よりはじめて さるべきものども こまかに 誦経などせさせたまひぬ 経 仏の飾りまでおろかならず 惟光が兄の阿闍梨 いと尊き人にて 二なうしけり
御書の師にて 睦しく思す文章博士召して 願文作らせたまふ その人となくて あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを 阿弥陀仏に譲りきこゆるよし あはれげに書き出でたまへれば
〔文章博士〕 ただかくながら 加ふべきことはべらざめり と申す
忍びたまへど 御涙もこぼれて いみじく思したれば 〔文章博士〕 何人ならむ その人と聞こえもなくて かう思し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ と言ひけり 忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴を取り寄せさせたまひて
〔源氏〕 泣く泣くも今日は我が結ふ下紐をいづれの世にかとけて見るべき
このほどまでは漂ふなるを いづれの道に定まりて赴く(校訂35)らむ と思ほしやりつつ 念誦をいとあはれにしたまふ 頭中将を見たまふにも あいなく胸騒ぎて かの撫子の生ひ立つありさま 聞かせまほしけれど かことに怖ぢて うち出でたまはず
かれ かの夕顔の宿りには いづ方にと思ひ惑へど そのままにえ尋ねきこえず 右近だに訪れねば あやしと思ひ嘆きあへり 確かならねど けはひをさばかりにやと ささめきしかば 惟光をかこちけれど いとかけ離れ 気色なく言ひなして なほ同じごと好き歩きければ いとど夢の心地して もし 受領の子どもの好き好きしきが 頭の君に怖ぢきこえて やがて 率て下りにけるにや とぞ 思ひ寄りける
この家主人ぞ 西の京の乳母の女なりける 三人その子はありて 右近は他人なりければ 思ひ隔てて 御ありさまを聞かせぬなりけり と 泣き恋ひけり 右近 はた(校訂36) かしかましく言ひ騒がむを思ひて 君も今さらに漏らさじと忍びたまへば 若君の上をだにえ聞かず あさましく行方なくて過ぎゆく(校訂36)
君は 夢をだに見ばや と 思しわたるに この法事したまひて またの夜 ほのかに かのありし院ながら 添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ 荒れたりし所に住みけむ物の 我に見入れけむたよりに かくなりぬること と 思し出づるにもゆゆしくなむ

第七章 空蝉の物語(3)
[第一段 空蝉 伊予国に下る]
伊予介 神無月の朔日ごろに下る 女房の下らむにとて 手向け心ことにせさせたまふ また 内々にもわざとしたまひて こまやかにをかしきさまなる櫛 扇多くして 幣などわざとがましくて かの小袿も遣はす
〔源氏〕 逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
こまかなることどもあれど うるさければ書かず
御使 帰りにけれど 小君して 小袿の御返りばかりは聞こえさせたり
〔空蝉〕 蝉の羽もたちかへてける夏衣かへすを見てもねは泣かれけり
思へど あやしう人に似ぬ心強さにても ふり離れぬるかな と思ひ続けたまふ 今日ぞ 冬立つ日なりけるも しるく うちしぐれて 空の気色いとあはれなり 眺め暮らしたまひて
〔源氏〕 過ぎにしも今日別るるも二道に行く方知らぬ秋の暮かな
なほ かく人知れぬことは苦しかりけりと 思し知りぬらむかし かやうのくだくだしきことは あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて みな漏らしとどめたるを など 帝の御子ならむからに 見む人さへ かたほならずものほめがちなる と 作りごとめきてとりなす人 ものしたまひければなむ あまりもの言ひさがなき罪 さりどころなく

2020-03-21

Posted by 管理者